2015年2月9日月曜日

劇場版『蒼き鋼のアルペジオ』観てきました



アルペジオのキャラクター、ヒュウガさんをTwitterアイコンにしている以上、観ないわけにはまいりません(笑)。

『PSYCHO-PASS』に引き続き、わざわざ京都の映画館まで足を運んで観させていただきました。

今回の劇場版1作目はTVシリーズの再編集+新作部分ということで、うーん、新作部分は全体の4分の1くらい???

最後にちょろっと、という感じ。全体で1時間50分くらいの上映時間、新作部分は30分もなかったのでは。ということは4分の1もないか。

でも楽しかった。TVのダイジェスト部分、懐かしかった。特に熊になる前のキリシマが(笑)。

キリシマの人間態ビジュアル、もうすっかり忘れてました。あんな高飛車なキャラクターだったのねぇ。もうすっかり熊のぬいぐるみヨタロウとしてしか認識してなくて。

ハルナとキリシマが薪絵と出会い、そして薪絵を守ろうとするエピソードの部分、イオナのナレーションと音楽だけでまとめられてるの、いい感じでした。セリフがなくても、なんか絵だけで3人の触れあい、「薪絵を守りたい!」という想いがひしひしと伝わってくる。

まぁ、もちろんTVシリーズを見て「知ってる」せいもあるけど、「このエピソードやっぱり好きだなぁ」と。またTVシリーズを見返したくなりました。

ダイジェストでは物足りな~い!という気分に(笑)。


人と接触することで「自分の意志」を持つようになるメンタルモデル達。すごく考えさせられますよねぇ。むしろ、「人間って何か」ということを。

「何かをしたいと思ったとしても、それも“そう思うようにプログラムされてるだけなのかもしれない”」とイオナが思うシーンがあるんだけど、人間だって、たいして変わらない。

脳の神経を行き来する何らかの信号。一つ一つの信号はきっと、オンかオフか、0か1かといったような単純なもので、それが複雑に絡み合うことによって「意識」を――「心」を作り出している。

肉体が細胞の集まりにすぎず、その細胞がやりとりする「データ」によって「人格」が作り出されているなら、人間もメンタルモデルも、そんなに違うものじゃない。

兵器として作られ、アドミラリティ・コードに従うだけのメンタルモデル達。

だったら最初から「感情プログラム」とか入れとかなきゃいいのにね(笑)。

「霧」の目的は不明だし、総帥というか、彼女たちメンタルモデルや戦艦を造っているのがどういう存在なのかもわからない。地球上の文明をはるかに凌駕する技術力を持っているのだけは確かだけど、メンタルモデルをああいう風に造るということからしてどう考えても「霧」の黒幕は中二病……。

ただの戦闘プログラムでなく「感情」を付け加えることによって自律的な判断ができる、みたいなことはあるとは思うんだけど。

AとB、同じくらいの確率で勝てる戦略があるとして、どちらを選ぶか、そういう時に「好き嫌い」だったり「死にたくない」という感情だったりが、「計算」だけでは捉えきれない可能性を見つけるのかもしれない。

人間で言えば、「最後は勘」みたいなもの。

最初に群像と戦った時にタカオが「人間というパーツがあればあんな戦い方もできるのか」って言うけど、単に合理的な計算をしただけでは出てこない、「とっぴな計算結果」、普通に考えたら「間違っている計算結果」がブレイクスルーを生んだりするんだよね。

コードに従うだけでなく、自律的な判断をするためには一見非合理な「感情」要素が必要なのかも。

イオナに「変化を受け入れて」と言われたコンゴウは「それは変化ではない、故障と言うのだ!」と言い返す。

当初の目的・設計を逸脱する動きをすれば、「機械」としては確かに「故障」で「修理が必要になる」。

でもなんかこのセリフ、やっぱり「人間」にもあてはまるような気がして。特に、組織や周囲の思惑をはずれないように生きることが優先される日本では、「決められたこと」以外の動きをするのは歓迎されなくて。「自分の意志」で動くことは、あまり求められていない気がする。

群像と接触したことで「壊れていく」イオナ達に反感を抱くコンゴウ。でも彼らに必要以上に敵意を燃やすコンゴウもまた、「コードを逸脱している」。

面白いよねぇ。

てかホントになんで霧はわざわざメンタルモデルに「性格」だの「感情」だのを付け加えたの……何がしたいの……。大いなる実験???

私たちは何のために造られたのか、どこから来てどこへ行くのか。イオナの問いは、そのまま人間にもあてはまる。

人間だって、そんなのわかってるわけじゃないんだよ、イオナ。


海底で絶体絶命の窮地に陥っている群像とイオナを救うタカオの献身的な行動、そしてコンゴウとイオナの壮絶な戦い。

ほぉ、と感動していたら新作部分ではいきなり生徒会が。

劇場入り口に「霧の風紀は地球の風紀」という劇場版2作目のポスターが飾ってあって、「なんじゃこりゃ?パロディポスター?」と思っていたらそのまんま生徒会キャラのメンタルモデル達が登場してきて。

……やっぱり「霧」を造ってる存在って頭おかしい……。

アドミラリティ・コードに従わない=校則に従わない=風紀を乱すもの、そしてそれを取り締まるのは生徒会という連想ゲームはまぁわかるけど。

わかるけど。

キリシマがクマになる以上のギャグ展開やん……。



まぁ、最後の最後で群像の父親千早翔像が「霧」の一員として姿を現して、2作目では「霧の謎」が少しは解明されていくのかな、という期待もあるけれど。

確か超戦艦ムサシのメンタルモデルに「お父様」って呼ばれてたよね、千早翔像。

イオナが群像の名を知っていたこと、「群像に会え」という命令を組み込まれていたことからして行方不明の翔像が何らかの関与をしていることは想像していたけど。

でもだからって翔像が「霧」の創設者ってわけでもないんだろうし。

もしそうだったらお父さん頭おかしいよ……女の子好きすぎだよ……。

創設者じゃないけどメンタルモデルを提案したのは翔像、ってことは大いにあり得るのか。「人間と戦うには人間の思考=感情を取り込まねば」とか言ってメンタルモデルを造らせて、本当の目的は「それによって霧の戦艦を人間の側に取り込む」だったりとか……???

2作目は10月公開ということで、半年以上先。

果たしてどんな展開が待ち受けているのか、楽しみです。


あ、あと。

新作パートでタカオがまた体を作ってもらっていて。

「あー、体があるっていいわねぇ」と硫黄島(?)のビーチを堪能しているのですが。

「ただのプログラム」が意識とか心とかを持つためには「肉体」が重要なのではないかな、と思いました。ナノマテリアルの体を「肉体」と言えるかどうかわからないけど、人間を模した手足のある「体」。それぞれの個性を持った「顔」や「スタイル」。

人間も、「心」だけだとやっぱり「人間」じゃない気がするんですよねぇ。「体」という容れ物、外界と「自己」とを分ける物理的な境界あってこその、「わたし」という気が。


(ヒュウガさん狙いだったけどヨタロウが出たストラップ。可愛いけどデカいw)

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