(『失われた近代を求めて』Ⅰ巻の感想は「その1:鎌倉時代の言文一致」がこちら、「その2:丁寧語にひそむ大問題」がこちら、「その3:非凡なる『平凡』」がこちらです)
2010年の5月に1巻目が出てから3年弱。
今年の3月にやっと2巻目が出ました。
刊行後すぐ買ったのですけど、どうも日本の近代文学に親しみたい気分ではなく、ここまで半年近く寝かしておりました。
まだまだ頭はロシア文学だったりルパンの残像を引きずっていたりするのですが、「そろそろ読まないとなー」と思って手に取ると、これがやっぱり面白い!
あっという間に読んでしまいました。
1巻の時も言ったけど、ホント、橋本さんの解説で読むと日本近代文学でさえ面白い!!!(笑)
2巻目のテーマは「自然主義」。
「自然主義」ってなんぞや、とWikipedia先生に聞くと、もとはフランスでエミール・ゾラが提唱したもので、「自然の事実を観察し、「真実」を描くために、あらゆる美化を否定する」ものらしい。
「その影響を受けて日本でも」とWikipedia先生には書いてあるけど、「日本の自然主義ってホントにそーゆーもんなの?影響なんか受けてるの?そもそも“俺は自然主義文学を書くぜ!”って意識で書かれたものなのか?」という疑問のもと、「日本の自然主義とされた作品を解剖していく」のがこの本です。
「島崎藤村の『破戒』(1906年)や田山花袋(1907年)の『蒲団』が自然主義文学の支柱を成した。」とWikipedia先生は言っていて、橋本さんもまずは田山花袋のお話をしてくださる。
田山花袋の『蒲団』(リンクは青空文庫。以下同様))は1巻でも取り上げられていて、言文一致の「日本文学」が「恥の多い人生を過ごしてきました」という「私小説」へ行ってしまう決定打になったような、「若い女に一方的に恋をして報われず、女の寝ていた蒲団を抱きしめて泣く」という「なんじゃこりゃー」な作品です。
『蒲団』と同じ年に二葉亭四迷は『平凡』という「完璧な私小説のパロディ」を著して「自身の女との関係を書くものが文学だってんならやめちまえ!」という痛烈なメッセージを送っていて、二葉亭四迷によると自然主義というのは「牛の涎」に過ぎないのだそうな。
《近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、些かも技巧を加えず、有の儘に、だらだらと、牛の涎のように書くのが流行るそうだ》 (P9 『平凡』からの引用)
いやはや辛辣ですねぇ。
牛の涎のようにだらだら本の感想を垂れ流す私。耳が痛い…。
一方森鴎外さんは『蒲団』『平凡』が世に出た2年後に『ヰタ・セクスアリス』を書くのですが、この作品もまた、「自然主義を揶揄する」ものになっているらしい。
『ヰタ・セクスアリス』って、日本語にすると「性的人生記」で、高校生ぐらいの時にはそのタイトルだけでドキドキしちゃったものですが(笑)。
引用文を読んでいると、そんなにHな作品でもないみたい(爆)。
というか、『蒲団』である種決定的になってしまった、「自然主義=自分と女との関係を書く」という風潮に対して、鴎外さんは「それってどうなの?」と思っていたようなのです。
「性欲がらみの懊悩」ばかりを問題にして、「それが人生だ」ということにしてしまう自然主義の悪口は、言いにくい。森鴎外は、「性欲だけが人生か?」と考えるが、性欲が人の枢要に位置を占めるようなものである以上、そう簡単に自然主義を否定し去ることは出来ない。 (P30)
で、「自分でもやってみるか」と思って「性的人生記」をやってみたけど、どうも身にしみない。
森鴎外は「性的な自分」にあまり関心がなく、「性的な日本」の方に目が行ってしまう。 (P30)
要するに鴎外さんは「ままならぬ性欲を抱えて悶々とするタイプではなかった」ということみたいなんだけど、鴎外さんにしても四迷さんにしても、「性欲絡みの悶々だけが文学じゃねーだろ」というのは実に共感しますね。
もっと違う様々な「物語」があっていいはずなのに、「自分の悶々を書く=私小説」が日本文学の王道みたいになってしまったのはどうなの、と。
おかげで読む気にならないじゃないのと(笑)。
それにしても『ヰタ・セクスアリス』に描かれた明治の日本はホントにあっけらかんと性的で、びっくりしてしまいます。当たり前に春画があった江戸時代からまだまだ地続き。
そういう「あっけらかん」があったがゆえに、新時代へ向かう若者の多くは悶々としたのですかねぇ。
いわゆる「日本の自然主義」は、「書き手が自身の抱えた性欲で悶々とする」という前提がなければ始まらないという一面を持っている。 (P34)
前近代の日本で「性的不自由」を嘆く男は「もてない男」だけだった。だから、江戸時代に「性的飢餓を訴える男の嘆き」は、文学というステージに上がらなかった。 (P38)
「もてない男の悶々」が文学というステージに上がる、それこそが新時代……。
いや、でも、えっと、日本のこの時期の文学が「自分自身の悶々」になっちゃったのには、「言文一致体」の「弱点」が大きく影響しているらしいのですね。
「言文一致体ではない文章」には、「文章それ自体が“語ること”を担当する能力」があるのに対して、言文一致体の文章では、「語るに際して書き手がその姿を現さなければならない」という弱点があることだ。 (P65)
これはものすごくなるほどと思いましたねぇ。
それ以前の「文語体の文章」は、「語り手」を意識する必要がなかった。「言文一致体」が生まれるまでの紆余曲折というのは1巻に詳しく書かれていますけど、まずは「です」で書くのか「だ」で書くのか、「話し言葉」をもとにする以上、「誰が誰に話しているのか」ということが問題になり、そこをクリアにしないと「です」なのか「だ」なのか、文末の「丁寧語」も決められない、という。
「言文一致体」が十分に普及・成熟した現代だからこそ、「三人称・神の視点」などと言って、小説の「地の文」を「誰が」語っているか、などということはたいして気になりませんが(少なくともそれが「作者」でなければならないなどとは思いませんが)、まだ「口語体」に慣れていない、そんな文章を読んだことのない人々にとっては、「こんなふうに話しかけてくるのは誰なんだよ」ということを、無視することができなかったのでしょう。
読み手がそれを「作者」だと思ってしまう以上に、「書き手」の方で、「それを語る自分」を意識せずにいられなかった。
あげく、自分自身をさらけ出すことになり、「自身の悶々を赤裸々に書く」が「文学」になってしまった……。
「言文一致体で小説を書く」ために田山花袋さん達が悶々としている間にも「文語体」で小説は書かれていて、華麗なる雅俗折衷体の尾崎紅葉『金色夜叉』なんかは普通に、「自身の悶々」ではない「虚構の物語」になっているわけです。
まだ、「フィクション」であるためには「文語体」という「語りの装置」が必要だった時代。
「そんな白粉たくさんな文章!」と文語体を批判し、「新しい文章」を模索した田山花袋は結果的に、
作中のどこにでも田山花袋が存在してしまう「汎田山花袋主義」とでも言いたいような文体の誕生である。 (P125)
と橋本さんに言われる文体を編み出す。
「汎田山花袋主義」って(笑)。
『わすれ水』という田山花袋の作品が解説されているんですけど、これがもうホントにおかしくて。
いや、笑っちゃ悪いんだけど。花袋さんは大真面目にこの恋愛小説を書いたんだろうけど。
「『わすれ水』―そのシュールな展開」ですもの。
「ここから御都合主義の嵐が吹きまくることになる」 「ますますホラーだから」 (P130) ですもの。
ああ、どうしてこれ青空文庫に上がってないのかしら!(作業中作品らしい)
田山花袋の作品は、基本的に主人公の男が一方的に片思いして悶々として、その思いを相手に告げられないまま終わって、最後に「でも実は彼女もあなたのこと好きだったんですよ」って誰かが言ってくれて、「ああ、あの思いは無駄ではなかった」っていう構造になっている。
『蒲団』になると、その最後の「救い」が訪れず、「おまえの恋はあくまで一方的だった」で終わって、だからこそ「なさけないままの俺、画期的!」になるんだけど、『わすれ水』はまだ、「救い」付き。
でもこの「救い」がシュールでホラーなの、『わすれ水』。
若き日の恋は告白もできずに終わって、別の女性と結婚するんだけど離婚して、かつての思い出の地(若き日の恋が芽生えた地)を訪ねる主人公。
20年ぶりとかだから、主人公はもう50近い。
20年ぶりで、しかもその地には短期間しかいなかったのに、「自分だとバレないように」こっそり訪ねるところからして、いかにこの主人公が自意識過剰だかわかる。
おまえのことなんか誰も覚えてねーよ。
ところがどっこい、肝心の「若き日の恋の相手」はしっかり覚えていてくれるんだなぁ。向こうから「○○さんじゃありません?」って声かけてくるんです。それどころか、「うちに泊まっていきませんか?」って。
この、相手の女性も結婚してて、でもその夫は妾を囲って彼女はないがしろにされているという設定。
夫はいるけど別居して一人暮らしの40そこそこの人妻が、20年前に知り合いだった男を「うちへどうぞ」と誘って、「実は昔、あなたのことが好きだったんです」って告白してきて、そして。
男は「ああ、あなたも私のことを思っていてくださったのですか!」と泣く。
泣くだけ。
一夜をともに過ごしたのに、泣いただけで終わったらしい。
「性欲がらみの云々だけが文学じゃねーだろ」とは言い条、40過ぎて結婚歴もある男女が、互いの心の裡を知ってただ泣き濡れただけってあなた。
これ書いた当時の田山花袋さんは26歳の独身で、きっと「40過ぎた自分」なんかは想像できなくて、ただ「両思いだった!」で良かったんだろう。むしろ40絡みの中年女性になってしまった女と変に関係を持っちゃったら、美しい思い出を穢すことになる。
うん。
花袋さんって、「性欲云々」というより、「恋に恋する」って感じだよねぇ。
実のところ、彼は「生身の女性」を求めてるわけじゃないような気がする。告白すらできず悶々としているけど、そうやって悶々とすることこそが「恋」で、「両思いになった後の生々しさ」なんか、彼は求めてないんじゃないかなぁ。
だって、「生身の女」なんてめんどくさいもんね(笑)。
男であれ女であれ、実際に「生身の異性」「現実の、人格と肉体を持った“他者”としての異性」を必要としている人って、そんなにはいないのかもしれない。
純愛モノの多くで「相手が死んでしまう」のは、その方が「永遠に美しい思い出」になるからでしょう。ハッピーエンドになっても人生は続いて、生活があって、その中でラブラブだった二人にも色々面倒なことが起こってくる。美しい恋を「生活」にせず「美しいまま」留めておくには、相手が死んでしまうのが一番いい。
一方的に女性に恋するだけの花袋さんは、その女性の内面とか、全然どーでもいいと思ってそうだし。
『蒲団』や『少女病(おとめびょう)』は結婚後の作品だけど、結婚しても30過ぎても、やっぱり「恋に恋する田山花袋」。
こうして橋本さんの解説を読んでいる限り、花袋さんの青春恋愛小説って「リア充爆発しろ!」的な、現実に存在しない「二次元の美少女」に恋して身悶えてる作品に思える。
「青春の恋愛ってそーゆーもんだ」と言ってしまえばそーなのかな。
『ヰタ・セクスアリス』で描かれたあっからんと性的な明治初期の日本を思えば、「そんな即物的な“性”じゃない“恋”があったっていいじゃないか!それを文学にしたい!」っていう若者達が呻吟するのもわかる気がするし。
「恋」というものに関して橋本さんは、
「昔の男にとって、恋愛をするというのはとんでもなく大変なことなんだ。恋愛には“資格”というものが必要だった時代もあったのだ」ということである。 (P114)
とか、
恋というものに出会って、内心うろたえ騒ぐしかなくなってしまう人間は、今でも当たり前にいるはずである。現代での悲劇というのは、そういう人間が自分の内面を言葉にしようとすれば、どこからともなく「笑っちゃうね」というような声が聞こえて来そうな状況があることである。 (P116)
と書いてらっしゃいます。
前者「恋愛には“資格”が」というのは、「今でもそーだ!」と言いたい人も多いのでは(笑)。一方的に恋をするのは誰でもできるけど、リア充になるためには……ねぇ。バブルな頃に比べれば「お金」はそんなになくてもいいようになったろうけど。
後者の「笑っちゃうね」という話は、そういう「悶々」とか「葛藤」を口に出すのが「かっこ悪いこと」になって、「自分の思いを正当化」できないことが結果的に「ストーカー」を生むのではないかと。
江戸時代に「モテない男」の話は文学のステージに上がらなかった。今だって現実には「モテない男」や「モテない女」の方が多くて、恋に恋するだけで「相手との関係」を結べない人間の方が多くて。
なのに巷には「コイバナ」が溢れていて。
そのギャップの中で、口に出せない「悶々」は「歪んだ恋」になっていくのかも……。
「なんじゃこりゃ」って思うけど、田山花袋さんは口に出せて良かったんだよね、きっと。その後日本文学が「私小説」全盛になってしまうのはどうかと思うけど、「美男美女のロマンスだけが文学(人間)じゃない!」って言ってくれてるんだもんなぁ。
あと、余談ですが。
100年前にもこーゆー男いたのか…と思う田山花袋の『少女病』。数年前に現代の女の子の写真とのコラボで発刊されているんですけど、なんとその女の子、『仮面ライダーオーズ』の比奈ちゃん(高田里穂)なんですよ!!!(Amazon販売ページこちら)
うわぁ、見たい見たい見たい。
でも売ってない(泣)。
図書館にもない。
この本の撮影当時の里穂ちゃんは14歳だったそうな。オーズの時でも16歳とかだもんね。あんな可愛い子を見かけたらそりゃ見とれて線路に落ちて死んじゃうよね。
田山花袋さんも天国で「おおっ、これは!」と感涙しているんじゃないだろか。知らんけど(笑)。
牛の涎で性欲絡みの悶々が「自然主義」。
でも実はそうじゃない。
国木田独歩や島崎藤村の『破戒』は決してそういうたぐいの作品ではなかった……。
ということで、続きます。(続きはこちら)
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