『ニューロマンサー』と同じく『PSYCHO-PASS』帯に惹かれて衝動買いした『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』。映画『ブレードランナー』の原作でもあるし、そのタイトルは色々ともじられていたりして、超有名なSFの古典です。

でも今まで読んだことがなかった。映画も見てない、他のP・K・ディック作品も読んだことがない。

何度か本屋さんや図書館で手を伸ばしかけたものの、結局スルーしてしまっていたんですよね。

『PSYCHO-PASS』のおかげでついに読むことができました。

うん、まぁ、面白かったんだけど。

なんだろ。期待が大きすぎたのかな。正直『ニューロマンサー』よりこっちの方を期待して買って、だから先に『ニューロマンサー』を読んだんだけど(好きなものは最後に取っておくタイプです)、『ニューロマンサー』はじめスプロール三部作が非常に面白かったもんだから、なんか、「あれ?」って感じで。

最後のページを読み終わった後の余韻が、あんまりない。

作品としてはすごくぴったりな終わり方なんだろうけど、でも、なんか、「好きとは言えない」感じ。

すべてを理解できない、「よくわからない」ことが「いい余韻」になっていた『ニューロマンサー』と違って、こちらはわかりすぎて物足りないというか……。

舞台は、1992年の1月3日。この作品が書かれた1968年から見れば、1992年はそんなにも未来だったのかと、ちょっとびっくりしてしまうけれど。

だって、人類の多くは火星に移住してしまっている。

致命的な世界大戦があって、地球には放射能の灰が降り続き、生きものたちは次々に絶滅してしまった。その「灰」の影響を避けるために火星への移住が推進され、地球に留まっているなんて“変人”だと思われるような世界。

なんか、3.11後の2013年に読むにはなんとも身に迫る設定で。

ほとんどの生きものが絶滅か、絶滅危惧種だから、「生きものを飼う」ことがとんでもないステイタスになっていて、ヒキガエル一匹がものすごい値段で取り引きされていて。

「本物」を飼えない貧困層のために、電気動物まで作られている。

電気仕掛けの「ニセモノ」を「本物」と偽って、「本物」を飼っている隣人と「飼育」について話す主人公。

なんというか、こう、最初から最後まである種のもの悲しさが流れている。諦めに似た、乾いた悲しみが。

火星では人間の生活を助けるためにアンドロイドが利用されている。時々火星を脱出して地球に逃げてくるアンドロイド。彼らを駆る「バウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)」のリックが、本作の主人公。

逃げ出した8人のアンドロイドのうち2人を倒したところで主任バウンティ・ハンターが倒され、残り6人の始末がリックに回ってくる。アンドロイドの製造技術はどんどん進化して、見た目はもちろん、最新のネクサス6型脳ユニットを備えたアンドロイドは、その「頭脳」も人間とほとんど変わりがないくらいになっている。

だからまず、バウンティ・ハンターはアンドロイドと人間を区別しなければならない。人間になりすまして逃亡生活を送るアンドロイドを、はっきりそれと見きわめなければならない。

そこでリックが用いるのが「フォークト=カンプフ検査法」。「感情移入度」のテストです。

感情移入はどうやら人間社会だけに存在するものらしい。ひとつには、感情移入能力が完全な集団本能を必要とするからだろうか。 (P41)

感情移入という現象は、草食動物か、でなければ肉食を断っても生きて行ける雑食動物にかぎられているのではないか――いちおうそんなふうにリックは考えている。なぜなら、究極的には、感情移入という天与の能力が、狩人と獲物、成功者と敗北者の境界を薄れさせてしまうからだ。 (P41-42)

作中で出て来る「フォークト=カンプフ検査法」の質問は「子牛革の札入れをもらった」とか、「レストランでシェフが生きたエビを釜ゆでにした」とかで、そんなのでアンドロイドかどうか本当にわかるのかよ!って思っちゃうんだけど。

現代なら、釜ゆでの活エビを「可哀想!」なんて思わないでしょう? そこでうっかり「美味しそう」なんて思ったら、即アンドロイド認定ですからね。

まぁ、この検査法は「生きものがほぼ絶滅してしまっている」というのが前提で、どんな生きものも――小さな虫や蜘蛛に至るまで――大事にして当たり前、という世界のものなのですが。

うーん、でも「感情移入ってそういうことなの?」と思っちゃったりしますよねぇ。

ネクサス6型(もしかしてGoogleのAndroid製品の名前はこの作品のアンドロイド型に由来するのかしら?)は作中で昔のSF小説を読んでたりするんだけど、「小説が読める」って、すごい「感情移入能力」だと思うけどな。

ただ、人間とアンドロイドの違いとして、

ある冷たさ。たとえば、人びとが住む星ぼしのあいだの虚空、無の世界からの吐息のようなもの。彼女のすることやいうことでなく、しないこと、いわないことがそれを感じさせる。 (P89)

なんて表現もされている。

「賢すぎる」とか。

合理的すぎる、みたいなところ。

人間そっくりなアンドロイドを追う過程で、リックは混乱してくる。素晴らしい歌声を持った「オペラ歌手」のアンドロイド。なぜ彼女を殺さなければならないのか。脱走アンドロイドは脱走の際に人間を殺しているとはいえ、ただ「自由に生きたい」と思っているだけなのに、なぜ排除する必要があるのか。

フォークト=カンプフ検査法で自分を検査して、もし自分がアンドロイドだと判定されたら?

リックの前には、人間なのかアンドロイドなのか判然としない同業者も現れて、リックはかえって「自分の方がおかしいのではないか?」とまで思い始める。

どういうことになるか、わかっているんだろうな? もしわれわれが、いま動物をそうしているように、アンドロイドを感情移入対象の枠内へ含めたとしたら? (P184)

「感情移入」が人間の「特質」なのなら、人間はアンドロイドにさえ感情移入できる。電気動物を飼育し可愛がるのと、アンドロイドに同情し助けたいと思うことはどう違うのか……。

脱走までして地球へやってきても、ここじゃわれわれは動物なみにさえ扱われない。われわれぜんぶをひとまとめにしたよりも、ミミズやワラジムシのほうがだいじがられる。 (P159)

鯨やイルカを「賢いから殺しちゃダメ」なのだったら、人間以上に賢いとも言えるアンドロイドはなぜ殺していいのか。「人間が造ったもの」だから、人間に生殺与奪の権利がある。

そうなんだろうか?

アンドロイドは工業製品だから、同じ姿形をしたものが何体か存在する。自分そっくりのもう一体の存在を知ったアンドロイドは

わたしが――わたしという個人が――存在すると思っていたのは、ただの幻想。わたしはあるタイプの見本にすぎないんだわ。 (P247)

と嘆き、

「わたしは生きてない!」 (P253)

と叫ぶ。

彼女が最後にやったことの理不尽さを考えれば、彼女は立派に「人間」なような気がするけど。

人間の生命が脅かされるようなものを、なんでわざわざ人間は造っちゃうんだろうね。「造られた」彼らが人間にとって「脅威」になるのは、彼らのせいではないのに。

コントロールできると思って、メリットの方が多いと思って、人間は、「脅威」を造り出す。

自身の価値観、自分の拠って立つ根拠をグラグラにさせられながらも、リックは見事アンドロイド全員を始末する。たった1日のうちに。

なんて濃い1日。

なのに、お話はなんだか淡々と、乾いた感じで進むんだよなぁ。アンドロイドの悲劇も、わざわざ電気動物を飼わなきゃいけない地球の惨状も、リックの葛藤も、すべては「しかたのないことだ」という諦念が、ひたひたと底に流れているような。

「わかりすぎて物足りない」って書いたけど、作中に出て来る「マーサー教」っていうのは、実はよくわからない。地球に留まる人間達の心の支えになっている、「教祖との共感・融合」を主とする奇妙な「宗教」。

「宗教」を必要とするかどうかっていうの、アンドロイドと人間を分けるひとつの指標のような気はする。

アンドロイドは神さまを信じるのか。

そんな、究極の不合理を。

アンドロイドとの「戦い」によって傷ついたリックを救うのは「マーサー教」で、「奇跡」と呼べるかもしれない体験で。

人間には、神さまが必要なんだろうか。

「マーサーはまやかしじゃない」リックはいった。「現実がまやかしでないかぎり」 (P307)

現実は、まやかしかもしれない。