続きです。(前段「恋に恋する田山花袋」はこちら

Wikipedia先生に田山花袋『蒲団』と並び、「自然主義文学の支柱を成した」と書かれている島崎藤村の『破戒』(リンク先は青空文庫。以下同様)。

でも『破戒』は「牛の涎」でもなければ「自分の性欲の悶々」でもありません。

文章は「テキパキとしたリズム感ある名文」だし、内容も、田山花袋と同じく主題こそ「言えない」だけども、「言えない」の中身は「恋心」ではなく「自身の出自」。

主人公の丑松は「穢多」(士農工商の下に置かれたという“穢多・非人”の穢多です)出身で、父親から「くれぐれも出自のことは言うな。隠し通せ」と言われている。

それが彼の負った「戒め」で、最終的にそれを破ることになるから『破戒』。

まぁそれを「言えない」のはしょうがないとして、引用個所を読んでいると「ゲイ小説」のようなんだよね。丑松が「この人になら秘密を打ち明けられる。打ち明けたい」と思う相手が男だから。

そして丑松がそれを「言いたい」と思うのは「言って自由になりたい」からではなくって、「言えば先輩は自分を深く受け入れてくれる」と思うから。

こうした文章を一々書き写して引用している私は、自分の引用しているものが「秘めやかな思いを抱いたゲイの若者の小説」なのかとも思う。 (P171)

わはは。

藤村は別に穢多出身というわけではなかったから「自分のことをだらだら書いた」には当たらないし、ゲイっぽくはあっても「性欲がらみの云々」というお話ではない。

「新平民として差別される若者の苦悩」と「普通の若者にありがちな苦悩」とが二重映しになるように技巧を凝らしてあったりもして、「いわゆる自然主義」とは一線を画す作品なのだけど。

なぜか「自然主義文学の支柱をなす」ことになっている。

橋本さんによると、「フランスで興ったもともとの自然主義」というのは「神の支配に抗する」という大原則があって、そこから「先天的な悲劇を背負った主人公を必要とする」ものになっているらしい。だから、「自然主義」には差別的な側面が存在すると。

そういう目で『破戒』を見ると、「穢多出身の若者」が主人公であるというだけで、「普通の人間なら見なくてもいいものを書いた自然主義の作品」ということになる。

ふうむ。

私が驚くのは、夏目漱石の『吾輩は猫である』『坊ちゃん』と、島崎藤村の『破戒』が、ほぼ同時と言ってよいような形で出現してしまうことである。島崎藤村を「自然主義の作家」とすれば、夏目漱石は「反自然主義」あるいは「非自然主義」と言われるような存在である。 (P76)

島崎藤村の『破戒』は、三人称の視点で書かれた言文一致体小説の最初の完成品と言ってもよいようなものである。(中略)夏目漱石の『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』は、言文一致の独白体による最初の成熟の見本で、二葉亭四迷の『平凡』はこの後に続く。 (P77)

「自然主義」から日本文学は「私小説」の方へ行ってしまった……ように見えて、同じ時期に実は漱石がいる。『吾輩は猫である』がある。

国木田独歩もいる。

独歩さんも「自然主義の先駆」とされていたりするのですが。

引用される『余と自然主義――附たり不思議の現象』に書かれた文章論には「なるほど」と思わされますし、短編小説『春の鳥』には、なんともいえぬ美しい余韻を感じます。

国木田独歩の「美しさ」は「人を見る目のやさしさ」に由来するもので、 (P187)

と、橋本さんは書き、『破戒』や国木田独歩の作品において「自然主義」と勘違いされたものは、「言文一致体に由来する口語文によって達成された美しさ」だったとおっしゃいます。

文飾を排して「見るべきものを見る」を我が物とした人達が、その「見たまま」を書いたら、それ以前のものとはまったく違ったものになってしまった。(中略)その時代に当てられるモノサシは、「自然主義」しかなかった。だから、彼等の作品の中にある「美しさ」があまりに問題にされない。国木田独歩と島崎藤村の『破戒』は、ついに言文一致体が獲得した「美しさを持った小説」なのである。 (P198-P199)

まだ「言文一致体」が完成していない当時、書く方も「模索」なら読む方も「模索」で、目の前に現れてきた「新しいもの」をどう評していいか、それを形容する言葉もまだなかった、ということなのでしょうね。

国木田独歩の『武蔵野』は、ラベルの『ボレロ』に似ている。 (P206)

この橋本さんの表現にも「美しさ」を感じますねぇ。そして独歩が持っていたと同じ「やさしさ」を。

対象に対する愛、「人間」というものに対する信頼。

それがあるから、橋本さんの著作を読むのってすごく楽しくて、日本近代文学なんていう普通なら近づきたくないような題材(笑)を取り扱ったものでも、すうっと心に入ってくる。

その名の通り「世間の自然主義だなんだという喧噪にはおかまいなく」、独り己の信じる道を行き、後世の人(橋本治さん)から

私なんかは、国木田独歩の『武蔵野』によって言文一致体は完成し、一八九八年の『武蔵野』から後を「二十世紀の日本文学」ということにしてしまえば面倒がないと思うのだが、 (P193)

と評される独歩さん。

38歳の若さで亡くなっておられるのですね……。もったいない。

ちなみに独歩さんと「恋に恋する」田山花袋さんはお友だちだったそうで。

作品的にはずいぶん違う二人だけど、そこがまたお互いに良かったのかなぁ。

で。

話はまた、島崎藤村に戻ります。

美しさを備え、「言文一致体小説の最初の完成品」と言ってもいい『破戒』を書いたあと、なぜか藤村の作品は「牛の涎」になってしまうのです。

日本文学で「作家研究」ということになると、その人の作品研究よりもまず「その人はどこで生まれて家族構成はどうこう」という戸籍調査みたいになってしまう傾向はあるが、それは『破戒』の後に『春』を書いてしまった島崎藤村から決定的になる。 (P176)

田山花袋さんが『蒲団』で「なさけない自分の話を赤裸々に書く」をやって日本の「私小説」を決定づけたのと同じように、藤村もまた、『春』以降の長編小説で、作家本人と主人公が渾然一体、作家の戸籍調査をして「どこまでが事実でどこまでがフィクションか」を判別しないと評価ができない、という流れを決定づけてしまった。

迷惑な話だ~(笑)。

私はもちろん藤村さんの作品なんて読んだことがなかったのですが。(「まだあげそめし前髪の…」は知ってるけど。ちなみにこの『初恋』以前に、日本文学には「初恋」を主題にした作品はないらしい)

自分自身を赤裸々に語った『新生』という作品がひどい。

いや、作品がひどいんじゃなくて、そこに描かれている藤村さんの女癖がひどい。

「女癖」っていうとちょっとニュアンスがずれるけど、要は藤村さん、姪に手を出すんですよ。藤村の妻が亡くなって、姪っ子(兄の娘)が家事を手伝いに来てくれていて、で、気づけば手を出してしまっていると。

この「気づけば」というところがまたすごくて、藤村さんは「赤裸々に告白」する『新生』の中でも、「それがいつ始まったのか」書かないんですよね。姪にもその気があったのか、一方的に藤村が押し倒したのか、「恋心」が先にあったのか、たまたまムラムラしちゃっただけなのか。

そしてすごいことに、この「始まりがない」は、島崎藤村の中でどうやら「不思議がる必要のない当たり前のこと」になっているのだ。 (P217)

『新生』だけじゃなく、『春』とか他の長編でも、「始まり」というものが描かれないらしい。

そーゆー人だと言ってしまえばそーなのか……。

「始まり」はなくて、いきなり姪っ子は妊娠する。『新生』では姪は「節子」という名になってて、21歳になったばかり。藤村は42歳(と言ってもおそらくどっちも数え年)。

亡くなった妻との間にすでに何人か子どももいる中年男性が実の姪に手を出して、「その結果どうなるか」を想像しないとか馬鹿か?と思うんだけど、「その結果赤ちゃんできました」と節子に告げられうろたえて、藤村はヨーロッパへ逃げてしまう。

おいおいおいおい。

身重の節子は、藤村から「実はかくかくしかじか」と経緯を知らされた父(つまり藤村の兄)のもとでこっそりと子を生み、その子は養子に出される。

で、足かけ4年ほどヨーロッパに「敵前逃亡」していた藤村は、日本に帰ってきてまた節子とよりを戻す。

と言っても今度は「交換日記」みたいなことをしたり、プレゼント交換をしたりするんだけど。

妊娠騒ぎの末にやっと訪れたのが「思春期的男女交際」で、これが捨吉の藤村を幸福にするのだ――。 (P231 “捨吉”というのは『新生』の主人公の名前)

……別に、「恋」の過程に順番なんかなくって、「肉体関係を持つ」がゴールであるわけもないから、子どもまで作ったあとに交換日記して喜ぶ、があってもかまわないんだけれど。

しかしなぁ、藤村……。

節子と「思春期的男女交際」をして「幸福」を覚えた藤村は、それを全部言いたくなって、『新生』を書いてしまう。その暴露に激怒した節子の父は弟である藤村を義絶して、節子を台湾へやってしまう。

それで藤村が落ち込むかっていうとそうでもなくて、

《節子はもう岸本の内部に居るばかりでなく、庭の土の中に居た。》 (P233 『新生』結びの一文)

「恋」は成就して、その幸せな思い出があるからいいや、みたいな。

で、藤村は5年後には別の女性に求婚して再婚するそうで。

藤村ェ……。

なんていうか、やっぱり藤村も、「恋に恋する」というか、「現実の異性」はどーでもいい感じだったのかなぁ。子どもまで作っといて「現実の異性はどーでもいい」もないもんだけど、でも「江戸から地続きのあっけらかんと性的」な世の中では、それは本当に「恋」とか「心」の問題ではなく、まったく別の次元の話なのかもしれない。

節子の心の裡とか、「節子の幸福」とかは全然考えてないみたいだもんなぁ。

たまたま目の前に姪がいたから手を出しちゃっただけで、「唯一無二の節子」に恋をした、っていうのではない気がする。

「記号」としての異性というか。

交換日記で良くて、「庭の土の中にも居る」という「幸福な恋の思い出」でいい、っていうのは、さすが「日本文学で初めて“初恋”を主題にした」だけのことはあると思うんだけど、叔父の子を産んで、それを小説という形で大々的に暴露されてしまった節子の立場は……。

で。

最後に、藤村の『夜明け前』の話。

『春』『桜の実の熟する時』『新生』という「赤裸々な告白」小説とはまた違う長編、『夜明け前』。

これの主人公のモデルは藤村の父親で、途中までとても優れた歴史小説になっているらしい。

「途中まで」というのは、最後に藤村が、主人公を「完全に父親」にしてしまうから。途中まではあくまで「モデル」で、よくできた「フィクション」になっていたのに、主人公の子ども(つまり自分をモデルにした登場人物)が出て来たあたりから、現実に引きずられていく。

藤村の父親は「狂死」したらしいのだけど、『夜明け前』の主人公も同じ最期を迎えさせられる。

「その必要はなかった」と橋本さんは言って、

「事実から始まったことが虚構(フィクション)になってもいい」ということを『夜明け前』は暗示していて、しかしそうはならなかった小説だと思う。 (P244)

とおっしゃっている。

一個人に関する事実の整合性なんか、書かれた小説が読者に与える意味に比べたらどうでもいい。 (P244)

ですよね。

それでこその「物語」だもの。

「リアリティ」というのは、そういうことじゃない。

「それも時代の若さ」だったのだろうと語る橋本さんのまなざしはやっぱりやさしくて、早く続きが読みたくなります。3巻目は漱石さんとかなのかな~?

(3巻目の感想記事はこちら