何年か前に――おそらくこのハヤカワepi文庫版が出た時に書評で見て気にかかり、「読みたいリスト」に放りこんでいた作品。

図書館になかったのでそのまま半分忘れていたのですが、先日たまたま近所の書店に並んでいるのを見つけてしまって、この手の本が「近所にある」というのは非常に珍しいことなので(笑)ついついレジに持っていってしまいました。

ちょうど「ローマ亡き後の地中海世界」を読んだ後でもあり、16世紀末のイスタンブールが舞台のお話というのに強く惹かれたんですよね。

上下2冊で2000円(税別)もするんですけどね……あうあう。

著者のオルハン・パムクさんは2006年にノーベル文学賞を受賞したトルコの作家さん。epi文庫版には「新訳」とついているように、『わたしの名は紅』というタイトルで以前にも邦訳されています。


トルコの作家のものを読むのも、ノーベル文学賞受賞者の作品を読むのも初めての気がするのですが、うーん、「なるほどなぁ」という感じではありました。

タイトルが「わたしの名は赤」で、ページをめくると「わたしの名はカラ」「わたしはシェキュレ」「あたしはエステル」といった章題がずらり。

そう、それぞれのシーンによって話者が変わるんですよね。

一つの物語を、登場人物がリレー形式で語っていく。

そしていきなり最初の話者が、「わたしは屍」。そう、死んでるんです。死者が「殺されてしまった」と語るんですね。

そう来るか!?と思って、その後の「わたしは人殺しと呼ばれるだろう」という正体不明の犯人の述懐や、「わたしは一本の木」といった、本来「しゃべらない」ものまでが話者になっている構成は非常に面白い。

いきなり死者として登場してくる「殺された男」は〈優美〉と仇名される細密画師。他の三人の絵師とともに「名人」と呼ばれていて、〈おじ上〉と呼ばれる人物の「秘密の書物」に関わったために殺されたらしいのです。

折しもその〈おじ上〉の甥にあたるカラが12年ぶりにイスタンブールに帰郷し、絵師殺人事件のゴタゴタに巻き込まれていきます。

カラはかつて〈おじ上〉の娘シェキュレに恋し、結婚を望んだのですが、そのことが〈おじ上〉の怒りを買い、イスタンブールから追い出されたのです。12年ぶりに会う愛しいシェキュレは二児の母になっていて、その夫はペルシア戦線へ行ったままもう4年も帰ってこない。

というわけで殺人事件の犯人捜しと、カラとシェキュレのロマンスが並行して進んでいくわけですが、どっちから話しましょう。

ロマンスにするか。

まず、ね。カラは現在36歳ぐらいで、シェキュレは24歳らしい。

え、じゃあ12年前は……カラ24歳、シェキュレ12歳。

え?

16世紀の話ですから、女の子は15歳ぐらいで結婚していたのかもしれませんが、24歳の男が12歳の少女にべた惚れして、その父親の怒りをかって、諸国遍歴の12年の間も彼女のことを忘れたことは一度もなく、ドキドキしながら再会するって。

え?

12歳のシェキュレもカラのことを憎からず思っていたけれど、カラがいなくなってしまったのだから仕方ない、17歳ぐらいで他の男と結婚し、二児をもうけます。

が、20歳で早くも未亡人同然になってしまったのですね。夫は「生死不明」のままで離婚もできず宙ぶらりん。子どもとともに義父の家で夫の帰りを待つ彼女はたいそうな美人らしく、夫の弟であるハサンにも思いを寄せられ、あげく夜這いをかけられそうになって実家に戻っていました。

そこへカラが12年ぶりに帰ってきて。

翻弄するんですよねぇ、このヒロイン。カラとハサンの二人を手玉に取る、みたいなことやっちゃう。カラと二人きりになれるよう自分から仕組んでおきながらやっぱり拒絶したり(まぁこれはカラにも非があったが)、かと思うと離婚の手続きと結婚の手続きを采配してカラと電撃結婚しちゃったり、でもカラが殺人者だと疑われるとさっさとハサンのいる義父の家へ戻っちゃったり。

おいおいおい。

まぁ、彼女にとって一番大事なのは「二人の子ども達」で、子ども達を守るためにはどうすればいいか、子ども達の父親としてふさわしいのは誰か?というのが「男としてどっちが好きか」より優先しているわけで、カラが殺人者となれば――そして長男がハサンにけっこう懐いているとなれば、そっちへ寝返ってしまうというのもわからなくはない。

人を好きになる時に、そういう諸々が無意識の「基準」として入ってくるのはむしろ当たり前で、「周囲に反対されればされるほど盛り上がる愛」なんていうのも、「相手の人間性」以上に周囲の思惑が恋情を煽っているのでしょう。

行商女にして恋人達の手紙の運び屋でもあるエステルの、

でも、カラと結婚したからこそハサンを想うようになったんだって、この娘は気づいているのかね? (P292)

っていう指摘は非常に鋭くて、シェキュレ自身の造形といい、エステルの描き方といい、オルハンさん女性のことやけによくわかってるな、と感心(笑)。

一途に思い続けたシェキュレと結婚できたカラは果たして幸せだったのか……。最後の述懐でシェキュレは「その理由が何であれ、カラはいつも悲しそうでした」なんてさらっと言っちゃうんだけど。

自分のせいだとはつゆほども思ってなさそうなところが怖い。(まぁ実際シェキュレ個人のせいというより、この作品で描かれた事件全体のせいなのだろうけど。カラの心に大きな影が巣くってしまったのは)

で。

殺人事件の方はというと。

肖像画に代表される西欧のリアリズム絵画と、様式を重んじるイスラムの細密画との軋轢が生んだ悲劇でした。

イスラムでは偶像崇拝が禁じられているので、絵画も原則として「装飾」の一部で、物語の挿絵といった形でしか許されていません。特定の人物を描いた絵を飾ることは「偶像崇拝」になりますから、そこに「様式美」はあっても、「個性的な美」はあってはならないのです。

ヴェネツィアで西欧風の肖像画を目にした〈おじ上〉が非常な衝撃を受けて皇帝に西欧風の絵画の素晴らしさを語り、感化された皇帝は彼に西欧風の絵の入った本を作らせる。その本に携わった4人の絵師、〈優美〉〈コウノトリ〉〈オリーブ〉〈蝶〉。

「その絵は異端だ」と告発しようとしたがために〈優美〉は他の絵師によって殺されてしまった……。

リアリティを追求すると「異端」になるとか「宗教」ってほんま大変やな、と思うんですが。

この作品を読んでいると、「だからと言って西欧の絵画の方が“正しい”とか“進歩してる”というわけでもない」と思えてきます。

それにしても西欧人どもの絵は、わしらを怯えさせるために描かれたのようだ。それを描かせた者の力や富がわしらを圧倒するのはもちろん、この世に存在するということ自体が、ひどく特別で神秘的な何かだと思いこませようとするのだ。 (上巻P232)

個別の誰かではないイスラムの細密画に対して、特定の個人をその人そっくりに描き出し、モデルとなった人物の死後もその面影を人々に知らしめ続ける西欧の「肖像画」。それはつまり、「自分は他の人間とは違う、唯一無二の存在なのだ」ということを強烈に主張するものでもある。

いったいに、人間というのはその陰影にいたるまでを克明に写しとらねばいけないほど重要な被造物なのだろうか? 人間の目の錯覚にすぎないというのに、通りに並ぶ家々を奥に行くほど小さく描くというのは、この世の根本に神ではなく人を置くということになりはすまいか? (上巻P185-186)

これは「わたしは悪魔だ」という章で悪魔が語る言葉です。(「一本の木」や「馬」や「悪魔」が語っている章は、噺家がそれらの描かれた絵を題材に、なりきって喋っているという体裁のようです。別に「木」が喋っていても全然かまわないと私は思いますが)

細密画で描かれているのは「人間の見た世界」ではなくて「神の見ている世界」なのだから、何も「人間の目に見えるとおり」描く必要はない。むしろそれは不敬であり、傲慢である、という考え方。

「あらゆる物語は万人のもの。その人間ひとりのものではない」 (下巻P394)

「あらゆる細密画は神のもの。――しかし、西欧人の様式が広まれば、他人の物語を我がことのように語れることこそが、天与の才とみなされるようになるのだろうな」 (下巻P395)

物語は万人のもので細密画は神のもの、というくだりはハティーフィーという詩人の言葉の引用らしく、その後の「しかし」以降は犯人が仲間の絵師たちに向かって投げる言葉です。

神よりも人を中心に据えた世界の方が私は良いと思ってきたけれども、人を中心にして――とりわけ「この私」を中心にすることには、やたらに傲慢になってしまうというデメリットもある。

西洋と東洋の衝突。中世と近代との衝突。

「唯一無二の私」という近代的自我は、本当にそんなにも素晴らしいものなのか。

イスラム国のこととか、考えてしまいますねぇ…。

遠近法で描かれていないからと言って、それは「遅れた文化」なのか。西欧文化だけが「正しい」のか。

西欧風の絵画に憧れた〈おじ上〉が作ろうとした「異端の書物」。「西欧風」を真似て描かれたその絵を、〈おじ上〉と皇帝はヴェネツィアへ贈り、彼らを驚かせようとしていた。

けれど。

おじ上の書物をヴェネツィアへ送ったところで、向こうの名人たちや頭領に笑われるのがおちだ。“オスマン人はオスマン人であるのをあきらめたようだ!”と言って、わたしたちを恐れなくなるだけさ。 (下巻P400)

うーん、そうだよねぇ。

オスマンの――イスラムの伝統に則った様式美なら、それはそれで西欧の人間も認めてくれるだろう。けれど中途半端に西欧を真似ただけのものにどれだけの価値があるのか?

それでも、いずれ「伝統と外来のもの」との融合を果たして新たな「美」を生むために、最初は真似ることが必要なんだろうしなぁ。

うん、そういう「葛藤」の部分は非常に興味深く読んだんだけども、長々と細密画について描写するシーンは退屈だったし、どんどんページを繰るという感じではなかった。むしろ、なかなか手に取れないことの方が多くて……。

最後、いよいよ誰が犯人なのかがわかるところ、カラと3人の絵師が犯人の絵師を追い詰めるところは緊張感たっぷりで面白かった。でも「犯人との緊迫した対峙」のはずが、「そのうち一人が情熱的にわたしの唇を吸った。わたしもその口づけに答えた」とかいう記述が出て来てファっ!?

その前の、犯人以外の男3人が互いを疑いつつ手を組んでいく過程でもいきなり相手を殺しかけたり、なんか「何この頭のおかしい人たち?」って感じで……。舞台は16世紀末だから、今とは犯罪に対する考え方が違って当たり前だし、何かあれば身を守るためにすぐ剣を抜いたんだろうけど。16世紀なら日本でもあっけらかんと男色存在してたし、犯人確保の場面でなければ男同士でディープキスしてても別にいいけどなぁ。

しかしかなりの重傷を負ったカラが警察(的な機関)にも行かず病院にも行かず自宅でシェキュレに手当てしてもらうだけで命を取り留めて、しかも手当てしながらシェキュレがいきなり愛撫を始めちゃうとかホント何なのこの女……。

シェキュレの次男の名前が著者と同じオルハンで、この物語はシェキュレが次男に語り聞かせたことをオルハンがまとめたもの、ということになってます。

「時を止める術を知るヘラートの細密画師は、お母さんをお母さんそのままの姿では描いてくれない。西欧の画家はいつも息子を抱く綺麗な母親の絵を描くけど、彼らには時を止めることは決してできない」 (P425)

というオルハンのセリフ、細密画と西欧画の比較として面白い。

具体的・個別的でない「様式」を描くがゆえに「時間を超越する」細密画と、具体的なものを描くがゆえに「それが存在していたある特定の時間」をも描き込んでしまう西欧画。

うん、ホントそこは面白かったけど。

借りて読むぐらいで良かったなと思いました。2千円…。