※以下ネタバレだらけです!これからご覧になる方はご注意ください!!!



 

3月31日11時宝塚大劇場公演を観てきました。

そう、私が岩波文庫の『モンテ・クリスト伯』を読もうと思ったのは、宝塚でやることになったからです。『戦争と平和』も『大いなる遺産』も『赤と黒』も、宝塚のおかげで原作を読んだのでした。

観る前に読むこともあれば、観て面白かったから原作にあたることもあり。

今回は、観る前に読んでおこうと思ったわけですが、最終7巻目の半分くらい残したところで観劇日が来てしまいました。ちょっと頑張れば間に合って読み終われたんだけど、最後、読み終わるのがもったいなくて……わざと延ばしちゃった。ははは。

それだけ原作は面白かったのですが。

何しろ、岩波文庫で全7巻もの長編です。これを、1時間半のお芝居にまとめようというのですから、無理は承知の上ですよね(笑)。

うん、「よくまとめたな」と褒めるべきなのでしょう、きっと。

原作知らずに観たら、宝塚のミュージカルとして普通に楽しめる作品になっているのかもしれません。でも私はどうしても「間違い探し」しながら――「原作とはここが違う、あそこが違う」といちいちツッコミながら観てしまったので、一つのミュージカル作品としてどうなのかは、正直わかりませんでした。

何しろ長い話ですから、お芝居では描ききれない部分の「説明」をするための「狂言回し」が必要です。今回それは、「モンテ・クリスト伯」を上演しようとしている現代の演劇部員(たぶん高校生くらい)になっている。

こーゆー手法って、時々見ますけど、「モンテ・クリスト伯」の世界にどっぷり浸りたい私としては、「現代っ子」なんか出さないで、話を切らないで!と思ってしまいました。

初めて演劇部員が出て来るシーン以外は、まぁそんなに邪魔にならないよう、うまく「狂言回し」になっていたとは思うのですけど、でも次元を変えることなく物語世界の中で誰かに狂言回しをさせることはできなかったのかなぁ、と。

たとえばファリア司祭が語る形とか。

ファリア司祭は脱獄後のエドモンのことは知らない(死んじゃってるから)けども、彼の心の師匠として、また、司祭ということからもある種「神の視座」で、見守っていて不思議はないと思うのですよ。実際、最後のシーンにもそういう感じで出てきてるし。

で。

長い話を1時間半で飲み込めるようにするためには、色々設定の単純化も必要です。

ヴィルフォールはそうでもないけど、ダングラールとフェルナンの二人が原作以上にタチの悪い「悪党」になってて、ちょっとフキました。フェルナンはもともと貴族だったことになってて、いわゆる「ぼんぼん」の「ドラ息子」。息子の素行の悪さに手を焼いた父親がモレル氏に「ちょっと船にでも乗せて鍛え直してくれ」と預けたということになってる。

原作では単なる病死のファラオン号の船長も、フェルナンに殺されたことになってるし……。

ダングラールはダングラールで会計帳簿をごまかし密輸をして、船長を殺害したフェルナンを脅し、逆に密輸をネタに脅され……。ここまで悪いとこの二人をのほほんと「友だち」だと思ってたエドモンがむしろバカに見えるっていうか。

あんたの目は節穴すぎるだろう、と思ってしまう。

メルセデスはモレル氏の娘ってことになってるし。

カドルッスの代わりにその妻カルコントだけが出てきたり。

山賊ルイジ・ヴァンパはパイレーツ・オブ・メディタレイニアンになってるし、ベルツッチオのキャラクターがまた。

いや、確かに原作でもベルツッチオはエドモンに忠誠を尽くし、決して裏切らない(裏切れない)有能な家令なんだけども、宝塚版では家令というより「バディ」な感じなのよね。

命の恩人であるエドモンに一生ついていくと決めていて、復讐という悪魔に蝕まれるエドモンをなんとしても守ろう、救おうと思ってる。

もともとベルツッチオも海賊の一員だったのに、なんでそんな信心深いというか道徳的なんや、ってぐらい、エドモンの「良心」になってる。

原作のエドモンは、復讐に燃えながらもモレル氏やその息子マクシミリヤンには慈愛の目を注ぎ、エデに対してもただ「持ち駒」としてだけでなく、悲惨な運命を生きる少女への憐憫や共感を持って、「娘」のようなつもりでそばに置いている。

善と悪、怒りと優しさ、決してどちらかだけとは言えない複雑な、深みのある人間として描かれてる。

1時間半の舞台で描くには複雑すぎるから、「復讐に燃える部分」はエドモンに、もともとの彼が持っていた人なつこい、まっすぐで優しい部分はベルツッチオに投影して、一人の人間の中で起こっているであろう「葛藤」を、わかりやすく二人の人間に分けて見せているという感じ。

緒月さんの温かい雰囲気は「良心」ベルツッチオをとても魅力的に見せていたけど、でも原作のエドモンが好きな私としては、「復讐に燃えるだけ」のエドモンが物足りない……。

舞台のエドモンは「神など信じない!」って言ってるけど、原作では「神は私のやることを認めてくれている」って感じだし。

まぁ、「神に許された復讐」「神の代わりに罰を下す」なんてのはあんまり堂々と言えないところもあるのかもしれない。現代宝塚的に。

その点、獄中のぼろぼろエドモンはかなり頑張って「ぼろぼろ」にしてたね。プログラムに、「今のファンはスターはイケメン役でないと許してくれない」みたいに書いてあったんだけど、だから牢獄のシーンは10分程度に留めた、って書いてあったんだけど。

そういうものなんですか、今のファンの皆さんは。

まぁ、「1時間半」という制約の中では、どっちみち牢獄のシーンを長々とやる余裕はないし、いっそのこと完全に切っちゃうというのもありだったんじゃないかと。

ファリア司祭との邂逅、脱獄、宝の発見は面白いし、14年もの長きにわたって苦痛を嘗めたということが「彼の怒りももっともだ」と見ているものに過酷な復讐を納得させる理由にもなっているけど、じわじわと仇達を追い詰めていくその「じわじわ」がもっと面白いから、時間がなくて復讐が呆気なくなってるの、残念なのよね。

牢獄シーンを切ったとしてもそうそう「じわじわ」は描けないだろうけど。

原作では14年のあと10年。お芝居では14年のあと6年で、ちょっと短くなってる。トップスターのやる役だから、40歳でもギリギリ、ってとこかなぁ。エドモンだけじゃなく、メルセデスもそれなりに年取っちゃったことになるから。

凰稀さんのエドモン、決して悪くはなかったけど、やっぱり原作のエドモンからすると若いし単純な感じで……。

メルセデス役の実咲さんも頑張ってアラフォーの母親をやっていたけど、うーん、もう少し抑えたお芝居もあって良かったかな。エドモンに息子の命乞いをするところ、がなってるばっかりに見えた。

ダングラールの悠未さんは、「またこんな役か」的な(笑)。悪い役似合うけどね。

フェルナンの朝夏さん。よくわからない。そんなに印象に残らなかった……。

娘役ではヴィルフォール夫人役の純矢さんが悪女似合ってて良かったな。大人っぽくて。

どうしても原作との相違部分に目が行く観劇だったのだけど、ラストがまた。

「アルベールはあなたの息子よ!」で萎えました……。

それはやっちゃいけないと思うんだ。メルセデスとハッピーエンドになるにしても、そんな安易に「実はあなたの子」っていうの、薄っぺらすぎない!?

原作での決闘の決着のつけ方が好きだっただけに、ぐぇぇぇぇぇ、となった。

撃たれたのかと思ったメルセデスがピンピンしてたのも「あれ?」だったしなぁ。

全体に、薄っぺらい話になっちゃってたよ、なんか。

わかりやすさと「人間の深さ」みたいなものを両立するのって、難しいね……。

 

原作をあんまり知らないうちの母親も、「いまいち盛り上がりに欠けたねー」って言ってた。ヴィルフォールもダングラールもわりとあっさり敗北しちゃうからさー。20年の思いを込めた復讐のはずが、「え、そんな簡単に」って見えちゃって。

うーん。

原作長すぎるもんね。仕方ないけどね。

 

凰稀さんってカナメさん(涼風真世)にも似てるし、ユキちゃん(高嶺ふぶき)にも似て見えることがあるんだけど、『モンテ・クリスト伯』見てて、「これカナメさんがやったら面白そうだなー」とつい思ってしまいました。

『銀の狼』のシルバぽいエドモン(笑)。

メルセデスは……ミミちゃん(こだま愛)で見たい!大人の女も任せて!のミミちゃん。きっとあの命乞いのシーンも見事にやってくれるよなぁ。最初の結婚式のシーンではあくまでも可憐で。

じゃあエドモンはウタコさん(剣幸)でいいような気もするが。

カナメさんエドモンだと、フェルナンが天海さんでダングラールがノンちゃん(久世星佳)、ベルツッチオはミツエちゃん(若央りさ)あたりかな。

うわ、めちゃめちゃ見たいわそれ(笑)。

おばさんはすぐ懐古趣味入るからいけませんな。はは。