本国フランスで長らく「忘れられた作家」になっていたバルバラ氏をこの本の訳者である亀谷乃里さんが博士論文で取り上げ、そのおかげでフランスでバルバラ氏の作品が復活、英訳やスペイン語訳もされて世界中で読まれるようになったそう。

日本人が発掘したフランスの作家、満を持して日本初訳!

という「来歴」に興味を持ったのと、「ドストエフスキーも『罪と罰』読む前にこの作品を読んだかもしれない」「そういう萌芽が垣間見える」という煽り文句にもそそられ、手に取ってみました。

読んでみて、「なるほどなぁ」とは思ったのですが。

うーん。

面白くないことはないけど。

期待が大きすぎたというか、最初から『罪と罰』と言われちゃってるから、最初の「自殺と思われている事件」が「実は殺人なんでしょ。で、犯人はこいつなんでしょ」っていうのがわかっちゃうわけで。

そもそもタイトルが「殺人」だものね。

1855年の作品ということで、まだエドガー・アラン・ポーが出て来たばかりぐらいの状況を考えれば、ミステリーの趣きを持ち、かつ「罪と赦し」「良心の葛藤」を描く本作はよくできてるんだろうけど。

犯人のクレマンが可哀想なんだよね。

罪を犯す前から「不愉快な人間」というレッテルを貼られているクレマンだけど、真の悪党は罪を犯したことに苦しんだりしないだろう。

奥さんへの愛も罪のきっかけになってるし、殺された男には恨まれるだけの十分な理由もあって。

もちろんこの世に「殺されていい人間」はいないんだけど、貧困やら何やらで追い詰められて自殺まで考えていたクレマンのところに「おあつらえ向きに飛び込んで」きたんだもん、ふらっと悪魔に誘惑されるのもわかるよねぇ。

警察はそれを「自殺」と処理して、クレマンの身は安泰。バレる可能性はまずないのに、だからこそずーっとビクビクしてなきゃならない。しかも妻の生んだ子どもが殺した相手に生き写し。妻は精神を病み衰弱していき、手に入れた金で成功を収めたクレマンも心休まる時がなく。

いっそあっさり捕まってた方が楽だっただろうなぁ。捕まってたら死刑だったかもしれんけど。

クレマンは無神論者で、妻が心の平安を得るために「告解」しようとするのを執拗に妨げる。死の床においても決して許さない。それはただ単に「罪がバレる」からだけじゃなくて、「神などいるものか!」という信条にも拠っている。

無言で自分を告発し続けるかのような息子を生涯そばに置き、アメリカに渡って商売と人助けに励み、「十分以上に罪を償った」と思われるクレマンの最期は哀しい。

命がけで人助けしているのに、そのことがまた「鬼気迫る」「奇矯」と思われて、人々はクレマンから遠ざかる。

それもこれも犯した罪の報いなのか……。

こうして書いてみると確かにクレマンの造形は面白い。

『罪と罰』にはヒロインの赦しがあるけどクレマンには赦しが訪れなくて、結びは「その恐るべき事柄のなかに心を慰め得る何かを見出すとすれば、それは間違いなくマックスの幸運であろう」って、ええっ!?

クレマンの友人であり、その告白を聞くことになる、いわば「探偵」の役回りをする青年マックス。

マックスが幸せになっても……。

解説によるとマックスは作者自身をモデルにしているらしいです。

ボードレール等当時の才能ある若い芸術家達の「モデル小説」として読んでも面白いのだと。

ふうむ。

一から資料を探してバルバラ氏を復権させた亀谷さんはすごいと思うけど、作品として「めっちゃ良かった!」という感じではなかったです。

フランス文学史に興味のある方はどうぞ。