『黄金比はすべてを美しくするか?』の最後の章で取り上げられていた「神は数学者なのか?」という問いをまるごと一冊の本にしてしまったのがこれ、『神は数学者か?』。

「自然科学における数学の不条理な有効性」、つまり「どうして数学はこれほどまでに自然界をうまく説明できるのか」。

著者のマリオ・リヴィオさんは古代ギリシャのピタゴラスやプラトンから数学の歴史を振り返りつつ、ガリレオやニュートンといった「数学史の巨人」たちがこの問題「数学とこの世界の関係」についてどう考えていたか、ということを検証します。

数学の全能性云々よりも「数学史」として面白かった感じ。

テーマが壮大というか「それって人間に答えが出せる問題なのか?」という気もする難しいものなので、全部読み終わってもどうまとめたらいいのか、「よくわかんないや」という部分もありました。

とりあえず気になった文章の引用羅列(笑)してみます。

数学は人間の心とはまったく独立して存在するのか?つまり、天文学者が未知の銀河を発見するのと同じように、われわれは単に数学的な真理を発見しているのか?あるいは、数学は人間の発明にすぎないのか? (P23)

「数学は発見か、発明か?」という問いがそれほど重要に感じられない人もいるかもしれない。もしそうなら、「神は発見か、発明か」と考えてみてほしい。 (P28)

「神が発見か発明か」が重要になるのは一神教の信徒だけじゃないの、と思ったりもしますが、人間の存在とは無関係に世界に存在するものなのか、それとも人間の精神・思考によって生み出されたものなのか、その違いは大変に大きいということは理解できます。

神様と数学がそんなふうに比喩で繋げられる(類似性がある)のなら、「神は数学者か?」というのは同語反復のような気もしないではないですが。

「この世界のすべてを記述できるもの」を「神」というのでは……。

「訳者あとがき」には「神(God)という言葉を容易には扱わない欧米の人々にとっては、センセーショナルなタイトルともいえるかもしれない」と書いてあって、一神教世界の人は比喩を使うのも大変だなと。

おっと、のっけから話がそれてる。

まず登場する数学者はピタゴラス。

つまり、彼ら(ピタゴラスやピタゴラス学派の人々)にとって、神は数学者ではなかった――数学が神だったのだ。 (P47)

古代の人(たぶん特にギリシャ人)は神に近づくため、この世の理を知るため、数学を研究していた。音楽も哲学も数学も天文学も、彼らにとっては目的が同じだったりした。

今みたいに専門分野が分かれていなくて、音楽を奏でつつ数学を語り哲学に耽るとかすごく楽しそうだよねぇ。

だから現代日本の我々にとっては哲学者として有名なプラトン先生の「プラトン主義」というのが、今に至るまで数学の世界でもかなりの力を持っているらしい。

プラトンといえば「イデア論」。我々がどんな三角形を見てもぱっと「三角形!」と認識できるのはこの現実界とは違うイデア界に「三角形のイデア」(本質みたいなもん?)があって、それを知っているからだ、という。(違ったらすいません。私の記憶の中ではそーゆー説明になってます)。

特にプラトンは、数学的真理とはパピルスの上に描いたり砂の上に棒でなぞったりした円、三角形、正方形を指すのではなく、イデアの世界に属する抽象的な対象物を指すのであり、ここに真の図形や完全性が宿るのだと訴えている。 (P55)

うん、まぁ、大体合ってるよね、私の認識。

つまりプラトンにとっては数学に限らずすべての学問が「イデア界」に存在する真理の「発見」だった。だってそれは人間が知覚するこの世界とは独立して存在する抽象世界なんだものね。

「真理」が人間の存在(思考)とは別に存在するかということについて、マリオ・リヴィオさんはこんなふうな例を挙げてくれる。

「カタラン予想」と呼ばれる数学の命題は、1342年に一部が証明され、1844年にカタランという人が「自然数全体について成り立つだろう」と予想し、1976年にはかなり証明が進展し、2002年に完全に証明された。

カタラン予想はいつ“真”になったのか?(中略)われわれが正しいと知らなかっただけで、カタラン予想がずっと昔から真実だったのは明らかではないか? (P60)

前に「フェルマーの最終定理」を読みましたが、あの命題も長いこと「完全に証明」されなかった。一度“真”だと証明されればその命題は証明が間違っていたと証明されない限り未来永劫“真”であるはずで、でも証明される以前だって「人間が証明できなかった」というだけで、“真”なものは過去からずーっと変わらず“真”だったはずではないのか。

つまり、“真理”は人間とは関わりなく存在し、人間はそれを“発見する”だけだ、ということになる。

アルキメデスとガリレオの章は飛ばして、第4章が「デカルトとニュートン」。デカルトも哲学者のイメージが強いけど、xとyのお馴染みの座標、あれ「デカルト座標」って言うんだよねぇ。

ニュートンもデカルトも信心深い人だったらしく。

別の言い方をすれば、ニュートンにとって神は比喩としての数学者ではなかった。文字どおり、創造主である神が数学法則に従う物質世界を作ったということなのだ。 (P156)

デカルトにとって神は、数学の創造者というだけでなく、数学法則が支配する物質世界の創造者でもあるという意味で、数学者以上の存在だったわけだ。 (P158)

ということはやはり二人とも「人間は神の御業をただ発見するだけ」と考えていたと。

唯一絶対の神が存在し、その神が世界を創った、ということが前提の世で研究しているんだから、まぁ、当然と言っていいかも。

結局のところ、有神論者は証明などなくても神を信じるし、無神論者はどんな証明を提示されても納得しない、というのが私の個人的な印象だ。 (P156)

と、マリオ・リヴィオさんは言っていますが。

「世界を創りし神の手」を信じない人間にとっての方が、「数学は発明か、発見か」はより深い問いなのかもしれませんね。人間の認知とは独立に“世界”が、“真理”が存在するのかどうか、「神様」抜きに純粋に考えなくちゃならない。

ガリレオ、デカルト、ニュートンの研究によって、数学と科学の結びつきが強まり、天体の運行やその他の物理現象が数学によって説明されるようになった。

となると当然次に数学が向かう先は。

数学は自然のみの言語なのか?それとも、人間の言語でもあるのか?たとえ普遍的な原理が存在しなかったとしても、数学的な道具を用いれば、少なくとも社会的行動をモデル化し、説明することができるのか? (P163)

物理現象のみならず“人間の営み”である社会現象をも数学で説明しようという試み。

まぁ人間も「自然」の一部だろうとは思うので、「自然のみの言語か、人間の言語か」と自然と人間を二項対立的に扱うのはどうかな、と思ってしまいますが、「心理」や「感情」を完全に数値化してしまうことに抵抗があるのも事実。

しかしここに「統計論」だの「確率論」だのが出てきて、見事に社会現象を説明してしまったりするのですね。

実際、どのような物理量を測定しても、測定回数が多いほど、得られる度数分布は正規曲線に近づいていく。この事実は、「数学の不条理な有効性」に関して衝撃的な意味合いをはらんでいる――人間の個人差さえもが、厳密な数学的法則に従うのである。 (P179)

統計も確率も苦手ですけど、これは素直にほぉー!ですね。不思議としか言いようがない。

所得を決める要素となる人間の身体的・精神的な特徴は正規分布に従うのに、所得が正規分布に従わないのはなぜなのか? (P180)

大変興味深い問題だぞ!とわくわくしたら、「本書の範囲をはずれるので扱わない」。残念!!!

社会現象に対しても有効な数学。その有能性、万能性はますます強固になる一方……と思いきや。

「非ユークリッド幾何学」というものが登場します。「ユークリッド幾何学」というのは私たちが普通に小中学校で学ぶ、平面上の図形を扱う幾何学。この「平面」というのがミソで、18世紀頃になると「曲面上の三角形なら内角の和は180度にならないよね?」という発想が出てくる。

ユークリッド幾何学で採用されているのとは別の公理を選べば、別の幾何体系が出来上がるという発見(発明?どっちだ!?)。

別の公理を選ぶことで別種の幾何学を構築できるという事実が明らかになると、数学は人間の心とは独立して存在する真理を発見するものではなく、人間の発明にすぎないのではないかという疑いが生まれた。 (P210)

ポアンカレは、幾何学の公理は総合的で先天的な直観でも実験的な事実でもなく、取り決めにすぎないと結論付けた。 (P213)

ユークリッド幾何学の第一公理は「任意の二点間に一本の線が引ける」だそうです。平面上では「そりゃそうですよね」と思いますが、「平面を扱う」というところからしてもう人間の「選択」が入っているわけで、たとえば「1+1=2」という表記にしても、人間が「これこれこういう概念をこのように表現する」と取り決めて使っている。

というわけで本書の最後にマリオ・リヴィオさんはこう結論づけます。

つまり、われわれの数学は発明と発見の組み合わせなのである。 (P306)

一般的に、数学の概念は発明であり、概念同士の関係は発見である。 (P312)

なるほど。

「言葉」一つ一つにしてもその意味の「定義」が必要で、「消費税は上げるべきか」というような議論にしても数学の証明にしても、まず用語や前提の定義がなければ進まない。

そこはやはり人間が人間にわかるように、「発明」というか「取り決め」というかをしなければいけない。

その「前提」をもとにこの世界を説明する様々な数式、概念と概念の間の関係を「発見」する。この世界自体は、人間とは独立して存在するはずで、カタラン予想はカタランがそれを提唱する前から、完全に証明される前から、“真”として存在していたはずであるから……。

我々人類とはまったく違う認知形式を持った生物が用いる「概念=世界を説明する道具」は、おそらく我々のそれとは随分違っていて、それは彼らにとってわかりやすいように「発明」されたもので、けれどもその生物がもしも我々の世界を記述するなら、記述されるべき“真”は我々が発見する“真”と同じ……たぶん。

ただ、認知形式が違えば世界の見え方は当然変わってくるので、彼らは我々には想像もつかないような“真”を発見し、我々が“真”だと証明していた命題をまったく発見も理解もできないのかもしれない。

「発明か発見か」と並んで問題となっていた「数学の不条理な有効性」については。

数学理論の存在を保証するものは何か? たとえば、なぜ一般相対性理論は存在するのか? 重力の数学理論が存在しない可能性はないのか? 答えはあなたが想像するより単純だ。保証などないのである! (P323)

つまりある意味では、科学者たちは数学で解決できそうな問題を選び出し、研究してきたとも言えるのだ。 (P324)

数学はあまりにもよく世界を説明できるように見えるけれど、でも実のところ説明できないものも多いわけで、「こんなに有効なのはおかしい!神が数学者だからに違いない!」と言えるほど「不条理に有効」ではないんじゃないかと。

なんかミもフタもない(笑)。

もちろんこの結論に至るまでにマリオ・リヴィオさんはいくつもの「驚くほど有効な」例を挙げ、集合論や結び目理論で私の目の前を真っ暗にしてくれます。

考えてみれば、数学って幅広いですよねぇ。ひたすら計算してるのが好きな私にとっては、集合とか証明とかホント「なんでこんなもんまで数学なのよ!」だったんですけども。

ラッセルが述べているのは、大まかに言うと数学は突き詰めれば論理学であるということである。 (P226)

ううむ。奥が深いですなぁ、数学。私の好きな「数学」は初歩の初歩の初歩部分に過ぎない…。

他にいくつか興味深かった箇所。

彼(アリストテレス)に言わせれば、地表に近づくにつれて速度が増加するのは、居場所に戻れるのがうれしいからだという。 (P63)

「うれしいから」って、アリストテレス!

いや、でも、その発想嫌いじゃない(笑)

グラスマンにとって、古代ギリシャの遺産である古典幾何学は物理的空間を扱うものであり、抽象数学の真の一分野ではなかった。彼にとって、数学は人間の脳の抽象的な構築物であり、必ずしも現実世界に適用できるとはかぎらなかったのである。 (P219)

グラスマンというのはn次元幾何学の分野で画期的な研究を行った人らしいのですが、P220で説明されている「線分の表現に“向き”を与え、“AB=-BA”とすると、点A,B,Cの順序に関わらずAB+BC=ACが成り立つ」っていうの、「へぇ-!」でした。

フレーゲの哲学の中心にあったのは、真理は人間の判断とは独立して存在するという考え方だった。(中略)「真理は、ひとりによってであれ、多数の人によってであれ、すべての人によってであれ、真と見なされることとは別のことであり、“真と見なされる”ことを“真”であるということには決して還元できない。真であるということは、すべての人によって偽と見なされることとは何ら矛盾しない」 (P241)

この考え、すごく好きです。

マリオ・リヴィオさんが「数学は発明と発見の組み合わせ」と言い、それが多くの人に“真”と認められても、それが本当に“真”であるかどうかは――。