2014年4月23日水曜日

修道士カドフェル14『アイトン・フォレストの隠者』/エリス・ピーターズ



カドフェルシリーズ14作目。

久々に「濡れ衣を着せられた無実の若者を救う」話でしたが、若者ハイアシンスは必ずしも主役ではなくて、彼と友情を交わす10歳の少年リチャードの「結婚」が大問題という、ひねった展開になっていました。

中世の修道院を舞台に、よくこんなに色々なミステリのパターンを思いつけるなぁ、とピーターズさんの手腕に改めて感心。

しかし「10歳の少年の結婚問題」って、すごいですよね。

少年リチャードは荘園主の息子。「勉強させたい」という父親の希望で5歳の時から修道院に預けられています。当時の修道院はちょっとした「学校」のような機能も果たしていたようです。

で、10歳になったリチャードのもとに父親の死の知らせが届き、祖母ダイオニシアはリチャードを修道院から引き上げさせ、隣の荘園の娘と結婚させようとします。もちろんそれは「領地を増やすため」。頭も切れ、野心家のダイオニシアはもうずいぶん前からそういう計画を立てていたらしく、父親がリチャードを修道院に預けたのには、「母に息子を利用させまい」という思いもあったよう。

隣の荘園の娘ヒルトルードは22歳くらい。リチャードからすれば年増のおばさんです。

婚約者が結婚を前に亡くなってしまったとかで、「今さら求婚者もいまい」とヒルトルードの父親もこの「年の差結婚」に乗り気。ダイオニシアさえぽっくり行ってしまえば小僧っ子の財産はすべて義父である自分のものになるかもしれないんですから、そりゃあ乗り気にもなるでしょう。

リチャード自身は「そんなの嫌だ」と思ってますし、修道院長ラドルファスも、「父親からこの子を預かり、“後見人”と指名された以上、一人前になるまで修道院で勉強を続けさせたい」と思っています。人格者のラドルファス院長にとっては、幼い子どもが大人の欲のために利用されるのを黙って見過ごすわけにはいかないのです。

しかし院長に断られたぐらいですごすご引き下がるダイオニシアお婆さまではなく。

もしかしてお婆さまの陰謀?というような災厄が次々に修道院の森に降りかかり、ついに殺人事件が――。

殺人は2つ起こり、けっこう入り組んだ事件なのですが、やはり今作のメインは「10歳の少年が政略結婚させられる」ですよねぇ。

洋の東西を問わず、「貴族」の間ではそんな結婚が当たり前のように行われてきたのでしょうが、「10歳の少女が金持ちの爺ぃのもとに無理矢理」という話だけでなく、「10歳の少年が年増のおばさんのところに」というのもそりゃああったんでしょう。

このお話のヒルトルードはまだ22歳そこそこで、「年増」と言うには気の毒な「若さ」。そして彼女にとってももちろん、「一回りも下の子どもと結婚する」のは決して本意ではないのです。

リチャードとヒルトルードが初めてちゃんと言葉を交わし、「押しつけられた厄介ごと」ではなく「目の前にいるのは一人の人間なんだ」とリチャードが気づいていくところがいいなぁ、と思いました。ピーターズさんの人間を見るまなざし、ホントに温かくて好きです。

二つの殺しの背景には女帝モードとスティーブン王との内乱が絡んでいて、カドフェルやヒューとは立場を異にする人物が出て来ますが、そんな「党派」にかかわらず二人が「自分たちもきっと同じことをしただろう」と相手を理解するところも相変わらず。

付き従う「王」が違っても、騎士として、人間として、あるべき姿は変わらない。

今回、最後にカドフェルが珍しく殊勝なことを言い出します。本来なら修道院の壁の中で静かな暮らしを送るべき修道士が、事件解決のためとはいえやたらに外出し、時には祈りの時間に間に合わないことすらある。そしてそれを自分は悔い改めるどころか、「楽しんでいる」。

カドフェルは自分のそんな行いを「時間を盗んでいるのと同じことだ」と言い、「この事件の片が付いたら、冬の間じっと閉じこもってその償いをするつもり」だとヒューに話すのですが。

カドフェルがそのつもりでも、事件がカドフェルを放っておかないような気がしますよね。

それともこの冬は何事もなく穏やかに過ぎていってくれるのでしょうか。

カドフェルにそんな告解をされたヒューは、「羊たちはその者のために祈るでしょう。これまであなたが、神やわたしに反対してまで守ったような、黒い羊や灰色の羊でさえも」と答えます。カドフェルが世俗の事件解決のために修道士にあるまじき「罪」を犯しているとしても、彼のために救われた人々はみな彼に感謝し、彼のために祈るに違いないと。

その言葉を受けてカドフェルは

「全身が黒い羊はめったにいない。たいていはきみが乗っているこの背の高い馬のように、ぶちがある。わしらの大半は、多少ともぶちがあるといってよい」 (P299)

と言うのです。

「黒い羊」というのは罪を犯した人間の比喩ですけれども、「まったく無実の人間」「善だけでできている人間」などいやしない、とカドフェルは言っているのですね。

善と悪の入り交じった存在、それが人であると。

カドフェルみたいな考えの人ばかりだったら。ヒューやラドルファス院長、そして子どもたちの良き理解者であり指導者であるブラザー・ポールのような人ばかりだったら……世の中穏やかだろうになぁ。


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