11歳の天才(?)化学少女フレーヴィアシリーズ第5弾です。いつ出るのかなぁと待ちわびていました。4冊目が出たのが2012年の11月ですから、1年半も経ってますね。

(これまでの4冊の感想はそれぞれこちら→『パイは小さな秘密を運ぶ』『人形遣いと絞首台』『水晶玉は嘘をつく?』『サンタクロースは雪の中』

いやぁ、面白かった。解説の方が「シリーズ最高傑作」と書いてらっしゃるけど、嘘じゃないです。

なんというか、巻を追うごとにブラッドリーさんの筆がノッてきて、殺人事件自体もこう、“うまく”なってる気がするし、並行して明らかになっていくフレーヴィアの母親ハリエットの謎がねぇ。いいのよねぇ、その、絡み具合が。

前4作の感想を読むのがめんどくさい方のためにざっとおさらいしておくと、主人公フレーヴィア・ド・ルースはイギリスの片田舎ビショップス・レーシーに住む11歳(本作では“もうすぐ12歳”と書かれてます)の少女。化学――とりわけ毒物に関心が高く、大おじが遺した化学実験室で日夜実験に勤しんでいます。

彼女が住むバックショー荘は非常に大きなお屋敷らしく、家柄としてはフレーヴィアは「いいとこのお嬢さん」なのですが、もともとお屋敷の持ち主だった母親のハリエットが遺言を遺していなかったせいで、ド・ルース家の家計は火の車。

お父さんのハヴィランドは退役軍人で、別に働いてないみたいなので、そりゃ家計も厳しくなるよね、と思ったりもするのですが、時代と国を考えれば「働いてなくて当然」なのかもしれません。「いいとこ」=労働者階級じゃない、ってことですもんね。

シリーズ開始時は1950年が舞台で、第二次世界大戦が終わったたった5年後。ハヴィランドと、庭師のドガーは捕虜収容所で過酷な経験をしたらしく、そのトラウマのせいか、ドガーは時々発作を起こします。

フレーヴィアには二人の姉がいて、オフィーリアが17歳、ダフネが13歳。この二人とフレーヴィアの仲は最悪で、1作目は姉たちによって縛られてクローゼットに閉じ込められているシーンから始まりました。私たちが一般的に想像する「仲の悪い兄弟」よりもっとずーっと強烈に仲が悪いです(笑)。

その持ち前の化学知識と行動力で4件もの殺人事件を解決してきたフレーヴィア。1作目の事件からまだ1年経っていないというのに5件目の殺人事件が起こるビショップス・レーシーはかなりヤバい地域なのではないでしょうか(笑)。

日本語タイトルは『春にはすべての謎が解ける』となっていますが、原題は『SPEAKING FROM AMONG THE BONES』。「BONES」はここでは「遺骨、死体」の意味だと思われます。「遺骨のあいだから話す」とか「死体の中から話す」とかそんな感じ?

ビショップス・レーシーの教会では復活祭を前に聖タンクレアウスの墓が暴かれようとしていました。偶然にもその場に居合わせたフレーヴィアは、聖タンクレアウスの遺骨ではなく、教会のオルガン奏者コリカットさんの死体を発見してしまいます。

うん、ホント、フレーヴィアってコナン君なみに死体との遭遇率が高い。

ガスマスクをつけられた状態で亡くなっていたコリカットさん。聖タンクレアウスの墓を研究目的で発掘することを今になって反対しはじめた主教代理リドリー・スミス。墓に遺された数百年前の植物の種を研究しているというアダム・ソワビー。そして、フレーヴィアをハリエットと間違える、主教代理の息子ジョスラン。

前4作同様自転車のグラディスとともにあちこち走り回って事件のヒントを集めていくフレーヴィア。そこにはハリエットへのヒントも……。

ハリエットは、フレーヴィアが1歳のときにヒマラヤ登山中の事故で亡くなっていて、フレーヴィアには母親の記憶がありません。

「おまえはお母さんに似ていない」「おまえはもらわれっ子だ」と姉二人にいじめられても、母の記憶がないだけにフレーヴィアはちゃんと反論できず、悲しく悔しい思いをしてきました。

今作では、家族の血液を顕微鏡で調べて、「私の血だけが別物ってことはない!私には家族と同じ血が流れてる!」ということを証明しようとしたりもしています。

いじらしいなぁ……。

顕微鏡では、「人間の血」か「コウモリの血か」という種族判定ぐらいしかできないのじゃないか?という疑問はさておき、“科学的に血縁関係を証明しよう”とするところが非常にフレーヴィアらしい。

実のところフレーヴィアは「お母さんに似ていない」どころか、「そっくり」なのです。妻を亡くし、娘たちとどう関わっていいかわからずほとんど話をしてくれない父親ハヴィランドが、今作では

「おまえはお母さんそっくりじゃないよ、フレーヴィア」「おまえはお母さんそのものなんだ」 (P215)

と言ってくれます。

おそらく、見た目以上にその行動力、冒険心、頭の良さが母親そっくりなのでしょう。姉たちが彼女をいじめるのも、三人の中で一番母親に似た彼女が羨ましいからなのかも。見ていると嫌でも母のことが思い出されて心が疼いてしまうとか。

「おまえはお母さんと同じように大きな才能に恵まれている」とフレーヴィアに話す父。

「いつも忘れてはいけないよ、大きな才能には大きな犠牲がともなうものなんだ。何か質問は?」 (P216)

「お父さん大好き!」と思うフレーヴィアに胸が温かくなります。

前々から財政状況が厳しかったド・ルース家。今作の途中でそのお屋敷バックショー荘はついに売りに出され、フレーヴィア達は大きな不安を抱えます。けれど父ハヴィランドは詳しい経緯を説明してはくれず、姉妹でそのことについて話し合うこともない。

ないのだけれど、それでもふとした折に互いの不安が衝突し、抱き合って涙を流してしまう。「確かに家族なんだ」と実感しながら、それでも急に仲良くなったりはできない三姉妹……。

なんて奇妙なんだろう。大きな悲嘆に暮れる人が四人――父、ドガー、司祭、シンシア・リチャードソン――いるのに、それぞれが自分の過去に閉じこもり、おたがいのあいだでさえ、ひとかけらの苦悩も分かち合おうとしないなんて。 (P214)

結局、悲しみというのは胸に秘めておくべきものなんだろうか?閉ざされた容器なんだろうか?水の入ったバケツのように、ひとりの人間の双肩でしか担えないものなんだろうか? (P214)

村の人たちは沈黙という繭でくるむことで一人一人をいたわり、司祭夫婦の悲しい過去には触れないし、ハリエットのことも口にしない。家族の中でさえ、ハリエットの話を持ち出すことはタブーになっているのだ。

だから、母のことをろくに知らないままのフレーヴィア。知りたくても尋ねられないまま。

まだ赤ん坊のフレーヴィアを置いて、なんだって彼女はヒマラヤ登山なんかに出かけたのか?1950年の10年前っていうともう第二次世界大戦も始まってるんじゃないかと思うんだけど。

「大きな才能には大きな犠牲が」というハヴィランドのセリフにはちょっと含みを感じるし、今作の最後ではもっとすごい問題発言が飛び出すし。

次巻ではついに「ハリエットの死の謎」が明らかにされるのかも。

早く読みたい!!!

もともとは6巻構想だったらしいのが10巻になった、ということで、今作はちょうどシリーズの半分、折り返し地点。

うーん、まだまだ次巻では「ハリエットの謎」は解けなかったりするのかな。

フレーヴィアの捜査に協力しつつも、「誰に雇われてるのかは秘密さ」と言う研究者アダム・ソワビーの存在も気になる。今後も出てきそうだよね。ド・ルース家の秘密も何か知ってそう……。

最後にふたつ、フレーヴィアの頭の良さと性格をよく表してると思う個所を引用しておきます。

“じつは”という言葉は類似語の“正直言って”と同様、たいていの人にとって自動的に、あとにつづく言葉が真っ赤な嘘であるという目印になってよさそうなものなのに――そうなってはいない。 (P304)

彼の衝撃と苦難に満ちた過去については、どんなにささいなことをたずねても信頼につけ込んだことになり、許されるものではない。 (P349)


6冊目、これのようですね↓


10月発売らしいドイツ語版の表紙が可愛い↓


日本語版も可及的速やかに出してくださいね~、東京創元社さぁん。高くても買いますから!(文庫で1400円は正直つらいですけど……)