『オネーギン』と一緒に借りてきたプーシキンの『大尉の娘』。こちらは表紙に「プーシキン晩年の散文小説の最高峰」と書かれています。

「晩年」と言ってもプーシキンは37歳で亡くなっているので、「爺さんになってからの作品」というわけではありません。

主人公は20歳そこそこの青年だし、物語にも、簡潔で瑞々しい文章にも、30代半ばの「若さ」が感じられます。もっとも「散文小説」としては本当に完成度が高く、『ベールキン物語』や『スペードの女王』といった短編小説を経て、満を持して放った長編小説という感じがします。

『スペードの女王』が1833年、この『大尉の娘』が1836年。そして1837年2月にプーシキンは亡くなってしまう。だから、確かに「晩年の作」ということになってしまうのだけど、もしも長生きしてたらねぇ、まだまだ傑作を書いたのではないかと……ホントに。

で。

『大尉の娘』というタイトルはヒロインのことを指していて、主人公はピョートルという貴族の青年。17歳で「おまえもそろそろ軍隊に行くか」と父親に言われ、辺境のベロゴールスク要塞へ赴いたところ、そこの司令官ミローノフ大尉の娘マリヤと恋に落ちる。

時おりしも「プガチョフの反乱」の真っ最中。

反乱軍はベロゴールスク要塞にも襲いかかり、絶体絶命のピョートルを救ったのは……。

本文は、ピョートルの1人称で書かれています。

最初に「おじいさん」になったピョートルが孫に向かって話しているシーンがあり、その後に若いピョートルの1人称での手記が続く、という形です。

「読者よ!」と作者プーシキンが地の文で思いきり呼びかけてしまう『オネーギン』の後では、「あくまでピョートルが語る」文体がとてもしっくりと読みやすく感じます。最後、ピョートル自身は経験していない――つまり自分では語れないはずのエピソードになりますが、そこでも「何度も繰り返し聞かされたので今では自分が人知れずその場に居合わせたような気がする」と断りを入れた上で、ピョートルが語っています。

その繋がりもスムーズです。

最初の「おじいさん」部分はあまりにも「おじいさん」に訳されていて、本編の手記部分の若々しいピョートルと同一人物とは思えないくらいですが、これはきっと訳者さんのせいですよねぇ。原文のロシア語でそんなにも「おじいさん言葉」になっている(本編と文体が違う)とは思えないけど……どうなんでしょう。

「瑞々しい文章」と言ってもそれもあくまで「日本語訳」を読んでの印象で、実際にプーシキンがロシア語で書いた散文が「瑞々しい」のかどうか、私にはわからないのですが(汗)。

物語終盤でもたったの二十歳の主人公に付き従い、世話を焼く従僕サヴェーリイチ。

要塞の司令官というより「よき家庭人」という印象の強いミローノフ大尉としっかり者のその妻。そして気立ても良く頭も良いマリヤ・イヴァーノブナ。

それぞれのキャラクターがよく描かれていて、特にサヴェーリイチの若旦那に対する愛情には思わず頬がゆるみます。

昔のロシアの「従僕」って、本当にこんな感じだったんでしょうかねぇ。日本でも、時代劇なんかで若様に仕える身分の低い「爺や」みたいのが出てきて、何かと世話を焼いたり、時には命がけで「若様」を守ったりしますけど。

『オブローモフ』を読んだ時も思ったけど、「貴族(旦那)」とその従僕や下女、という関係、傍目には「身分による搾取」のように見えて、でもそれで「どっちも幸せに生きてる」って部分もあったんだろうなぁ、とか。

もちろん「搾取」の関係でしかない「旦那」と「下働き」、「旦那」と「領民」というのもいっぱいあったのでしょうけど。

そうであればこそ「プガチョフの反乱」に賛同し、あっという間に彼を皇帝と崇めてしまった農民達というのもいたのでしょう。

この作品の中で、プガチョフもまた非常に魅力的な人物として描かれています。

主人公ピョートルと奇妙な縁を結び、彼に対しては人間的で親切な面も見せるプガチョフ。今はへいこらしている自分の部下達が、いざ負け戦になれば即座に自分の首を討つだろうことも承知の上で、「今さら後悔しても追っつかん。乗りかかった船だ」と前へ――破滅へと続く道を進んでいく。

かつて宝塚歌劇で月組が『黒い瞳』として上演した時に、プガチョフはリカちゃん(紫吹淳)が演じたのですけど、これがまたなかなかよく似合ってて、豪放磊落でカリスマ性を持った「反乱軍の首魁」を見事に演じてて、印象深かったです。

主人公のマミちゃん(真琴つばさ)がどんな感じのピョートル(宝塚版ではニコライという名だったらしい)を演じたのかは覚えてないのに、リカちゃんのプガチョフはしっかり記憶に残ってる。

マリヤ役の風花舞ちゃんはこの『黒い瞳』が退団公演でもあり、活き活きとして素敵だったなぁという印象。宝塚版ではマリヤは大尉の実の娘ではなくコサックの娘だった、という設定があったような気がするのですけど、何しろ15年も前の話なので確信はなく。

原作こんなに面白いなら、観劇後にすぐ読めば良かったなぁ。

宝塚でやった作品は大体原作を読んでみることが多いのに、これは読まなかったんですよねぇ。もったいない。

すぐ読んでいれば原作と舞台の違いもわかったのに。

まぁ、わかったからどうなんだ、って話もありますけど(笑)。

……と、ここまで書いて。

「あとがき」を読みました。

“最初の「おじいさん」部分はあまりにも「おじいさん」に訳されていて”と書いた部分。この「前詞」として掲げられた部分は、ロシア語での刊行本には収録されていないのだそうな。プーシキンが「序」とすべく書いた文章であることは間違いないけど、本として刊行される時には省かれていたと。

それを訳者である神西清さんが「ぜひに」と「序」として訳したらしい。

うーん、付けてあるのはかまわないけど、あまりにも「おじいさん」口調なのはどうなんだろうか…。

『オネーギン』と同じく訳者さんによるエッセイが3本「附録」として収められています。いずれも「翻訳の難しさ」について書かれたもので、この「おじいさん口調」の問題も「翻訳の難しさ」の一つでしょう。

性別や年齢によって、日本人にとって一番しっくり来る、物語に入り込みやすい「口調」を訳者は選択しなければならない。時代によってその「しっくり来る口調」も変わるので、たとえばミローノフ大尉のしゃべり方も、今だともう少し若い感じに訳されるのではないかと思ったり。

戦前に活躍された方でもあり、脚韻的なものを日本語に移すのには相当苦労があることは想像できるのだけど、「幸か不幸か日本の翻訳家は創作家とちがって、より高次な文学と取っ組むという身の程しらずな任務を背負わされている」なんて書かれるとちょっとムッとします。

日本の文学は「低次」だっておっしゃってるんですものねー。

「口語体に音律を与えようとするとどうしても七五調や文語的な定形律になってしまう」というのはなるほどとは思うけども。

私はあんまり詩を読まないから、現代口語文による「詩」がどれくらい「音律」を意識しているのかわからないけど、息子が小さかった時にいくつか読んだ「詩の本」はどれも、声に出して楽しいものだった気がする。

大阪弁の詩とかリズム感面白かったけど、実際には誰も喋っていない「標準語」の書き言葉でどれくらい「音律」を出せるかっていうのはなかなか難しい話だったりするのかな。

日本語だと「擬音」が「音遊び」の多くを請け負っている気もするし。

……ともあれ、ある作品を「翻訳」で読む場合にはその訳者さんの個性なり思想なりにどうしたって影響されるわけで。

訳によってその作品の好き嫌いも決まってしまったりする。

責任重大な訳者さんが「ちょうどいい日本語がない!」と呻吟するのも無理からぬことではあります……。


最後に。

本編中に出てきた素晴らしい一節をご紹介。

つまり犯人の自白というものが、その罪障を完全に示すために不可欠のものと考えられていた訳だが、この思想はただに根拠がないのみならず、法律の常識に全く矛盾するものなのである。なぜなら、もし被告の否認がその無罪の証明として認められないのなら、その自白に至っては益々その有罪の証拠とはなり得ぬ筈だからである。 (P106)

「拷問なんて」と思う主人公ピョートルの思いは、プーシキンその人の思想でもあったのでしょう。

150年以上の時を経ても、人間というものはあまり変わってはいないようです。