ハヤカワ文庫補完計画によってめでたく復刊されたウィリアム・ギブスンの短編集『クローム襲撃』。しかしなぜかAmazonさんでは未だ新カバーによる復刊版は注文できず(画像は新カバーになってるけど)、旧版の中古本しか買えないようです。

なんでなん。

どーゆーことなん。

e-honでのお取り寄せ注文も「お取り寄せできませんでした」メールが返ってきたし(この辺りの顛末は『1万円もらえます、本買いに行きましょう その3』をご参照ください)。

ちなみに2015年5月19日現在、e-honも「現在ご注文できません」状態です。

あの本屋になかったら京都か大阪まで遠征しないとGetできなかったかも。ホント、ハヤカワ文庫の入手しにくさと来たら……。

で。

『クローム襲撃』です。いわゆる「スプロール三部作」――『ニューロマンサー』『カウント・ゼロ』『モナリザ・オーヴァドライブ』を読んだ時にこれも読みたかったんですが絶版、図書館にもなく。

やっと読めました。

ちなみに1987年刊行、今回の復刊が第13刷。1977年の処女作『ホログラム薔薇のかけら』から1985年に書かれた『冬のマーケット』まで10篇の短編が収められています。(うち3篇は他の作家との共作)

『ニューロマンサー』を読んだ時も思いましたが、ギブスンさんの文章は用語含め決して読みやすいものではなく、慣れるまでにちょっと時間がかかります。時系列が前後することもしばしばなので、読んでる最中は「ん~~~?」という感じで、最後のオチが来て「あーーー」と理解のとば口が訪れ、もう一度最初から読み返して「なるほど」とやっと全体が見える……ということも。

うん、それで後から「じわじわ来る」っていう。

そういう意味では共作の3篇は読みやすかった(笑)。特にジョン・シャーリイとの共作『ふさわしい連中』が面白かったです。初出はホラー・アンソロジーらしく、最後のオチで「うわぁ、そういうことか!」ってなる。

短編はネタが命なので詳しく書けませんが、「ふさわしい連中」というタイトルもいいのですよねぇ。原題は「Belonging Kind」なので、直訳すると「属している種族」かな??? 行く先々の店の雰囲気に合わせて、もっとも「ふさわしい」外見をまとう連中。たまたま彼らに注目した主人公が後をつけ、彼らを何日も何週間も観察するんですが、実は……。

『赤い星、冬の軌道』はこの短編集の序文も書いているブルース・スターリングとの共作。スターリングとは長編『ディファレンス・エンジン』でも共作していますね(正直この作品は何をどう面白がればいいのかよくわからなかった)。

1983年の作品なので、まだソ連健在。軍事施設や衛星発射台を備えたソ連のスペースコロニー「コスモグラード」がリストラされる話です。

もう50年から「コロニー暮らし」をしているコロリョフ大佐を中心に、「ここを閉鎖だって!?」「俺たちは高度な訓練を積んだ技術エリートなのに」「地上に降りたら査問委員会が待ってるのか?」という動揺が起こり、KGBの将校を相手にストを決行したりします。

「驚異的なソ連の貿易赤字……宇宙開発にたいする民衆の不満……」(P165)とか世知辛いし、なんかこう、ノスタルジーを感じますねぇ。

ソ連がまだ存在している時代なのにこんなこと書いちゃっていいのか、と思ったりもしますが、むしろこれは「ソ連のコロニー」を描きながら「アメリカの宇宙開発」について書いているのかもしれない。もう1983年当時の米ソの事情とか思い出せませんけども。

スペースシャトル・チャレンジャーが爆発したのが1986年の1月。

あの事故が起きるずっと前から、「宇宙開発の夢」には翳りが出て来ていたのかな。スペースシャトルは当初の計画よりものすごく高くついたとかなんとかありましたよね、そういえば。2015年現在、国際宇宙ステーションに行くにはロシアのソユーズに頼るしかない状況ですが、アメリカさんは今後の宇宙開発についてどう考えているんでしたっけ……。

それはそうと、最後にコロリョフ大佐を襲う「オチ」には驚きました。物悲しく終わるのかと思いきや……。でもこれこそが悲劇なのかしら。

『ニューロマンサー』のヒロイン・モリィが登場する『記憶屋ジョニィ』。一番最初に置かれているせいで文体に馴染む間がなく、「んんん?」と思ってる間に終わってしまう(笑)。「記憶屋」というアイディアはすごいけどモリィは思ったほど活躍してませんでした。

映画『マトリックス』や『攻殻機動隊』といった「電脳」モノに多大な影響を与えたギブスンの初期の作品群、でもむしろ、そこに登場する人間達は「チンピラ」で、描かれているのは一攫千金のチャンスを掴み損なって薄暗い都市の隅っこで朽ちていく小悪党の――つまりは普通の人間の――悲哀のような。

最先端の電脳技術を使ってやることはハッキングによる預金の詐取だったり、企業のヘッドハンティングの「裏側からの支援」だったり。

光瀬作品を立て続けに読んだ後ということもあり、「一口にSFと言ってもまるっきり手触りが違うなぁ」となんだか感心してしまいます。だからこそ、これらの作品が発表された当時の衝撃はすごかったのでしょう。宇宙でもロボットでもない、現在と地続きの近未来。

技術が進歩してネットやバーチャルリアリティが「当たり前」になっても、人間のやることは変わらないというか。

長編のスプロール三部作では「AIの自我」みたいな話にもなっていくけど、短編ではそこまで行かなくて、一人称で語られる主人公の、「チンピラ小説」みたいな。……うーん、適当な言葉が思いつかないな。「犯罪小説」「クライムノベル」というような大袈裟な感じじゃないのよね。

特に気に入ったのは『ニューローズホテル』なんだけど、組織に追われる主人公がつぶやく最後の一行、この物悲しい感じがなんとも良い。

生命工学企業「マース」はスプロール三部作にも登場してたし、「日本びいき」のギブスンらしく舞台は「成田国際空港の外」だったりもする。

しかもWikipediaによるとこの『ニューローズホテル』は映画化されていて、天野喜孝さんや坂本龍一さんが出ていらっしゃるらしい。なんじゃそりゃ!

表題作の『クローム襲撃』は解説で「未来の古典の地位を約束されていると言われる傑作」と紹介されていて、なぜそう言われるかは理解できるんですが、最後に主人公達がひどい目に遭わないところがちょっと不満(笑)。

ヒロインが去ってしまって、語り手であるジャックは「物悲しく」はあるんだけど……。

この「ヒロインが去る」っていうのも、共通項ですね。少なくとも、ここに収められている短編の多くの。そして「ヒロイン」と言っても必ずしも「主人公(語り手)のものになっていない」というところも。最初から「一時的な関係」というのはわかっているんだけど、わかっているからこその、彼女がいなくなった後の何とも言えない「物悲しさ」というのかな。

『ニューローズホテル』の中でヒロインが「新世紀の記号論的幽霊」と表現されているのを、解説者さんが「ギブスンの短編でのヒロインの役割のパターンを考えると興味深い」と書いてらっしゃるの、よくわかります。

最初から捕まえられない。その手に触れることはあっても、決して掴めないままこぼれ落ちていく“何か”。ヒロインはその象徴のようにも思える。手からすり抜けていく彼女は、単に恋人とか“愛”とかいうものだけじゃなくて、もっと大きな……“人生”そのもののような。

この短編集が編まれた時には最新だった『冬のマーケット』のヒロイン・リッキーは、最後「電脳」としての存在になってしまいます。不自由な肉体を捨てて、「電脳不死性」を手に入れた彼女。でも……。

人間の動機には、完全に純粋なものなんかない。あのリーゼにさえ、スターダムと電脳不死性への狂おしい野心を持ったリーゼにさえ、弱点はあった。 (P261)

「生きた肉体を持った」リーゼを最後に見かけた時のことを思い出す主人公の述懐は、やっぱりどこか物悲しい。

「もし彼女が電話をかけてきたら、それは本当に彼女なのか?」
「それだけのテクノロジーはそこにある。だから、だれに、正直な話、だれになにがいえる」
 (P263)

1985年(ちょうど30年前!)にこれを書いていたギブスンさん、すごいなぁ。