
『一九八四年』は昔、大学生くらいの時に読んだことがあるのですが、「新訳版」ということですし、「読んだ」と言っても中身をほとんど覚えていなかったので、うっかり買ってしまいました。
読み始めて後悔しました。
気が滅入る。
読み進むのが非常につらい。
ディストピア小説としてあまりにも有名な作品ですから、あらすじをご存知の方は多いと思います。私も、「全体主義の監視社会になってる架空の1984年を舞台にした作品」ということだけはもちろん覚えていました。
が。
こんなに陰鬱な作品だったっけ???
もしかして「読んだ気がしてた」だけで、実際は読んでなかったんだろうか…。本当の1984年には話題になってたと思いますし、その頃私は高校生くらいなので、「話題」だけで「読んだ気になってた」のか。
いやいや、図書館で借りた記憶が確かにあるんですよ。
高校生とか大学生で読むのと今読むのとでは、やはり感じ方が違うということなのでしょう。旧訳と新訳でも雰囲気の違いがあるのかもしれません。
核戦争後、オセアニア、イースタシア、ユーラシアの三大国に分かれてしまった世界。今はオセアニアの一部になっている旧ロンドンが舞台です。
「ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」というポスターがあちこちに貼られ、「テレスクリーン」という双方向画面と隠しマイクにより、市民の行動は逐一把握されている。
「市民」というか、「党員」ですけども。「党員」の他に、「プロール」(おそらくプロレタリアという語から造られた言葉)と呼ばれる「下層民」がいて、この「大衆」はわりと自由に暮らしている。もちろんその代わり貧乏なんだけれど、「党員」階級もそれほどいい暮らしはしていないんですよね。食事もまずそうだし、お酒もまずくて質の悪いジンしかない。いつも作業着である青いオーバーオールを着て、女性の化粧も禁止されている。
「党」という言葉でわかる通り、発表当時この作品は旧ソ連とスターリンを批判したもの、と受け取られたそうです。
今読むと、「これって北の将軍様の……?」と思ったり、「日本にもこういう“芽”が出て来てるよね」と思ったり。どこか一つの国、誰か一人の主義というわけでなく、どこの国も、どこの指導者も、そしてどこの国民にも、こういう「社会」を実現してしまう“根”があるのだろうと。
「人間」というもの自体が、こういう怖ろしさを孕んでいるんだなぁ、と思って、ほんと、鬱々としてきます……。
主人公は39歳の党員ウィンストン。彼は、革命前の世界を覚えています。彼が子どもの頃はまだ現在の体制が整っていなくて、「自由」だった。過去の新聞記事等を「今の政府見解」に合わせて次々書き替える仕事に従事し、「本当の過去」が消されていくことに日々怖れを抱きながら過ごしているウィンストン。
そんな「怖れ」を抱くこと自体が党にとっては犯罪、「思考犯罪」なのだとわかっていながら、彼はどんどんとその犯罪を拡張していってしまう。
まず、彼は日記をつけ始めます。
紙に文字の跡を残すと言うことは運命を決める様な行為だった。 (P15)
日記をつけることが「死刑か最低25年の強制労働収容所送りになるに違いない」世界。12歳くらいから毎日日記をつけている私はもうとっくに……。
逆に言えば、何かを「記録する」ということがいかに重要か、ということですよね。市井の人間の日々の愚痴のようなものであっても、それを「記録」し「残す」ことが、「国家権力」にとっては脅威になりうるという。
もし党が過去に手を突っ込み、この出来事でもあの出来事でも、それは実際には起こっていないと言えるのだとしたら、それこそ、単なる拷問や死以上に怖ろしいことではなかろうか。 (P55)
実際にこの作品の世界ではそういうことが行われているわけです。この間までユーラシアと戦争していたのが急にイースタシアになって、「ずーっとイースタシアと戦争してる」ことになってしまう。新聞記事その他、過去に遡って修正される。「出来事」だけでなく、人もいなくなる。粛正され、いつの間にか姿を消す人たちは「現在」だけでなく「過去」からも消され、最初から「存在しなかった」ことにされる。
ただ単に殺されるのではなく、「生きていなかった」ことにされるのは、ホントに「拷問や死以上に怖ろしいこと」だと思います。
私のような凡人は歴史に名を残すことなどもとよりないけど、私が「消された」からと言って新聞記事を修正する必要などないけど、たとえそうであっても、「最初からいなかった」ことにされるのは……。
ウィンストンはジュリアという女性と知り合い、彼女と秘密の逢瀬を重ねる(自由恋愛も禁止されています。性欲自体を否定する方向に行ってる)のですが、ウィンストンより10歳以上若い彼女には、そういう「恐怖」はないのですね。
ものごころついた時から「世界はそういうもの」だったジュリアは、「性の抑圧」には異を唱え、党の暗黙の規則を破って何人もの男達とアバンチュールを重ねているんだけど、だからといって「クーデターを起こそう」という気持ちはさらさらなく、自分自身に関係してこなければ党が何をやろうとたいした問題じゃないと思ってる。
「過去の改ざん」についても問題意識を持たない。
この辺の対比は面白いな、と思いました。同じように「党に反逆」していても、その「考え方」はずいぶん違う。「反逆」の質が違うんですよね。
ウィンストンはジュリアを愛しながらも、「今ドキの若い子はみんなこうなのかな。自分みたいに革命前の記憶を持っていないと、こんなふうで当たり前なのかな」と考えます。
育った世界は革命一色で、それ以外の世界を知らず、空のように何か変えようもないものとして党を受け容れ、その権威に背いたりはせずに、ウサギが犬をかわすように、ただひたすらそれをやりすごそうという若者が。 (P203)
「生まれた時から不景気で、右肩上がりの時代を知らず…」というふうに翻案したくなりますが。
「何かおかしい」と感じるためには、やっぱりその「おかしい現状」とは違う世界、「違うあり方」が存在することを知っていなくちゃいけないのかな。権力者はだからこそ「情報統制」をするわけですけど、「閉じた世界」にいると、想像することすらできなくなってしまうのか……。
「過去の記録の改ざん」の他に、「1984年」のオセアニアは「言語統制」も行っています。
「ニュースピーク」という新しい言語を作って、「統制」どころか「言語破壊」を行っている。
ニュースピークの目的は挙げて思考の範囲を狭めることにあるんだ。最終的には〈思考犯罪〉が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現することばがなくなるわけだから。 (P82)
ひぃぃぃ!
「ニュースピーク」については「附録」としてわざわざその語彙や原理について説明があるのですが、ホントになんか、くらくらします。
「ことば」がなければ「思考」ができない。感情や概念を表す「ことば」がなければ、それを他人に伝えることも、記録することもできない。だから、たとえ国家権力に対して反感を持ったとしても、それを自分の頭の中でさえ「概念」として定着させておくことができない。
「ことば」というものがどれほどすごい力を持つものか。
明治期に西周たちが西洋の色々な概念を日本語に移し替えてくれましたが、本来そうやって「概念を広げていく」「思考の範囲を広げていく」ものであるはずの言語を、日々打ち壊していくオセアニア政府。
なんか、決して他人事とは思えない。
一つの「ことば」に内包された色々なニュアンスを切り落とし、単語数を減らすだけでなく「概念数」をも減らしていく「ニュースピーク」。豊かな語彙と意味を持った母語で思考できることがどれほどありがたいことか。
「国家」と「言語」と言えば、オセアニア政府の官公庁の名前。
ウィンストンが働く、「過去を改ざんする」部局があるところは「真理省」。戦争担当は「平和省」で、「愛情省」は党の脅威になりそうな人物を片っ端から拷問して殺す部署。
……国家が「愛」って単語を使う時はろくなもんじゃないですよね……。
「小説」だから、と思うかもしれないけど、トマス・ピンチョンさんが解説で、
戦争を造り出す装置が“国防省”と呼ばれていることを疑問に思っている人はほとんどいない。同様に、司法省がその恐るべき直轄部門であるFBIを用いて、基本的人権を含む憲法の保障する権利を踏みにじっていることは、十分な証拠が書類として提出されているにもかかわらず、我々はその省を真顔で“正義(ジャスティス)の省”と呼んでいる。 (P490)
と書いておられます。
誇張されてるとはいえ、決して「小説の中の特殊な話」ではないんですよね。
かれらに必要なのは素朴な愛国心だけ。それに訴えれば、必要なときにはいつでも、労働時間の延長や配給の減少を受け容れさせることができる。 (P111)
この「かれら」は一般大衆である「プロール」を指してるんですけど、内田樹センセがグローバル化について言っていることとあまりに同じでぞっとします。(たとえば「憲法記念日インタビュー」という記事。 “国際競争力のある日本企業が勝ち残れるために、国民はどれほど自分の資源を供出できるか、どこまで犠牲を払う覚悟があるか、それを問い詰めてくる。”)
反体制派のリーダーが書いたとされる本、『寡頭制集産主義の理論と実践』の中にはこんなことも書かれています。
物資は生産されねばならない、が、それらが分配されてはならないのである。これを実現するには、最終的に、絶えまなく戦争を行なうという手段に訴えるしかなかったのだ。 (P294)
戦時下にある、つまり危険な状態に置かれているという意識がある為、少数の特権階級に全権を委ねることは当然であり、生き延びる為に不可欠の条件であると思えてしまうのである。 (P296)
……なんか、本当に空恐ろしくなってきます。日本もそういう方向に向かっているような気がして。
もはや経済の成長が見込めない中、どうやって「お金」を回していくのか、どうやって「儲ける」のか。「軍需」は儲かると同時に、庶民には窮乏を強いることができる。この誘惑……。
作品の終盤、ウィンストンは「思考警察」に捕まり、「愛情省」で拷問および再教育を受けます。
この拷問のくだりがまたねぇ。気が滅入るどころじゃないです。
権力者はなぜ拷問を行うのか。なぜただ殺すだけでなく、「再教育」しようとするのか。
相手が苦しんでいなければ、はたして本当に自分の意志ではなくこちらの意思に従っているのかどうか、はっきりと分からないだろう。権力は相手に苦痛と屈辱を与えることのうちにある。 (P413)
うわぁ。
これが「人間性の真実」というものなのか。
ただ「従っているふり」では物足りない。ただ「生殺与奪の権を持つ」だけでも足りない。
苦痛と屈辱こそが、「こちらの優位」を保証する。
「心までは支配できない」と、反逆者たちは言う。「精神の自由」さえも許さないことが、苦痛に負けて「精神の自由」すら放棄させることが、「権力の証」。
嗚呼……。
ホントに、しんどいお話でした。
あのトマス・ピンチョン氏(と言っても著作は読んだことないのだけど)の解説も非常に読み応えがあり、「解説」というより一つの「文明批評」になっている感じです。難しい(汗)。
現実の「1984年」はとっくに過ぎて、21世紀ももう10年以上が経ち、世界は進歩しているのかどうなのか。いつだって、どこの国だって、一歩間違えればこの小説で描かれたような世界になってしまうのかもしれません。
くわばらくわばら……。
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