「懐かしの児童文学を読み返そう」プロジェクト絶賛遂行中でございます。

なんかもう、最近のものを読む気がすっかりなくなってきました……。最近のものというか、殺伐とした感じのものはもういいや、という感じ。「昔は良かった」と過去を振り返るのは年取った証拠なのでしょうか。

でも子供の頃読んだものを大人になって読み返すとまた新たな発見があって面白いですし、『秘密の花園』『リンバロストの乙女』といった作品って、決して「子どもだけが読むもの」じゃないですよね。

昔読んだものは抄訳だったりしますし。

というわけで、『若草物語』です。子どもの頃、大好きだった作品。昭和世代の子どもなら、ちゃんと読んだことはなくてもそのタイトルと、「四人姉妹のお話」ということは当たり前のように知っていたのではないでしょうか。

4人姉妹の子が「若草物語やな」と言われたりしていましたもの。

講談社版『世界少年少女文学全集』でも読みましたし、親戚か誰かがプレゼントしてくれた単行本(どこの出版社のものか覚えてない)も家にありました。

著者ルイザ・メイ・オルコットの自伝的作品である『若草物語』。作者自身をモデルにした次女ジョーが、子どもの頃の私のお気に入りでした。

何しろジョーは、お話を書く!
書くどころか、15歳にして新聞に小説が載ってしまう!!!

おおお、なんて優秀なんだ、ジョー。そりゃ『若草物語』の作者だもんな、何十年も読み継がれる作品を遺した方だもん、双葉より芳しいよな。
(『若草物語』は1868年に発表されているので、今年でちょうど150年。何十年どころじゃない)

『若草物語』を初めて読んだ小学校低学年の頃はまだ小説書いたりしてなかったけど(どちらかというと漫画家になりたかった)、すでに頭の中でお話を作るのはやっていた気がするし、ジョーに非常な親近感を持っていたことからして、「私もジョーみたいになる!」と思っていたのでは。

しかもジョー、姉妹の中では「男役」なんですよね。活発で、あまり女の子らしくない。

「私おとなになったなんて考えるだけでぞっとするわ。そしてミス・マーチなんてものになって長いドレスを着て、エゾ菊みたいにつんとすましてるなんてさ。とにかく女の子だっていうのがいけないのよ。私は遊びだって仕事だって態度だって、男の子のようにやりたいのに。男の子でなかったのがくやしくってたまらないわ」 (P13)

今読み返しても共感しかないぞ、ジョー。
活発ではなかったものの、「女の子らしさ」など持ちあわせていなかった子どもの私。宝塚の男役に憧れ、オスカル様に憧れ、「男だったら良かったのに」と思っていました。

周りからも、私が男で弟が女の子だったら良かったのに、と言われたりして。

マーチ家の「Little Women」、長女メグ16歳、次女ジョー15歳、三女ベス13歳、四女エイミー12歳の一年間を描く物語。父親が日頃彼女たちを「Little Women」と呼んでいるところから原題が取られているんですが、よくこれを「若草物語」と訳しましたよねぇ。昔の日本人のセンスよ。

父親マーチ氏は従軍牧師として戦地に行って不在。非常によくできた優しく、時に厳しい母親マーチ夫人と、お手伝いのハンナとともに暮らす四人。それまであまり交流のなかったお隣のお金持ちローレンス氏とその孫ローリー(テディ)と仲良くなったり、イギリスから来たローリーの知り合いとちょっとしたキャンプに行ったり、学校でのできごと、恐ろしい猩紅熱、そしてロマンス……。

後半、ベスが生死の境をさまよう大事件が起こるものの、最後に著者自らが「家庭劇(ホーム・ドラマ)」と言っているように、描かれるのは「なんでもない日常」

メグが良いドレスを欲しがったり、エイミーが学校にライムを持って行って「屈辱」を受けたり、母親の留守中、最初は真面目に一生懸命それぞれの仕事に励んでいたのが「こんなにがんばったんだからちょっと休んだっていいわよね」とだらだらしてしまうところとか、21世紀の日本でも「あるある」「わかる」で面白く読める。

みんなが学校にライムを持ってきていて、エイミーもやっと姉たちにお金を融通してもらって張りきって持って行ったら、クラスメートにチクられて、「今度持ってきた子がいたらみんなの前でお仕置きだと言っておいたでしょ!」と罰を受ける。せっかくのライムもすべて捨てさせられて。

エイミーだけでなく、エイミーからそのライムをもらおうと思っていた友だちたちもショックを受け、そもそも他にもライムを持ってきてた子はいるわけで、たまたまその日告げ口されてしまったエイミーだけが叱られ、手を竹の笞で打たれる。

ああーって思うよね。
そういうことあるよなぁ。悔しいよなぁ。不公平だよなぁ、って。

家に帰って母や姉たちにその憤懣を訴えたエイミー、「あんな学校にはもう通わなくてよろしい」ということになります。
おおっ、なんて物わかりのいい家族! うらやま!!!

けれど母親が憤ったのは「笞で打つ」という体罰に関してであって、「先生の言葉を守らなかったのは悪い。罰を受けること自体は当然です」ときっぱりエイミーに言うのです。

マーチ夫人、本当に最初から最後までずっと、非常に教育的で倫理的で、自分のところだって決して裕福ではない(どころか苦労している)のに、よそのもっと貧しい家へクリスマスの朝食を全部持っていってしまったりします。

「どう、みんな、あなたたちの朝ご飯をクリスマス・プレゼントにあげることにしたら?」
一時間近くも待ったあげくだったので、みんなは特別おなかがすいていた。それでとっさにはだれも返事をしなかった。 (P33)

それでも全員が「そうしましょう」と言っていそいそとパンやお菓子を包んで持って行く……うーん、すごい。とても真似できない。

娘たちは母親を尊敬し、心から慕っていて、その薫陶のもとで日々「よい人間であろう」と努めています。本当にいい子たちだけれど、それでも「仕事なんか嫌ね」「こんな服しかないなんて」と「あたりまえの不満」を述べるところがリアルで、「説教くさい教養物語」とは違う、生き生きとしたお話になっています。

出かけようとする姉二人に向かってエイミーが「どこ行くの?」と尋ね、

「どこだっていいわよ。子供はいろんなこときくもんじゃありません」ジョーがつっけんどんに答えた。さて、だれでも子供のころ、何がしゃくにさわるといって、そんなふうに言われるのほどしゃくにさわることはないものである。 (P136-P137)

と答えられるシーンも「あるある」すぎる。

せっかく自分が楽しみをしようというのに、こうるさい子供のめんどうをみるなんて、考えてもぞっとするのであった。 (P139)

ジョーのこの気持ち、「上の子」なら大抵の人は「めっちゃわかる」のでは。
こんなあしらいを受けて悲しく悔しいエイミーの気持ちもわかるけど、「上の子」としてはやはりジョーに肩入れしてしまう。

しかもエイミー、腹いせにジョーの原稿を焼いちゃうんですよ。

ちょ、待って、原稿を焼くってあんたそれ、絶対やったらあかんやつ!殺されても文句言えんやつやで!!!

彼女はついこのごろそれをていねいに清書して、古い原稿のほうは破って捨てたばかりのところだったから、エイミーの焼き打ちは数年間のいとしい骨折りを焼きつくしたということになる。他人の目にはそれはわずかな損失と思われたかもしれない。しかしジョーにとっては恐ろしい災難だった。それはもう二度と埋め合わせのつくことではないと思われた。 (P143)

原稿ってほんまね、「もっかい書いたらええやん」ちゅうもんやないんですよ。たとえ作者でもね、一言一句なんか覚えてへんしね。文章は一期一会、唯一無二なんです。二度と同じものは書かれへんの。

私なら気ぃ狂う。エイミー絶対許さへん! 他の家族がみんなエイミーの味方したら他の家族への信頼もいっぺんに消えて、一生心の傷として残ると思います。

ところが。
ジョーはエイミーを許す。
氷の張った池で溺れかけたエイミーを必死になって助ける。そりゃあ、いくら腹が立っていたとしたって、妹が溺死するのを見殺しにしたら寝覚めが悪くて仕方ないだろうけど、でも、たとえその場は見捨てられなかったとしても、それとこれとは別だと……。

世の弟妹たちよ、ゆめゆめ姉ちゃんの原稿をいじってはいかんぞ。焼いても破いても捨ててもいかん。それ以外のことで復讐するんだ、みんながみんなジョーみたいに優しいとは限らん。


と。
とにかくジョー目線で読んでしまうんですが(著者自身がモデルということもあり、ジョーを軸に話が進むのも確か)、メグのロマンスに対するジョーの態度に関してはあまりピンと来ない。

ジョーはメグをよその男に取られるのが嫌でたまらないんですね。たとえ相手がどんなにいい人でも、自分たち姉妹よりもその男の方がメグにとって大事な存在になるということが許せないし、彼女が結婚して家を出ていくと考えるだけで寂しくてたまらない。

「私、自分でメグと結婚してやりたいわ。そうすればいつまでも無事に家へおいとけるんですもの」 (P387)

そこまで言う(´・ω・`)

「だって私、あのひとをそのうちにテディと結婚させようと思っていたんですもの。そうすれば一生ぜいたくができるでしょう」 (P390)

金があればいいのか?と思ってしまいますが、自分のよく知っている、もはや家族同然のテディ(ローリー)にならいい、それなら「よその家」ではなく、いつでも自由にメグと会える、という気持ちなんでしょうね。

姉妹って、そんなふうに思うものなのかしら。
私は姉も妹もないし、「大好きなお兄ちゃんをよその女の人に取られるなんて!」と思うような優しく格好いいお兄ちゃんもおらず、弟もいまだ独身。「兄弟姉妹が結婚する」というのがどんな感じなのか、そもそもわからない。

ジョーほどではなくても、やっぱり変な感じなのかなぁ。ただ「めでたい」とは思えず、「いなくなるんだ」と思っちゃうものなのか。

「頭の上に平ごてでものせといたらみんな大人にならないもんならいいんだけどな。でもつぼみはバラになっちゃうし、子猫は猫になっちゃうし――困っちゃったな!」 (P390-P391)

優しい母や父、大好きな姉妹とずっと一緒に過ごしたい、大人になんかならずに、ずっとこのまま――。

きっと、そういうことなのでしょう。
私も大人になりたくない子どもだったし、自分が結婚するなんてこともまったく想像できなかった。

でも私も、そしてジョーも、いつまでも子どもではいられない。

引き続き『続・若草物語』を手に取ろうと思います。

【関連記事】

『続・若草物語』/オルコット(講談社文庫版)

『続・若草物語』おまけ~小説家としてのジョー

『第三若草物語』/オルコット


【2018/10/24追記】

四姉妹はいずれもディケンズの愛読者という設定で、四人が「ピクウィック・クラブ」を真似た秘密結社ごっこをする箇所があります。「ピクウィック雑報」という週刊新聞まで発行して、その出来映えがなかなか素晴らしいのですが、当時のアメリカの若い女の子たちにディケンズってそんなに人気だったのでしょうか。続編の方にもディケンズの『ニコラス・ニクルビー』に出てくる人物の名がさらっと出てきたりしています。

特に注釈がなくても「ガンダム」って言われたらアニメファンじゃなくても「あれね」とわかる、みたいな感じだったのでしょうか、当時のディケンズ作品。

学生時代にディケンズけっこう読んだんですが『ピクウィック・クラブ』はたぶん読んでないはず。気になってきた。