『エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する』『宇宙を織りなすもの――時間と空間の正体』に続く、ブライアン・グリーンさんの科学書第3弾です。

(『宇宙を織りなすもの』についての感想はこちら→『時間と空間の不思議』『時間と空間の不思議・その2』『時間と空間の不思議・その3』『時間と空間の不思議・その4~ドラゴンボールのタイムマシン』『時間と空間の不思議・その5』)

前2作に比べるとワクワク感がちょっと乏しかった気がします。

『宇宙を織りなすもの』の時も、宇宙論の歴史を踏まえつつ、人類が時間と空間をどのように考えてきたか、新しい物理理論によってどのように時間と空間の概念は変わるか……という感じで書かれていたと思うのですが(読んだの3年前なのであんまり覚えてないです、すいません)。

今回も様々な宇宙論の紹介をしながら、その理論によって導かれる少しずつ違った「多宇宙」の概念を解説してくださる。

3年前に読んだ内容を覚えていないと言いつつ、インフレーション理論やひも理論について「あー、そこはもう知ってるからさー、多宇宙についてもっと教えてー」と偉そうに思ってしまいました(汗)。

宇宙論の歴史・変遷についてはサイモン・シンさんの『宇宙創成』でもおさらいしましたし。

「多宇宙」というといわゆるパラレル・ワールドを想像しますし、この本の帯にも「あなたと同じ人間が並行世界に実在する!?」というふうに書かれていたりするのですが、実際に本書で紹介されるのはちょっと違う感じです。

私たちが知覚できない「宇宙」というか「世界」というか「次元」があるのは同じだけど、いわゆる「パラレル・ワールド」って、たとえば「私がある時点で別の決断をしていた世界」とか、「第二次世界大戦で日本が勝っていた世界」とか、なんかそういうふうに語られるでしょう。あくまで地球人類メインの。

本書が取り扱うのは宇宙論に付随する「多宇宙」なので、もっとスケールが大きいというか、そうそう地球人類に都合良くないです(笑)。

(以下、理解不足・勘違い等多々あると思いますがどうぞご容赦くださいませ)

まず出て来るのが「パッチワークキルト多宇宙」というやつで、宇宙空間が無限なら、その中にはいくつも「宇宙」が存在し、構成要素となるもの(原子とか)が有限である以上、その組み合わせも有限であり、確率的には我々の知っている宇宙とまったく同じ組成の宇宙が存在するはずだ、というもの。

私たち地球人類に観測可能な「宇宙」というのは、「無限の宇宙」全体にとっては大変小さな、局所的なものです。

観測できない部分にも同じように銀河がいっぱいあって、同じように「宇宙」を形成していることは、まぁ私たちにも想像できる。というか、「そりゃそうなんだろうなぁ」と思いますよね。

宇宙がそもそも「無限」なのか「有限」なのか、ということには議論があるらしいけれど、もし無限だとしたら、その中には私たちの銀河系とまったく同じ銀河系が存在してもおかしくはない。

粒子配列の数が限られているということは、宇宙キルトのパッチ―独立した宇宙の地平線―が十分にあるのなら、粒子の配列をパッチどうしで比べたとき、どこかで重複するはずである。 (P69)

重複する確率がたとえどんなに低くても、宇宙が「無限」であるなら、いつかどこかで実在しうる。私たちの地球とまったく同じ地球、私自身とまったく同じ生き物が生み出されていても確率的には不思議でないと。

狐につままれてる感なきにしもあらずですが、まぁ理屈としてはわかります(^^;)

で、次に出てくるのがインフレーション多宇宙論。

インフレーション宇宙論は、宇宙の誕生直後にとてつもないスピードの爆発的な膨張を挿入することで、ビッグバン理論を修正した。 (P76)

何の事やら、ですね。いいんです、何のことでも(おい)。とにかくこのインフレーション宇宙論の最有力バージョンによると、「膨大な並行宇宙が生まれて宇宙の実像(リアリティ)の様相が激変する」のだそう。

読んでいる時はなんとなくわかった気にもなるんだけど、こうして思い出してまとめようとするとなんだかさっぱりわかりません(汗)。

インフラトン場の「場の値」とか、読んでる最中も何を指すんだかさっぱりわからなかった。

とりあえず「パッチワークキルト多宇宙」と「インフレーション多宇宙」の違いとしてブライアンさんはこうおっしゃっています。

〈パッチワークキルト多宇宙〉では、一つの並行宇宙と別の並行宇宙とがはっきり分かれていない。すべてが一つの広大な空間の一部であり、全般的な質的特性は領域どうしで似ている。(中略)〈インフレーション多宇宙〉では、構成員の宇宙ははっきり分かれている。それぞれが宇宙チーズの穴であり、インフラトンの値が高いままの領域によってほかの穴と隔てられている。 (P117)

〈パッチワークキルト多宇宙〉のほうは空間の広がりが無限の場合に生まれるのに対し、〈インフレーション多宇宙〉のほうは永遠のインフレーション膨張から生まれる。(中略)インフレーションから生まれる並行宇宙が、弟分のパッチワークキルト多宇宙を生み出すのだ。そのプロセスには時間が関与している。 (P124)

パッチワークの方は、「宇宙が無限の広さを持つなら、“小宇宙”としてのまとまりも無限にあり、そしてその内容には重複がありうる」という、言ってみれば「空間の無限の広がり」が生むもの。

一方のインフレーション多宇宙の方は、「永遠のインフレーション膨張」という「時間の無限性」から生まれるもの……という解釈でいいんでしょうか。

ブライアンさんはインフレーション多宇宙論での“小宇宙”を“泡宇宙”という名で呼んでいます。そして、

泡宇宙それぞれの空間は外から見ると有限に見えるが、内側から見ると無限に広がっているのだ。 (P128)

と言い、

外にいる者と内にいる者とで物の見え方が極端に違うのは、時間の概念がまったく違うからである。論点は決してわかりやすくないが、外にいる者にとって無限の時間に思えるものが、一瞬一瞬では、内にいる者にとって無限の空間に思えることを、これから見ていこう。 (P128)

とおっしゃっています。

宇宙における「時間」の概念、とりわけ「宇宙」における「同時性」とは何か、というようなことは大変興味深いのですが、「これから見ていこう」の先を読んでもさっぱり納得できません。ううう。

でも「注」のこの箇所は面白かった。

ブラックホールの中心は空間内の1つの場所であるかのように言いがちである。しかしそうではない。それは時間内の1つの瞬間なのだ。ブラックホールの事象の地平面を越えると、時間と(動径方向の)空間は役割を交換する。 (P294 注15)

ブラックホールに入ったとたん、時間と空間が逆転する。ブラックホールの「中に入る」ということは「空間」ではなく「時間の中を進んでいく」ということで、時間が逆戻りできない以上、そこから抜け出すことはできない……?????

時間もまた空間と同じように世界を構成する一つの次元に過ぎないなら、縦と横が入れ替わるように時間と空間が入れ替わってもおかしくは……ないのか?????

相対性理論によってもう「時間は絶対のものでない」ということになっています。時間も空間も、ゆがむ。実際に、宇宙空間にある時計は地球上の時計とはずれているので、GPSはそのずれを計算で補正している。

そして一般相対性理論は、物体は時間がよりゆっくり経過する領域に向かって動くことを立証している。ある意味で、すべての物体はできるだけゆっくり歳をとりたいのだ。アインシュタインに言わせれば、手を離すと物体が落下する理由は、それで説明がつくのである。 (P35)

ははは。アインシュタイン面白いなぁ。

特殊相対性理論では「光の速度は変わらない」「光速を超えるものはない」というのが一つのキモだと思うけれども、

そして本当のところ、相対性理論は空間がどれだけ速く膨張できるかに制限を設けていないので、その膨張によって銀河どうしが離れる速さに制限はない。二つの銀河が離れるスピードは、光のスピードを含めたどんなスピードをも上回る可能性があるのだ。 (P87)

ということだそうで。

光速というのは「光が空間を進む速度」で、「空間を進むもの」は「光の速さ」を超えられない。でも「空間そのもの」のスピードは全然別だと。

ふうむ。言われてみればなるほどな感じ。

空間そのものが光速よりすごいスピードで動いてるかもしれないとか、面白いねぇ。

まぁ、全然具体的に想像はできないけども(笑)。

で、えーと、「パッチワークキルト多宇宙」と「インフレーション多宇宙」に続いて出て来るのが「ブレーン多宇宙」と「サイクリック多宇宙」。

いわゆる「ひも理論」から「ブレーン(膜)理論」というのが出て来て、「ブレーンワールド・シナリオ」というものが出て来る。私たちのいる世界は一つの「ブレーン」にすぎなくて、すぐ隣には別の世界、別の「ブレーン」が存在し、いくらでも「並行世界」が存在する、という考え方。

なぜ「ひも理論」からそういう話になっていくのか、というところはさっぱりわからないけれど、一つの膜のような、いわば閉じられた「世界」がいくつも並行に存在している、というのはまぁ、「わかります」。

ちょっと長くなりますが、これまで出て来た多宇宙についてわかりやすい比較の部分。

今まで私たちが出会った多宇宙は、細部はどんなに違っていても、一つの基本的特色を共有している。〈パッチワークキルト多宇宙〉、〈インフレーション多宇宙〉そして〈ブレーン多宇宙〉では、ほかの宇宙はすべて空間内の「あちら」にあるのだ。〈パッチワークキルト多宇宙〉の場合、「あちら」は日常的な意味でのはるか彼方を意味する。〈インフレーション多宇宙〉の場合は、私たちの泡宇宙の外で、急速に膨張している介在領域の向こう側。〈ブレーン多宇宙〉の場合は、ひょっとすると目の鼻の先かもしれないが、別の次元に隔てられている。 (P210)

「ブレーン多宇宙」だけ、まさに「次元が違う話」なのですね。何しろひも理論では時空が十次元なくちゃいけない、とかいう話ですから。

で。

しかしブレーンワールド・シナリオを裏づける証拠を検討していると、別のタイプの多宇宙について真剣に考えることになる。それは、空間でなく時間の条件がそろう機会に乗じて生まれる多宇宙だ。 (P210)

並行して存在する「ブレーン」が衝突したらどうなるのか? 「ブレーン」は衝突してもくっつかずに跳ね返って離れる。そしてまただんだんと近づき、近づくにつれスピードが増してまた衝突し……。

そのあと燃えさかる激しい炎によって、それぞれのブレーンの状態が再びリセットされて、新しい宇宙の進化の時代が始まる。したがってこの宇宙の本質には、時間とともに繰り返し循環(サイクル)する世界がある。そして新しい種類の並行宇宙、〈サイクリック多宇宙〉を生み出す。もし私たちが〈サイクリック多宇宙〉のブレーンに住んでいるのであれば、その多宇宙を構成する(私たちが周期的に衝突する相棒のブレーン以外の)ほかの宇宙とは、私たちの過去と未来に存在するものにほかならない。 (P213)

……わかりました?

「ブレーン多宇宙」自体をわかっているとは言えない上に、さらに「それぞれのブレーン宇宙が衝突すると」なんて話をされるのですからもうわけわかめですが、しかし「循環する宇宙」という考え自体は、わかります。

空間と同じく時間が無限か有限かわかりませんが、無限だとすればその中でプロセスが繰り返されるというのは「そりゃありえるだろう」と。

で、最後に登場するのが「ランドスケープ多宇宙」。

要約しようにも、さっぱりわかりません。

とりあえず「宇宙定数」の話が出て来ます。「宇宙定数」というのは、アインシュタインが相対性理論を考えた時に、そのままの方程式では宇宙が「動的」になってしまう、だから「宇宙定数」を用いてプラマイゼロにして、膨張も収縮もしない「静的」な宇宙を数式上で実現した。

実際には宇宙は膨張していたので、アインシュタインは後に「宇宙定数」を「最大の失態」と言ったとか言わないとか。

でも、その後の観測と研究により、「宇宙定数」はやはり必要なのではないか、という話になっている。

宇宙は膨張している。ではその膨張のスピードはどうなっているのか? 普通の引力的重力はあらゆる天体を互いに引き寄せあうので、膨張のスピードは低下するはずです。減速が大きければそのうち膨張はストップするし、減速のペースが十分にゆっくりなら、空間が永遠に膨張し続ける可能性がある。

それで研究者達は遠い星から来る光を観測して、膨張のスピードを調べようとしました。光速は一定不変ということになってますから、「距離」がわかればいいわけです。

星の見かけの明るさと、本来の明るさの違いから、その星が実際にある距離を計算することができる……んですが、ここで問題。

そもそも、それは何の距離なのか?

宇宙が常に膨張しているなら、はるか彼方から来る光はその膨張分よけいに進まなければなりません。たとえば光の速さで100年かかる距離から放たれた光は、「もともとの距離+100年の間に長くなった距離」を進んで地球にたどり着かなきゃなりませんよね?

地球上にいる我々が観測しているのはあくまで「今、地球にたどり着いた光」であり、それが何年前に放たれた光なのかはわからないわけで。

光が放たれた時の地球までの距離と、地球に到達した時(つまり今)の距離とでは変わってしまっているはずなのだけれど、天文学者が実際に測定しているのはどの距離になるのか???

宇宙が膨張しているために、地図の換算係数は、光が旅を終えたときのほうが旅を始めたときよりも大きい。つまり、地図上で測定される光の波長は変わらなくても、現実の距離に換算すると波長は伸びるのだ。 (P241)

波長が三パーセント伸びたようなら、今の宇宙は光が放たれたときよりも三パーセント大きい。光が二一パーセント長くなっているようなら、宇宙は光が旅を始めてから二一パーセント拡大したのだ。 (P242)

測定されるのは「今」の、星と地球との距離で、光の波長の変化によって、「地球に到達するまでの年月にどれだけ膨張したか」までわかるらしい。

で、まぁ、素人からしてみれば「よくそんなもん測れるよなぁ」なのですが、測ってみた結果。

宇宙の膨張は減速するどころか加速していた。

大変です。話が違います。

加速するためには、何か力が加わっていなければなりません。引力的重力が引っぱりあって減速する以上の力が。

そして「宇宙定数=何だかわからないけれど宇宙には引力的重力とは反対に働くエネルギーが存在する」という考えが復活するのです。

さらにそこに量子物理学の考えが合体(?)し、

量子ゆらぎが供給するエネルギーは空間に充満していて、それを取り除くことはできない。宇宙定数は空間を満たすエネルギー以外の何ものでもないので、量子場のゆらぎが、宇宙定数を生成する微視的メカニズムの役割を果たしているのだ。 (P249-250)

その「定数」を決定したいという誘惑に駆られるのですが。

この考え方によると、なぜ定数がその特定の値なのかを問うのは、見当違いの質問である。その値を決める法則はないので、値は宇宙によって違う可能性があり、実際に違うのだ。例の本質的な選択バイアスがあるために、私たちは多宇宙のなかで定数がおなじみの値をもつ宇宙にいることがわかる。理由は簡単、値が違う宇宙には存在できないからだ。 (P263)

「この考え」というのは「人間原理」と呼ばれるもので、簡単に言うと「すべての観測結果には、観測しているのが私たち人間であるということに起因するバイアスがかかる」ということ。

人間の知覚能力以上のものを観測するのは不可能だし、たまたま私たち人間のいる宇宙では「その値になっている」というだけのことかもしれない。

というわけで(?)、ひも理論による宇宙論は「私たちの宇宙以外にも宇宙がある=多宇宙」をあっさり認めます。

でももちろん、

ひも理論が膨大な数の異なる宇宙を認めることと、ひも理論で生まれる可能性のある宇宙すべてが実際にあって、広大な多宇宙にいくつもの並行宇宙が存在することをひも理論が保証することとは別である。 (P272)

うん、それはそうでしょうね。

で、ひも理論とインフレーション理論を足すと「ランドスケープ多宇宙」になる感じでしたが、よくわかりませんでした。とほほ。

わからないけど、最終節の「これは科学なのか?」という問いが面白かった。

しかし〈ランドスケープ多宇宙〉の場合、私たちは違う用途で並行宇宙をもち出している。つい今しがたたどったアプローチでは、〈ランドスケープ多宇宙〉は「あちら」にありうるものについての視野を広げているだけではない。私たちが今も、これから先もおそらくずっと、行くことも、見ることも、検証することも、支配することもできない一連の並行宇宙を、私たちがここで――この宇宙で――行う観測を洞察するために、直接引っ張り出しているのだ。 (P286)

そんなやり方は、果たして「科学」なのだろうか?

仮説を立て、実験や観測によってその仮説を検証するのが「科学」なら、検証することのできない並行宇宙を持ち出してくるような理論を「科学」と呼んでいいのか。

というところで下巻に続きます。

はぁ。

疲れた(笑)。

最後の「これは科学か?」も面白い問いだけど、読んでてふと思ったのは、「そもそも数学はそんなに世界と合致しているのか?」ということ。

相対性理論にしてもひも理論にしても、数式で表現されていて、とある物理現象がその数式で過不足なく表される時、それが「なんとかの法則」と呼ばれるわけですよね。

で、それが「静的な宇宙」と合致しないからアインシュタインはわざわざ「宇宙定数」というものを持ち出したわけだし、「ひも理論によると世界は10次元」というのも、10次元あるという設定にするとひも理論の数式が矛盾なく成り立つ、ということらしい。

世界って、そんなに「数学」でできているものなのでしょうか。どうしても例外が起きてしまうような数式(理論)は、数式が間違っているのではなくて、人類の扱える数学では世界は記述できない、ということではないんでしょうか。

神は数学者か?』を読んだ時にも感じたことですが。

『神は数学者か?』の中には、

数学理論の存在を保証するものは何か? たとえば、なぜ一般相対性理論は存在するのか? 重力の数学理論が存在しない可能性はないのか? 答えはあなたが想像するより単純だ。保証などないのである! (P323)

つまりある意味では、科学者たちは数学で解決できそうな問題を選び出し、研究してきたとも言えるのだ。 (P324)

という文言があります。

「この数式からはこういうことも類推される→実際にあった」ということもたくさんあるのでしょうけど、数学って本当に絶対的なものなのかなぁ……。


ともあれ、頑張って下巻に進みたいと思います。

(下巻の感想はこちら