2014年7月25日金曜日

『ヴァリス』(新訳版)/フィリップ・K・ディック



P・K・ディックの作品は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』しか読んだことがなく、特にファンというわけでもないのですが、

「ディック最大の問題作新訳版」なんて帯を見ちゃうとですね。

ついつい買ってしまうんですよね。

どうも「新訳版」に弱い(笑)。

でもこれを買ったのはただ新訳というだけでなく、その内容に「神学談義が多い」らしかったから。神様はいるのかいないのか。あの有名なディックの「神学談義」で「晩年の問題作」「三部作新訳版刊行開始!」なんて言われたらついつい。

いや、なんか、面白かった。

『アンドロイドは~』より好き。

語り手の「ぼく」フィルと、その友人で「あいつ」と呼ばれるホースラヴァー・ファット。

フィルはフィリップ・K・ディック本人のことで、彼の作品名とか、映画化されたものがあるとかいう話が出て来る。映画化のおかげでそっち方面にツテがあるとか。

で、「あいつ」=ファットは女友達の死や妻子との別離に傷ついて、自殺未遂を起こしたりする。

作品の中の「現在」は1978年。1974年3月にファットは、彼が「シマウマ」と呼ぶ超越的な存在と遭遇した。ピンクの光線を受けて息子の病を治すための情報を得、その他にも色々情報を受け取ったらしい。

フィルもファットも「クスリ」をやっているらしく、その「神様のようなもの」との遭遇が現実なのか妄想なのか、それを記述するフィル自身、確信が持てないように見える。

解説によると、そういう神秘体験はディック自身が実際に経験したできごとらしく、作中でファットが書いている「釈義」と呼ばれる「神学メモ」のようなものも、ディックは現実に書き残しているらしい。

「釈義」には

宇宙は情報でわれわれはその中で不動であり、三次元ではなく空間にも時間にもいない。与えられた情報をわれわれは現象界に実体化させる。 (P186)

というようなことが書かれていて、語り手のフィルも普通に地の文で

不死性、時間と空間の廃止は、ロゴスやプラスマテを通じてのみ実現される。それだけが不死なのだ。 (P189)

とか言っちゃって、そーゆーの大好きな私はどんどん読み進んじゃうんだけど、苦手な人にとっては「なんだこれ?」という作品だろう。

ファットの自殺未遂とか多少の事件は起こるけど、前半はずっと神学談義や精神分析のような感じで、あんまり「物語」っぽくはない。

タイトルの『ヴァリス』っていうのは映画の題名で、フィルとファット、そしてその友だちであるケヴィンとデヴィッドはその映画を観てびっくりするのだ。

「え?これってファットの“シマウマ”と同じじゃない!?」と。

ファットと同じようにピンクの光線で“神様的なもの”から情報を受け取った者がいる、これはそのプロパガンダ映像だ、と理解したフィル達は映画の制作者に接近し……。

同じように“シマウマ”=ヴァリスの存在を信じ、受け取った“使命”を果たさなければ、と考えている映画の制作者に対して

自分自身が信じているナンセンスをだれか他の人が口走ると、それがナンセンスだとすぐにわかるというのは驚くべきことだ。 (P363)

とフィルが思うのが面白い。

同志になれるはずの相手なのに、自分たちだって“シマウマ”を信じているのに、「彼らは狂っている」と思うこのねじれ。

途中に出て来る

信仰の対象だった存在が実在するという発見により揺らぐ信仰――敬虔さのパラドックスだ。 (P275)

っていう指摘も鋭いと思うし、「時間が本物かどうか」という論点もすごくわくわくする。

フィルとファットの“関係”というか、ファットの正体については3分の2くらい行ったところでやっと明らかになる。私は先に解説を読んでしまったので、「そういうことなのか」と思いながら読んでたんだけど、何も知らないで読んだら「あれ?もしかして」ってふうに思ったのかどうか。

正体がわかっても、「え?でもじゃあどういうことになるの???」と、特に最後の方は思ってしまうんだけど、“シマウマ”が現実なのか妄想なのか、後半に登場する少女ソフィアの正体は何なのか、わかったようでわからないまんま終わるのがものすごく私好み。

3部作の1作目ということだから、もしかしたらこの先決着がついてしまうのかもしれないけど、最後まで「何だったんだろう?」って思うようなお話だといいなぁ。

なんというか、ここに書かれていることって、結局は「自分たちは何者なんだろう?」「世界を動かしているものはなんなんだろう」っていう問いで、そこに“シマウマ”とかピンクの光線とか異星人みたいなキーワードが出て来るから「ジャンキーのたわごと」みたいになるけど、「なんで神様は俺の猫を助けてくれなかったんだ」っていうの、すごい根源的な、本質的な疑問だと思う。

もし神様がいるなら、どうして猫や子どもや恋人や家族を見殺しにするのか。

大切な存在を亡くした時、誰でもが抱く疑問。

そもそもなぜ私たちは死んでしまうのか。死んでしまうのに、なぜ生まれてくるのか。

理不尽な世界に、理性的な存在――超越的な存在を求めてしまうのはきっと仕方のないことで。

しばらく前からぼくはシマウマ――一九七四年三月に目の前に顕現した存在をぼくはそう呼んでいる――は実は、線形の時間軸に沿ったぼく自身の自己を融合させた総体なのではないか、という見解を持っていた。シマウマ――またはヴァリス――はその人間の超時間的な表現なのであり、神様じゃない…… (P369)

こういう発想も、すごく共感できる。

私たちは2000年前のできごとを「歴史」として知っているけど、でも実際に2000年前を見てきた人はいなくて、時間的にも空間的にも、一人の人間が「知覚する」ことのできる世界は狭くて、もしかしたら全部嘘かもしれない、って思えてくる。知覚できないから存在しないとは言えないけど、それなら知覚できているからと言ってそれが本当に存在しているかどうか、って話も……。

時間は“本物”なのか。

ぼくたちはどこにいて、いつにいて、だれなんだろう? (P199)

続きの2作を読むのが非常に楽しみです。早く出ないかな~。


(新訳版の続きがいつ出るのかわからないのでとりあえず旧訳版を貼っておきます。旧訳はハヤカワではなくまずサンリオSF文庫で出て、その後創元SF文庫から出たようです)


【関連記事】

『聖なる侵入』(新訳版)/フィリップ・K・ディック

『ティモシー・アーチャーの転生』(新訳版)/フィリップ・K・ディック

0 件のコメント:

コメントを投稿