引き続き橋本さんの本です。

この本が出たのは今年の7月。出たのは知ってたけど、プリマー新書だし『これで古典がよくわかる』を中学生向けにまとめたものかなぁ、もういいか、と思ってスルーしてました。

まぁそうは言っても『これで古典がよくわかる』がどんな内容だったのかさっぱり覚えてなかったりはするんですが(汗)。

覚えてないうえにblogにも記事を書いてない。なんということでしょう、思い出すよすがさえないじゃないですか。


2001年刊行ということはもう13年前か。まだblogのない時代ですねぇ。別サイトはもう立ち上がっていたけど、そっちにも書いてない。

まぁ、そんなことはどうでもいいんです。今日の本題は『古典を読んでみましょう』です。

「もういいや」と思っていたのに10月に大阪に行った際、本屋さんで見つけてしまったんですよ。しかも平積み。田舎に住んでると橋本さんの本を本屋さんで見かけることはめったにないので、「しまった、目が合った!」状態。

レジに持っていってしまいました。

うん、でも、買ってよかった。

すごく面白かったです。

『失われた近代を求めてⅢ』を読んだ後で手に取ったというタイミングもすごく良かったと思う。

最初に取り上げられるのが樋口一葉で、『たけくらべ』の冒頭の「廻れば大門の見かへり柳いと長けれど……」という文章は『失われた近代』の方でも紹介され、簡単な解説もされていたのです。

樋口一葉は明治の作家で、時代区分としては「近代の作家」になるのだろうけれど、彼女の文章は文語体なのですよね。一葉は漱石より5歳若くて、『坊っちゃん』より11年早いだけの作品なんだけど、『たけくらべ』は現代の私たちから見れば「古典」として「現代語訳」しなければ読めないような作品。

普通「古典」と言われるとすぐ『枕草子』だの『源氏物語』だのといった平安時代の文学を思い浮かべてしまうけれど、橋本さんは樋口一葉から入ることで「一口に“日本の古典文学”と言ったって色々あるんだよ」ということを教えてくれます。

「いとやんごとなききはにはあらねど」といった「いかにも学校で勉強した古典」(プリマー新書のメインターゲットである中高生にとってはまさに現在進行形で「勉強している古典」でしょう)よりは言葉がわかりやすいようでいて、でもいざちゃんと読もうとするとめちゃくちゃ読みにくいうえに何を言っているのかわからない。

正直「いとやんごとなききはにはあらねど」の方がわかる、と言うぐらい意味が取りにくい。でも、それでいいんです。

まず「めんどくさくてしんどい」と言って下さい。しかし、「なんだか分からないからめんどくさい。めんどくさくてよく分かんないから、知らないことにしておこう」と思ってそっぽを向いてしまうと、それだけです。 (P25)

わからなくて当たり前。でも、「わからないから」とそのまま放り出すのではなく、「なんでわからないんだ?何がめんどくさいんだ?」と考えてみることが大事だと。

一葉の文章(というか文語体の文章)がわかりにくいのは、一つには「切れ目なくだらだら続く」からです。

源氏物語のような「ド古典」は本来句読点なしでだらだら文字が続きますし、一葉の文章には句読点が使われているものの、恐ろしく一文が長くてなかなか「。」が現れません。「、」の位置も、今の私たちの使い方とは異なっています。

「句読」という言葉は、漢文を読むその読み方――どこでどう区切って読むかということなのです。「日本語なら日本人には分かるから、日本語の文章に句読点はいらない。でも、日本語じゃない文章の漢文は日本人に分からないから、句読点はいる」なのです。 (P57)

なるほどというかなんというか、「日本語なら分かるから区切りはいらない」って!

「、」の位置で意味が変わってくる場合もあるじゃないですかー、と反論したくなりますよね。国語のテストや作文であんまり「、」を多用したらきっと点数低いでしょうし、かと言って全然「、」使わなかったからやっぱり減点されるでしょう。

でも。

昔の文章で大事なのは「ブレスの息づかい」であって、「意味」じゃなかったんですね。一葉の文章の「、」も、「意味の切れ目」というより「息づかい」のために打たれています。

樋口一葉の文章も似ていますが、昔はこれでいいのです。昔の文章は「論理を語る」や「論理的に語る」がすべてではないのです。 (P67)

今の時代に文章を書く原則が「短く簡潔に、分かりやすく」になってしまったのは、それ以前の文語体の日本語がそういうものではなかったからです。「それじゃいけない」という方向がやたらと強くなった結果、現代の日本語はただ「意味を説明する文章」で「言いたいことを言うだけの文章」になってしまったのです。 (P68)

常々「“わかりやすい”だけではつまらない」と思っている私ですが、しかしこういうふうにズバッと言われてしまうと「でもー、でもー」とまたもや反論したくなる。「でもー、誤解されると炎上しちゃったりするしー、自己満足で終わらずにちゃんと相手にわかるように言わないとー」(笑)

このblogを書くのだって、「意味はちゃんと通ってるかな。わかりやすいかな。伝わるかな」と
何度も書いては消し書いては消し、バカみたいに時間使って書いてるのに、「そんなのは“ただ意味を説明する文章”だ」と言われてしまったら。

うう。

一葉の次に出てくるのが和歌。かの有名な小野小町の「花の色はうつりにけりななんとやら」のあれです。

百人一首にも入っていて超有名だし、学校の「古典」でも「よにふる」が「経る」「降る」の掛詞、「ながめ」は「眺め」と「長雨」の掛詞、とよく引き合いに出されると思います。

なのでこの有名な一首、だいたいの意味を知っている方も多いでしょう。美貌の小野小町が自分の容色がいつの間にか衰えていたことを嘆いている――というかふと気づいて溜息ついてる、みたいなイメージだと。

でも橋本さんは、「小野小町はなにかを言ってはいるが、なにを言っているのかはよくわからない」とおっしゃいます。

ええっ、そうなの?

和歌というものは、そもそも「論理的になにかを説明するもの」ではないのです。 (P80)

掛け詞という表現テクニックは、「論理的なつながりなんか問題にしない」という恐ろしい表現方法なのです。 (P81)

うわぁ(爆)。

そんな目茶苦茶なものを覚えさせられ、テストに出されて点数つけられてたのかよぉぉぉぉぉ。

日本語というか日本人パネぇ!という気がいたしますねぇ。「あいまいな日本語」とはよく言われますけど、筋金入りです。

「和歌こそが日本語の本流で、和歌というのは理屈ではなくて歌うものだから、日本語が論理的にあやふやになってしまうのも仕方がない」という考え方も出来ます。 (P178)

でもそれじゃあ色々と困るでしょ?相手に話が通じないでしょ???と思うのですが大丈夫だったというのは、日本では論理が必要な時は「漢文」を使っていたからです。公式文書は全部漢文。

「説明や論理が必要な正式な文章は漢文に任せておける」からこその、和歌や和文の好き勝手、ということはあったのでしょう。

おかげで現代の中高生は「だらだら何言ってるのかわからない」和文と「漢字ばっかりでやっぱり何言ってるのかわからない」漢文の両方を勉強しなくちゃいけない。ホントいい迷惑ではあるのですが、だからこその「日本語の豊穣」というものがあったとも言えるわけです。

お堅い「公式」の書き方だけでなく、「何をどう書いてもいい」というカジュアルな書き方があったから、千年も前に長大な物語が書かれ、エッセイが書かれ、庶民による壁の落書きや日記というものが書かれたわけで。

うん、ありがたいんですけどね。でも古文と漢文の授業は……いや、それを言えば現代文の授業はさらに……。

授業と言えば、『枕草子』とともに必ずと言っていいほど取り上げられる『徒然草』。文章が比較的わかりやすい、と思われていますが(そしてそれが教科書に長く採用されている理由なのでしょうが)、橋本さんによると。

「文章がわかりやすいからといって“書かれている内容”がわかりやすいとは限らない」

『徒然草』はエッセイだけど、その辺の庶民ではなく学のあるお坊さんが書いたもので、書かれているのは「無常観」。言わば「哲学」。

めんどくさい古典の文章を読むためにはまず「馴れ」が必要で、「馴れる」ためにはもっと内容のわかりやすい、「何が書いてあるかわかる文章を読んだ方がいい」ということで。

橋本さん、『浦島太郎』を紹介してくださいます。

『御伽草紙』にまとめられたバージョンの『浦島太郎』ではなんと、太郎はお爺さんにはならないのですよ! 竜宮城も海の中ではなく普通の地上のお城で、乙姫様はいなくて、ヒロインの美女は太郎が助けた亀なのです。

えええええ。

『御伽草紙』は室町時代のものらしく、それよりもっと古い『風土記』等のバージョンでは太郎はちゃんと爺さんになるそうですが、それでも「助けた亀が太郎に惚れて美女に化けて…」というくだりは同じらしい。

江戸時代の途中で今のような、「竜宮城でチャラチャラ遊んでると何もしないうちに爺さんになっちまうんだ→真面目に働け」的な教訓話になったらしいですが、もともとの浦島太郎は太郎がどうこうというよりむしろ、「太郎に惚れた亀の話」だったと。

『風土記』の太郎は「美麗なイケメン」らしいです。

授業で「実は室町時代の浦島太郎は……」ってやったらすごくウケるだろうし、お話が微妙に違うとはいえ大筋は一緒で意味も取りやすいから、ほんと良い古典入門になるのにねぇ。

同じ日本の「同じ話」にも時代によって違いがあって、そこには今とはまるで違う考え方・価値観があったりする。「どうして古典を読むのか?」の答えの一つは「それ」だと、橋本さん。

今の考え方とは違う考え方に触れること。

これ、「古典」以外の本にも言えることですよねぇ。どうしても「自分の考え方・好みに合う本」ばかり読んでしまうけど、それでは世界が広がらないわけで。

本というのは、「そこになにが書いてあるのか分かってから読む」というものではありません。 (P216)

だからこそ怖くて、「難しげな本」「値段の高い本」「よく知らない人が書いた本」などは手に取りにくい。「本を買う」って、考えたら博打ですよね(笑)。中身がどんなものかわからないのにお金払うんだから。

「未知だからこそのドキドキ」よりも「読んでみて面白くなかったら損」って考えが強くなった結果、本が売れなくなってるってこともあるのかもしれませんね。

日本の古典は時代によって違っていろいろな種類があります。(中略)日本人がどれだけ多くの表現スタイルを持っていたかということの証拠でもあります。(中略)ただ「分かりやすい文章を書く」ということだけを考えて、既にある日本語の多様な表現を忘れてしまうのは、損です。 (P237)

そうは言ってもなかなか自分で古典を読むのは――原文で読むのは大変なわけで。学校で強制的に触れさせてもらって良かったんだな、と思ったり。


新書ですが非常に中身の濃い一冊でした。買って良かった♪