今朝のOTTAVAで、本田さんがハロウィン、万聖節、万霊節のお話をしてくださいました。

今日、11月2日はキリスト教(カトリック?)の万霊節=「死者の日」だそうです。

ハロウィンは元々ケルトのお祭りで…というのは今では毎年のようにどこからか聞かされるトリビアとなっていますが、ケルトでは11月1日が新年の始まり。10月31日はだから「大晦日」で、年越しのお祭りをしていた…というようなのが「ハロウィン」の起源だそうな。

キリスト教がケルトの異教徒に布教するにあたって、その土着のお祭りを「キリスト教のお祭り」にするために、もともと5月だった「万聖節」を11月1日に持ってきた。

そんで輪廻転生を信じるケルトでは新年とともに死者が蘇る、みたいな話だったのを「死者の日」ってことにした。

キリスト教も色々布教に知恵を絞ったんですねぇ。

聖母マリアも土着の「地母神信仰」の受け皿として信仰の対象となった、というような話を聞いたことがあるし、聖人をいっぱい作ったのも、多神教の人々に対する、「台所の神様」「家庭円満の神様」みたいな、「日常の細々とした御利益に対応する信仰対象」の受け皿だった。

「なぜ神様がいなくて平気なの?」と一神教の方々は無宗教な日本人に聞いてきたりしますけど、多神教ベースな私としては逆に「なんで神様が一人で平気なの?」と言い返したいような。

日本では仏教と八百万の神様が「本地垂迹」で一緒くたになって、「神に守られ仏の教えに従うもの」なんて表現が『双調平家物語』にもするっと出てきますけど、同じようなことがキリスト教と土着の信仰でも起こったってことですよね?

キリスト教は「一神教」だから、土着の神々を「駆逐」する感じになっちゃうけど、仏教は別に「ブッダだけが仏」って教えじゃないから、「なんとか菩薩が仮に現れたのがなんとか神」というふうに共存する。

それが仏教の方からの働きかけだったのか、日本人が率先して仏を「神の一類」として受け入れちゃったのか、それは知らないけれど。

なんとなく後者な感じはする。

そもそも多神教の場合、神様いっぱいいるんだから、「ああ、インドにはそーゆー神様がいるの。それってうちの○○神様と似てるね」で済んじゃうものなー。

「じゃあそれも一緒に祀っとこうか」で全然問題ない気がする(笑)。

仏教における菩薩とかもヒンズー教だったり、もともとのインドの「神々」を吸収しているんだろうと思うし。

ブッダが開いた悟りに、もともと「神様」的な発想ってないよね。宗教というより哲学で、「自我」の問題。誰でもその境地に達すれば「仏」になれる。

……だから何なのかって言うと、別に「神棚と仏壇」が一緒くたにあるのは日本人がおかしいからじゃないよ、キリスト教だってケルトやら何やら色々取り込んで行ったんでしょ、って言いたかっただけです。

ハロウィンも祝っちゃう日本人は無宗教なんじゃなくて、やっぱりただ「多神教」なんじゃないかな。神様は多いほど御利益も多そう、お祭りは多いほど楽しい。

それでええんちゃいますのん。