(「その1・美福門院得子」はこちら

さて、頼長です。

7巻冒頭には「摂関家と男色」という系図が入っていましてですね、頼長の男色の相手として7人の名前が挙がっております。当時「7人」が特別多かったのかどうか知りませんが、大河で山本耕史くんがどう演じてくれるのか非常に楽しみですね(笑)。

頼長は、藤原忠実の次男です。忠実が白河院の怒りを買って宇治に蟄居した時、まだ頼長は2歳だったそうな。

忠実の息子で、関白になっていた忠通と高陽院となった勲子は正室・師子の娘(師子は白河院最愛の中宮・賢子の異母妹でした)。頼長はその辺の若い女を母としていて、兄・忠通とはかなり年が離れています。

白河院崩御の翌年、頼長は11歳。まだ男子のない兄・忠通の猶子となっていました。嫡子でもなく、母の身分も低かったものの、「摂関家の跡継ぎ」と目されていた頼長は早くから出世します。

13歳で権中納言、15歳で権大納言、17歳で内大臣。

そして19歳で早や2児の父です。

兄の忠通には男子がない。19歳の頼長は、既に二人の男子を得た。(中略)実父忠実が内覧となり、その勢力を旧に復した以上、頼長が兄頼通の猶子となっている必要もない。後は、若き内大臣頼長へ、摂関家の長たる資格が譲られるばかりである。忠実と頼長は、それが崇徳帝御譲位の後、遅からぬ時に起こるものと思っていた。 (P158)

年取ってからできた子(と言ってもたったの42歳だが)だからか、蟄居することになる不遇の時期に生まれた子だからか、忠実は頼長を可愛がったようで、頼長はかなり傲慢というか、当時としてはかなり変わった気性の持ち主に育っています。

自身が「摂関家の後嗣」であることに絶大の自信と誇りを持ち、摂関家が朝廷を仕切るのを「本来」だと思っている。どれだけ権勢があろうと、生まれの低い者(待賢門院や美福門院)に力が宿るはずはない、そんな連中にへこへこする必要はない、と。

幼い頃は粗野だったのが途中で学問に目覚め、「学問」しか拠り所のない若い下級官吏には慕われていたようです。

で、崇徳帝から近衛帝への譲位があって、遠からず忠通から自身への「摂政」の委譲があると思っていた頼長は、新帝近衛帝の後宮へ娘を贈ります。帝に娘を奉り、その腹に皇子を得て栄える、というのが摂関家の「本来」ですからね。

「自ら断を下す」ということをしたがらぬ人達は、事態をただ先送りにした。その御世にあってただ一人、「自ら断を下す」ということばかりを望んだ内大臣頼長は、近衛帝ご元服のその時に至って、自身の養女となった娘をおそばに上げ、女御となすという未来を得た。 (P162)

帝位についた時、まだ近衛帝はたったの2歳とか3歳とかで、「入内」というような年齢ではありません。だから頼長は「帝が元服なさった暁にはなにとぞ私の娘を」と申し出て、「まぁいいけどね」という内諾をもらうのです。

一方、崇徳帝に后となる娘を贈っていた忠通。「皇太子」ではなく「皇太弟」への譲位となったことで、新帝の外戚とはなれなかったのですが、そんなことで彼はへこたれません。

父の忠実は、鳥羽院を第一と思う。そのことは動かない。しかしその御世には、第一のお立場に立たれた鳥羽院を、お動かし奉ることが可能な人物もいた。それが皇后得子である。実質主義者の忠通は、ためらうことなく、得子を選んだ。 (P164)

鳥羽院にはめられ、譲位しても何の権力も得られない崇徳院。そんな崇徳院についている要はない、と思った忠通は御世最強の立場にある得子にさっさと鞍替え。一方、奇態なる本来主義者の頼長はわざわざ崇徳院に接近。摂関家の力を過信する頼長は、「所詮成り上がり者」の得子と仲良くする気も、敬おうという気すらない。

で、「崇徳帝と仲良くなるにはどうしたらいいんだろう?」と考えた頼長は、崇徳帝の寵臣である藤原為通とまずお近づきになろうと考えます。「お近づき」=「男色」になるところがすごいですが、この時代の「男同士のお近づき」は普通にそーゆーものだったようで、頼長が特に好色だったとかそういうわけではないと…うん…たぶん……。

頼長は23歳、頼長が「得たい」と思う為通は31歳。

「寵する」とはいかなることか。頼長は卒然と理解した。寵するとは、奪うことなのである。奪われて、それを嬉とすることが、寵されることなのである。 (P171)

為通を恋い慕っていたわけではない。頼長は、為通を奪いたかっただけなのである。 (P172)

頼長は、人を求めざるをえない人の心に隠された、公理の存在を知らなかった。人は、己れの心に欠けたものを求めるのである。欠落を欠落として知らぬまま、人は、己れの欠落を他者の上に見る。 (P177)

頼長は最初、為通にあっさり拒まれます。「いずれ摂関家を継ぐ」という自負ばかり強い頼長は人とのつきあい方が下手で、口説き方もまったくわかってなくて、「天下の内大臣に迫られて断る者などいるものか」ぐらいに思ってる。

が、何しろ為通は「内大臣よりずっと上」の崇徳院に寵されてるわけで、経験浅い内大臣ごときに簡単になびく必要はないわけです。

摂関家の長たらんとする男が、自らその腕と腰によって、引き据え仕留めなければ、御世の男達は従わなくなっていた。それを知る以前、頼長は自らの膝下に跪く男達を求めていた。男達を従える力を失いつつある摂関家の後嗣――その孤立を知らぬまま、二十三歳の内大臣は、自身に屈する男達を求めていた。 (P179)

頼長は為通をきっかけにして男色の扉を開くわけですが、頼長にとってそれは「支配欲」だったのですね。そして自らは気づかずにいる「孤立」「孤独」を埋めるための手段だったのでしょう。

「本来」を振りかざし、人の心の機微、思惑を理解しない頼長は世の中からずれて激しくKYで、まさに「坊やだからさ!」という人だったと思えます。

すでに世は「摂関家全盛」の時代ではなくなっている。婿や舅の関係も変わりつつある。

忠雅を婿にとって、家成にはその婿にかしずくつもりはなかった。家成にとって、「婿にする」とは、「己が一族の一員とする」なのである。家成の時から、婿取りは、その名の示す通りのものとなった。婿とは、舅に取られるものとなったのである。 (P203)

とはいえ、「生まれがすべて」というのはまだまだ変わらない。

王朝の世に、「功ある働き」などというものは、どれほどの意味をも持たない。「働く」などということ自体が、身分卑しき者のなすべきことだからである。 (P203)

功よりも寵、そして寵よりも家格――生まれがすべてを決定する。

で、一方の兄・忠通。彼こそ現在の「摂関家の長」。藤原本流の嫡子として生まれた、貴族の中ではもっとも「生まれの良い」人間。鳥羽院そして美福門院に実権が集まる中、摂関家の長であり近衛帝の摂政でありながらも彼は、「朝廷に君臨する」ということはできていなかったのだけれど。

いかに不遇であろうとも、その与えられた立場を持ち堪えてこそ、官という本来に力は宿る。官とは、夥しく積まれた先例の集積だからである。 (P218)

人の世は思惑の集積である。人の世を動かすものは、動かしうる力を持った思惑である。人の世の勝者となるために得るものは、ただ、人の世を動かすにたる思惑だけなのである。 (P221)

実際主義者の忠通は、本来など崇めない。それは、崇めるものではなく、武器として用いるものだからである。 (P224)

いやー、なんかこういうふうに言われると忠通かっこいいんだけど、つまりは腹黒いというか、「うまく立ち回る」っていうか…。忠通と比べるとホントに頼長はバカで、「本来」「正義」を振りかざして父の寵臣成雅を処罰、父まで怒らせてしまう。

「え、父ちゃん、俺より成雅を取るの!?」

誰よりも父に愛されていると信じて疑わなかった頼長にはさぞショックだったでしょうが、それよりショックを受けてしかるべきは、忠通についに待望の男子が生まれたこと。

忠通に跡継ぎがいなかったからこそ、「次男」で「取るに足りない女」から生まれた頼長が「摂関家を継ぐ」ことになっていたわけです。頼長の「力」はすべて、そこにかかっていた。だから兄に男子が生まれることは一大事だったんだけど、どうも頼長は「だからといって何?俺が継ぐってもう決まってるんだから」と思っていたらしい。

少なくとも橋本さんの筆はそうなっているし、以後も「正義」を振りかざして狼藉を働き「悪左府」と呼ばれることになるその振る舞いを見ると、危機感のありどころが間違ってるなぁ、と。

頼長28歳、忠実70歳、清盛30歳の時、祇園社で清盛の郎等が騒ぎを起こし、頼長は忠盛、清盛父子を罰そうとする(ああ、やっと忠盛パパの名前が出てきた!中井貴一かっこよろしなぁ)。

しかし院の北面の武士である彼らを罰することは鳥羽院の面目にも及ぶ話なのだ。

それは「本来」である。頼長の主張することは正しい。しかし、院政の世において、「正しさ」とは、人の世に行われぬものであった。 (P257)

まぁ、可哀想といえば可哀想だよね、頼長…。

神社仏閣へ逃げ込んだ罪人を捕らえるため境内を血で汚し…とかはちょっと同情できる。ただ、恩赦を得て許された罪人を「そんなのおかしいだろ」って人を使って殺させる、というとこまで行くとさすがに擁護できない。

「実は危うい立場にある」という心の奥の落ち着かなさが彼をそのような極端に走らせていたのだろうけどねぇ。

近衛帝が元服して、かつての内諾通り頼長の養女は無事入内。が、一月後、美福門院の養女も入内するとの噂が立つ。「え?」と思ううちにその娘は忠通の養女となる。「え、摂関家の長の娘として入内するってこと!?」

焦る頼長は「なにとぞその娘の入内の前に我が娘の立后を!」と騒ぎ立て、無事頼長の娘は「皇后」となった。

がしかし、である。

忠通の娘は「中宮」となるのである。

えーーーーーっ!?そんな馬鹿な、こっちは何年も前から娘を女御に、って約束してもらってたのにぃ!!!

と嘆いてもあとの祭り。

そんな可能性をまったく思わなかった頼長は「ただ愚かなのである」。一人の帝に后が二人なんて、今に始まったことじゃないのに。

頼長は、自身に敵対する者がいるということが信じられなかった。歪んだ世のありようを正すのが頼長であり、頼長に倒される者があったとしても、頼長の行先を阻んで敵対する者がありうるのだということが、信じられなかった。 (P282)

どんだけ坊やなんだかね、頼長…。

忠通の勝ちが明白になって、寵した男達も頼長のもとをあっさり離れていく。

頼長の寵を得た男達の内で、頼長と共に保元の乱へと進んだ男は、この源成雅ただ一人である。 (P285)

もともと自身の力を誇示したい、という征服欲・支配欲での寵だものなー。どれだけ肌を重ねても、「慕わしさ」や「情」といったものはついぞ得られなかったんだろう。

それでもまだ父ちゃんは頼長の味方で、頼長に摂政を譲る気のない長子忠通に怒り、力ずくで「氏の長者」の地位を頼長に授けてくれる。しかしそんなことをしても所詮「藤原氏の中でのこと」。美福門院と手を組んだ忠通の朝廷での立場は揺らがず、摂政を辞した忠通は改めて関白に任ぜられる。

どう考えても忠通&美福門院の方が役者が上なんだよね。

近衛帝は虚弱で、しかし東宮は定められぬままにある。崇徳院は自身の御子の立太子を望んでいたけれど、美福門院にその気はない。近衛帝の病を崇徳院の呪詛と吹き込まれた美福門院は、自身に「恨まれる筋」が十分あるのを知るゆえにそれを信じ、崇徳院への憎悪を募らせていく。崇徳院は何も悪くないのに……。

というところで次巻へ続きます。

あとこれはおまけですが、頼長は源義朝の弟、義賢を誘って男寵を拒まれたことがあるそうです。頼長ェ…。

そしてその義朝、大河ドラマでは自分から「東国で武を磨いてきます!」と都を後にしていましたが、橋本さんの筆によると。

都なる為義は、その嫡子義朝を、あえて都には置かなかった。平直方から贈られた鎌倉の地に留め、土着の勢力との融合を図った。軟弱なる都の気風とは遠く隔たった東国の地において、新たなる武家の棟梁となる義朝の、武勇の力を育てさせた。既に為義は、都なる王城の地の空洞化を察知していたのである。 (P262)

大河ドラマの小日向文世はとてもそんな先見の明があるふうには見えませんねぇ(^^;)
 

人の心とは、「戯れ」の同義語。肝要となるのは、人の世を人の世たらしめる、間柄(なからい)という名の配置なのである。 (P132)

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