ゴンチャロフさんの3部作を読み終わってしまって、さて次はどうしようかなーと考えた。

相変わらずあまり最近のものは読む気がしないので、SFの古典的名作を手にとってみることにした。

SFマガジンに投稿したりしてたくせに、実はそれほどSFを読んではいないのだな、私。一時期ハヤカワ文庫をよく読んでいたけど、SFよりファンタジーの方が多かったし。

アーサー・C・クラークも、『2001年宇宙の旅』とその続編『2010年宇宙の旅』を学生時代に読んだだけだった。『2001年』は中学くらいの時に読んだと思うのだけど、実のところ「なんかよくわかんない…」というような記憶しかない。

で、『幼年期の終わり』。

「古典新訳文庫」に入ってしまうくらいのSFの古典的名作であるらしい。

1953年の作品。昭和28年、日本じゃまだまだ戦後の頃だ。平成生まれの幕内力士が出てくる今、昭和28年の作品はもう十分“古典”と言っていいのだろう。

作品の第一部の舞台はもともと1970年頃になっていたらしいのだけど、クラーク氏は1989年に第一部を書き直し、舞台を21世紀初頭へと移した。米ソの宇宙開発競争を強く意識していたらしい物語の幕開けが、地球規模で協力しながら宇宙開発に取り組んでいるという背景に。

この、新しく書き直された第一部が読めるのは古典新訳文庫版だけらしい。私はもちろん旧版を読んだことがないのでどこがどう違うのかさっぱりわからない。どう違うのかちょっと読み比べてみたい気がする。

さてそれで、このお話は三部構成になっていて、一部と三部の最後との間に150年ほどの時間が経過する。

一部を読んでいる時の印象と、二部・三部の印象がずいぶん違って、一部で感じた諸々が最後にはどーでもいい小さなことに思えて、「嗚呼…」とため息をつくしかないような感じになる。

大きな活字と広い行間の古典新訳文庫でたったの423頁。その中身の濃さに比べるとずいぶん薄くて、この間まで読んでいたゴンチャロフさんのだらだら饒舌さとはえらい違い。

ものすごく簡潔ですっきりしているよなぁ。

登場人物の心情とかセリフとか、必要にして十分な量だけ。別に「少ない」というほどでもなくて意外に多いくらいだけど……でも「説明的セリフ」なのかな。みんな「その人」でなくてもいいというか……。個性はあるけど、その「人」を描くんじゃなくて、大きな流れの中の「役割」を描いているにすぎないものな。

第一部「地球とオーヴァーロードたち」で描かれる国連事務総長ストルムグレン氏はかなり「人」を描かれているけれど。

このおじさんいいな、と思った。

オーヴァーロードというのは謎の異星人のこと。ある日地球に宇宙船団がやってきて、あっという間に人類は彼らオーヴァーロードの支配下に入ってしまった。

何しろ彼らとの知性の差、技術の差、文明の差はあまりにも甚だしく、抵抗してもムダだった。

と言って彼らは別に町を焼いたり戦争を仕掛けてきたわけではなく。

「いいよ、反抗してごらん。君らの町だけ太陽光が降り注がないようにしてあげるからね」という実に平和的な方法で実力差を見せつけ、また、人類同士の争いも厳しくたしなめ、動物虐待禁止令まで出している。

「高い知性を持つ」ということは、おのずと残虐行為を憎み、正義と秩序を重んじることに繋がるのでしょうか。

人類にはまだまだ知性が足りないね……。

この作品で描かれる異星人=オーヴァーロードは大変「いい人達」に描かれ、むしろ地球人の運命以上に彼らの“孤独”に思いを馳せ、彼らの運命に感情移入してしまうほど。

彼らにしてみれば人類はほんの「ガキ」にすぎず、生殺与奪を握っている以上ことさら敵対する必要もなく、「好意的」に、「寛大」に振る舞えて当たり前なのかもしれない。

オーヴァーロードは姿を見せず、人類との窓口は国連だけ。総督カレランと直接言葉を交わせるのは事務総長のストルムグレンだけ。

定期的に行われる二人の会談。けれどストルムグレンもカレランを見たことはなく、ただ声を聞くのみ。

オーヴァーロードの支配を快く思わない人はやっぱりいて、「姿を見せないなんて怪しい!」と言ったりする。人間の純粋な好奇心として「異星人がどんな格好しているか見たい」というのはわかるけど、「姿を見せないから信用できない」というのもなんか……考えたら変な理屈だよね。神様の姿見た人なんかいーひんやん。少なくとも一般の信者は見たことがないはずなのに信じてる。

第一部を読んでいると、「なぜ神なら良くて異星人じゃダメなんだろ?」と繰り返し思わされる。

オーヴァーロードは人類に平和をもたらした。人類同士が戦うことは無意味になった。彼らは戦争や動物虐待等のごく限られた例外を除いて人類の「自治」には干渉していない。彼らに刃向かうことは事実上不可能だったけれども、彼らの行動は人類にとっての「善」の基準から外れることはなく、「刃向かう理由」がそもそもなかった。

それでも一部の人間達は、彼らの支配を認めない。

「ただ、世界連邦を実現するなら、内部から行われなければ意味がありません――外から押しつけられるのでなく。我々は自らの手で未来を切り開かなければならないのです。人類に対する外部の干渉をこれ以上許すわけにはいかない!」 (P28)

「オーヴァーロードが人類史上初めて与えてくれた恩恵に比べて、いったいどれほどの自由が奪われたというのかね」
「神の導きのもと、自律的に生きる自由を奪われました」
 (P29)

「神」が異星人であってはなぜいけないのだろうか。

オーヴァーロードは自分達の姿を見せない。地球へやってきた目的、動機を明かさない。

神は私達にすべてを明かしてくれているだろうか? 神は何のために人類を生みだし、なぜ人類を愛し、救ってくれるのだ? それがただの気まぐれやエゴでないという可能性がどこにあるのだろう。

これまで信じてきたものを捨て去りたくないだけではないのか。

これまでの「自分」を否定したくないだけでは。

結局、「神」の名のもとに「自分」が支配したいのではないのだろうか。他者の「神」が世界を統一しても仕方がない。自分たちの「神」でなければ……。

たとえばオーヴァーロードが「おまえたちだけに恩恵を与えよう」という「えこひいきをする」異星人なら――ある限られた人種・民族・国家のみの味方につくような存在であったら。

「待ち焦がれていた私達だけの“神”」として受け容れるのではないのだろうか。

真の自由とは何だろう。

人類の尊厳とは?

「きみたちの種族には、このちっぽけな星が抱えている問題を解決する能力さえ欠けていることはすでに証明されている。私たちがやってきたとき、きみたちは自滅の一歩手前にいた――科学が軽率にも与えた力によって、自分たちを滅ぼそうとしていたのだ。私たちが介入していなければ、地球はいまごろ放射能にまみれた荒れ野と化していただろう」 (P263)

異星人に支配されるくらいなら、さっさと滅んでしまった方が良かったのだろうか――?

結局、50年後には人類はオーヴァーロードの存在にすっかり慣れ親しんで、第二部「黄金期」を迎える。

この世には時間にしか解決できない問題というものがある。邪悪な人間を打ち倒すことは可能だ。だが、思い違いをしている善良な人間に対してできることは何もない。 (p110-p111)

ストルムグレンの言うとおり。

オーヴァーロードは人類よりもずっとずっと長命で、150年経っても地球担当の総督はカレランのまま。最初に「地球の窓口」として唯一カレランと直接言葉を交わしたストルムグレンはもちろん先に死んでしまう。

第一部は、こんな印象的な文章で終わる。

ストルムグレンはいま、こう願っている。カレランがふたたび地上を自由に歩き回る日が来たら、ぜひこの北の果ての森を訪れてもらいたいと。そして、初めて彼の友人になった地球人の墓の前で足を休めてもらいたいと。 (P125)

第二部、第三部を経て、オーヴァーロード達の「役割」も明かされる。第一部から示唆されていた、「さらに上の存在」。カレラン達種族の置かれた、「果たして人類と彼らのどちらが幸せか?」というような立場。

きっと、カレランは孤独だったのだろう。

彼らにとって150年が人生のうちでどれほどの時間を占めるのかわからないけれども、母星を離れ、別の種族のお守りを勤める年月。決して地球人類が初めてではない任務。

高度な知性を持ち、十分に優しく善良と思える彼らにとって、その「仕事」はどのように感じられるものだろう。関わった種族が迎える結末を、どのように受け止めているのだろう。

もしもできることなら、カレランはストルムグレンの墓に花を手向けるぐらいのことはしてくれたのではないのだろうか。

第三部のタイトルは「最後の世代」。地球人類は変貌し、カレランの任務は終わる。

人類がそのような結末を迎えることよりも、去っていくカレランの孤独と哀しみの方により深い感慨を覚える。

宇宙を真に支配しているものがなんなのか、そんなものがあるのかないのかすら、私たちにはわかりようがない。

変貌してしまった後の“人類”が、“幸福”なのかどうかもわからない。いっそ本当に自分たち同士で争ってさっさと滅亡してしまっていた方が良かったのではないかと思ってしまうほど、彼らは私たちとは――今の人類とは、違ってしまっている。

私たちが、ここにこうして存在するということ。

宇宙が、少なくとも私たちには存在しているように感じられること。

いずれ私たちは存在しなくなる。

そして宇宙は。

宇宙は―――?


オーヴァーロード、そしてさらにその上にいる何か。

『百億の昼と千億の夜』の「惑星委員会」や「シ」を思い出します。あちらの方がより難解で哲学的。『幼年期の終わり』はとてもすっきりとして読みやすく、とっつきやすいと思う。

混沌とごちゃまぜで多神教な日本の精神風土と、西洋合理主義&すっきり神様一つだけの精神風土の違い……と言ったら乱暴にすぎるか。

でもこういう作品って、キリスト教徒にとってはどういうふうに受け止められるものなんだろ。お話の中にもオーヴァーロードを「神」とは認めない人々が出てくるわけだけども。

「本文中に示された見解は、著者個人のものではない」って、クラークさんは但し書きしている。

最後に示唆される、円環的な時間の謎。

寄せては返す波の音のうちに、私たちは聞いてしまっているのかしら。

私たち自身の最期を。

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