ストレートというか挑発的なタイトルですね(^^;) 常日頃「もっと自分の頭で考えろ」とおっしゃっている橋本さんですが、いよいよ日本人の「考えなさ」が頭にきたのかという感じ。

「民主主義の成果」という言葉を皮肉にしない方法は、一つしかない。国民の頭がもう少しよくなることだ。 (P156)

という一節を始め、数カ所で「もっと賢くならないと」とおっしゃっています。

この本は橋本さんが2011年から2014年にかけて書かれたコラムやエッセイをまとめたもので、話を補足するための追加の書き下ろしも入っています。必ずしも時系列にまとまっているわけではなく、震災直後の2011年に書かれたものと、現在の文章が混在しているのですが、橋本さんがちゃんと考えて原稿を並べてくださっているので、単純に時系列に並んでいるよりも論旨がわかりやすくなっていると思います。

Webで読める「週プレNews 橋本治の相変わらず役に立たない話」からの原稿も多く、最初にこの本の出版を聞いた時には「あの連載がまとまっているだけなら買わなくてもいいかな?」などと考えてしまったのですが、浅はかでした。

あとがきには

そういう原稿を寄せ集めて本を作るとなると、「本としての構成」を考えて、書かれてはいない「書かれてしかるべきこと」を書き足さねばなりません。(中略)「本を作る」とか「本にする」という作業は、面倒な作業なのです。 (P235)

と書かれています。

「一冊の本」というのはやはり「違う代物」なのですよね。うん、買ってよかった。読んでて「やっぱり橋本治さんいいなぁ。好きだなぁ」としみじみ思いました。

2011年からの話ですから、もちろん東日本大震災や原発のことが取り上げられていて、「くやしさ」の話では鼻の奥がツンとなってしまいました。

風化させてならないのは、その「くやしさ」だろう。悲しい前にくやしい。なぜくやしいのかと言えば、それが「どうにもならなかったこと」だから。そのどうにもならない状況を、日本人は「無常」という言葉で処理して来た。 (P51)

でもその「くやしさを共有すること」「くやしさから脱しつつもくやしさを忘れない」というあり方が、なくなってきているのではないか。

橋本さんはそうおっしゃっています。

なぜそういうことができにくくなってきたのか、日本人の変質の理由については書いてありませんけど。

かつて本当にそうだったのかどうかも、私にはよくわかりません。「共有」できないのは、何か色々な「断絶」が――地方と都会の断絶とか、一億総中流と言われていた中流がどんどん薄くなって、上流と貧困層との断絶が激しくなったとか、「そのくやしさはあんただけじゃない。みんなおなじだ」と言いにくくなったせいかもしれません。

でも、戦後の焼け跡から復興した時、「みんなが貧乏だったから気にならなかった」みたいな話も、どの程度「本当」だったのでしょう。

わかりません。

「焦土からの復興というのは“都市”に関するものだった」とこの本の中に出て来ます。地方はなんとなく「大丈夫」だと思われて、放っておかれて、たぶん、その時からもう衰退し始めていた。

2014年になっていきなり「地方の再生を!」なんて言ったって手遅れすぎる。日本の経済は「東北の復興なんて無駄!」という本音を持つ官僚によって仕切られている。経済産業省が関心を持つのは、「都市」や「都市に貢献する可能性を持つところ」だけで、「地方」というところはその関心外にある。 (P37)

そこに人が住んでいるということは、「国土を荒廃から守る」ということでもあって、「地方を切り捨てない」ということは、本来的な意味での「国土防衛」なのだ。 (P41)

いや、もう、のっけから刺さる文章ばかりです。


タイトルで、「日本人はバカになったのか」と言われて、でも、「じゃあかつてはバカではなかったのか?」もよくわからないのですが、日本の「議論の仕方」がなんだかおかしくて、そのおかしさがどんどん加速しているのは感じます。

そもそも、日本では「議論」自体がたぶんない。何もかも「初めに結論ありき」で、色々な意見が出たとしても、「まぁそれはそれとして」で最初に設定された「結論」が通ってしまう。

なにしろ「初めに結論ありき」なのだから、揺らがない。揺らぐと、「俺たちの今迄はなんだったんだ?」で、関係者一同が自己崩壊を起こしてしまうらしく、その防御作用はとても固い。 (P81-P82)

どんな反対意見があったとしても、多数派というか政府(与党?)というか「上の方」の結論がそれで覆ることはない。

それは何も今になって始まったことではなくて、昔から「議論」は国会ではなく自民党の中だけで行われていたような気もします。自民党の中で「各方面の利害調整」が行われて、そこで出された「結論」が「国としての結論」として通っていたと思うのだけど、小泉さんが自民党をぶっ壊した結果、「右から左まで色々いる」自民党ではなくなってしまって、安倍さんが「こう」と言えば全部「そう」みたいになって、「各方面の利害調整」などないまま「安倍さんの結論」だけが通ってしまっているように見える。

派閥とか「密室での根回し」とか、悪いものだと思われていたけど、オープンな議論のやり方を知らないままそれらをなくしてしまうと、「意見のすりあわせ」や「調整」ということがろくにできなくなってしまったという……。

野党が何を言っても自民党は聞く耳持たなくて、「議論」があるのならそれは「自民党の中でだけある」っていうのは、橋本さんが挙げている「小泉元首相という“身内”が言ったのなら大騒ぎになる」という例でも思います。

反対勢力がなにを言っても聞く耳を持たなくていい――これが日本の政治の根本にある考え方だから、野党がなにを言っても撥ねつけられるし、デモ隊は「うるさいテロ」と一蹴される。発言を通すために必要なのは、まず「身内」になることらしい。「身内」の人物が「首相に物申す」をすると、激震が走る。そのまま水戸黄門だ。 (P210)

いやはやほんまにな……。

日本で一番厄介な問題は、戦後社会の日本人のあり方にふさわしい政党が今になってもまだ存在しないということだろう。 (P130)

という話もあるんですが、そもそも日本の一般庶民って私自身も含め、「まつりごとは“お上”のすること」と思ってるんじゃないでしょうか。「政治」を行うのはどこか“上”の、自分達とは別の階層にいる人々で、自分達はそれにあれこれ文句を言って、時々話を聞いてもらうだけで、「自分達も政治に参加するんだ。自分達こそが国家の主役なんだ」という意識は希薄なような。

橋本さん絡みの記事でこれまでも何度か書いてますが、江戸にフランス革命は起こらなくて、明治維新はあくまでも「武士」という「政治にコミットできる特権階級の中での反乱」でした。識字率も高く、高い文化を享受していた町民(その中には武士以上に経済力のある商人もいた)は「社会を変えよう。自分達で国を動かしていくようにしよう」とは思わなかった。

まぁ、思った人もちょっとはいたのかもしれないけど。

江戸幕府を倒したのは薩長の“武士”ですものね。

第二次世界大戦で負けて、日本は民主主義の国になって、それまでの天皇主権から国民主権に変わったけれど、これも別に日本の庶民が「そうしようと血の滲むような努力と戦いの末に勝ち取った」というものではなく。

自民党はそれ以前の「お上」意識を引き継いだ政党で、日本にはいまだ「市民のための政党」というものがない。戦後民主主義のもとで高度成長を謳歌した日本人は「市民」にはならずにただ「消費者」になって、「お上」に向かって「景気を良くしろ!」ばかり言ってる。

「憲法改正の必要」を訴えようと訴えまいと、国民の関心は「景気回復の実現性」だけにあって、それを「着々と実行している」とする安倍政権に批判の矢は向かわない。 (P199)

ですよねぇ。


他にも引用したい箇所だらけで困ってしまうのですが、例えばなし崩しの原発再稼働。個別の「○○原発」が安全かどうかという議論をすることで、「原発そのものの是非」を問わなくてもいいような論理構造になっていると橋本さんはおっしゃいます。

でも「○○原発は安全なのか?」という議論は違います。こちらは「事故が起こったらどうなるか?」ということを考えません。こちらでの「安全」は、「事故が起こるのか起こらないのか」のジャッジだけです。(中略)「津波に襲われた福島の原発とは違って、この原発は、事故を起こさないように、カクカクシカジカと考えて造られています」と示すだけで、その「安全」が保障されてしまうからです。 (P91)

確かにそういう仕組みですよねぇ。議論はズレていて、初めから「再稼働」という結論は決まっていて。

集団的自衛権についても、

これまでの歴代内閣が「集団的自衛権は行使出来ない」と憲法を解釈していたのである以上、「時の内閣が憲法の条文を解釈する」ということ自体は、理論上なんの問題もないことになります。(P218)

という恐ろしい論理構造がある。

これまでも「解釈」してきたんだから、今回だって「内閣の解釈だけ」、閣議決定だけでいい。野党や国民がどんな意見を持っていようと関係ない。議論をする必要がない。

「日本がよその国と一緒に軍事行動をする」というのが、集団的自衛権です。「集団的自衛権を行使するとよその国が日本を守ってくれる」ではありません。それなのにどうして「これで日本は安全です」になるのか、わけがわかりません。 (P221-222)

これホントそう思うんですけど。集団的自衛権行使を容認しておかないと何かあった時アメリカさんが守ってくれない、というふうに解釈してる人が多かったように感じますが、日本に何かあった時にアメリカさんが集団的自衛権を行使してくれるかどうかはまったく別の問題ですよねぇ。

あと、最後の「あとがき」の部分にあった「イスラム国」に関する部分。

「イスラム国」の問題は「キリスト教対イスラムの宗教戦争」ではないと思います。あれは、「もう宗教をそんなに必要としない程度に豊かになった国のある種の人々」と、「国境を越えて存在する宗教に拠らなければならないあまり豊かではない人々」の対立によるものだと私は思います。 (P237)

宗教を必要としない「グローバルな近代人」と、そうではない人々。宗教を必要としなくなるのはたぶん進歩なんだろうけど、でも「進歩だから正しい」というわけでも、それで必ずしもすべての人々が幸せになるわけでもない。

日本人は議論の仕方がわからないけど、世界はどうなんだろう。宗教を必要としない人々と必要とする人々との間で、「落としどころ」は見つけられるんだろうか。「こっちが正しい」「こっちに合わせろ」と言うだけでなく――。