2015年6月21日日曜日

『ソラリス』(新訳版)/スタニスワフ・レム



これまで『ソラリスの陽のもとに』という邦題で有名だったスタニスワフ・レムの代表作『ソラリス』のポーランド語原著からの完訳版です。

2004年に国書刊行会から出たものが、「ハヤカワ文庫補完計画」として文庫になりました。

例によって例のごとく、「名前は知ってるけどちゃんと読んだことがない」名作だったので、この機会に購入。いずれ図書館で国書刊行会版のを借りようと思っていたんですけどね。

ゼリー状の不可思議な「海」に表面を覆われた惑星ソラリス。そこに設けられたステーションに主人公ケルヴィンがやってくるところから物語は始まります。

ステーションにはギバリャン、スナウト、サルトリウスという3人の研究者がいたのですが、ケルヴィンが降り立った時、ギバリャンはすでに死んでいました。自殺したらしいのですが、スナウトはケルヴィンに詳しいことを教えてくれません。

「もしも誰かを見かけても何もするな」という奇妙な警告を発するスナウト。さっぱりわけがわからないケルヴィンと一緒に、読者も「一体何なんだ?何が起こるっていうんだ?」と期待と怖れの入り交じった気持ちでページをめくらされます。

うん、この、「何かが起こるはず」「でも教えてもらえない」という導入部、すごくわくわくします。あらすじを聞いたことがあるので、おおよそ何が起こるかは知ってるんですが、「“それ”はいつ起こるんだ?」「まだか!?」とどんどん引き込まれていきます。

そしてついに“それ”が起こる。

ケルヴィンのもとに、“お客さん”がやってくるのです。10年前に死んだ彼の恋人(というか妻?)ハリーが、目の前に現れる。

と、その前に。

すでにギバリャンの“お客さん”らしい謎の人物を見かけていたケルヴィン。思わせぶりなスナウトの言葉や部屋から出ようとしないサルトリウスの奇妙な態度に、「これは全部夢じゃないか、自分は気が狂ってしまったんじゃないか」という疑惑に囚われます。

結局のところ、自分の脳と違ったふうに考えることは不可能なわけだし、自分自身の外側に出て、体の中で生起しているプロセスが正常であるかどうか検証するなどというのもできない相談だ。 (P91-P92)

よく、「つねってみたら痛いから夢じゃない」という表現がありますが、夢の中でも別に痛みを感じることはありますよね。夢から醒めたと思ったらやっぱりまだどこかおかしい……とか。この間読んだ『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』でもどこからが幻覚でどこからが現実なのか、目覚めたつもりがやっぱり幻覚、っていう描写がとてもスリリングでした。

ケルヴィンは「これは夢じゃない」と証明する実に研究者らしいアイディアを思いつき、「ステーションで起こっている不可解なこと」はすべて現実なのだ、と納得します。その直後にいっそう不可解な、「死んだ彼女」が現れるんですね。この展開もうまいし、夢じゃないと証明するためのあのアイディアを思いつけるレムさん、すごい。

ソラリスの「海」の描写がまた素晴らしいんだもの。

「ソラリス学」として、その謎の「海」に関する人類の研究史がかなりのページを割いて書かれていて、本当に「学問」として読み応えがあるのです。レムさんホントすごい。

どれだけ観察し記録しても、ソラリスの「海」が何なのか、人類には理解することができない。それは確かに一種の「生命体」なのだろうけれど、人類の知っている生命とはあまりに違っていて、意思の疎通もできなければ、そもそも「海」に「意思」があるのかすら掴めない。

そして「海」は、ステーションの研究者たちの脳から、彼らがもっとも強烈に記憶に留めている人物の像を取り出し、その人間を血肉を備えた実体として彼らのもとへ送り込む。

ケルヴィンの前に現れたハリーは、採血することも可能な、ちゃんとした「人間」なんですよね。顕微鏡で血液を見ると、最後の最後には「あれ?」ってことになるんだけど、99.9%ぐらいしっかり「人体」で、ハリーとしての記憶や自我もあって、最終的にはケルヴィンのためを思って身を引いてしまうぐらい「人間」。

人体組成に関してはこれまでに「海」が呑み込んできた人間達のデータもあるし、現在ステーションで生活している「生きた標本」があるわけだから、完璧に模倣できてもおかしくないけど、誰かの記憶の中にしか存在しない生き物を、その性格やクセまで完璧に再現して、「私はハリーであり、この男は私の恋人」という認識まで与えるっていうのは。

どうやったらそんなことできるの。

ケルヴィンの記憶から作られたハリーは、現実のハリーではなく「ケルヴィンがハリーだと考えているハリー」だっただろうけど、その都度何かに指示を与えられるのでなく、まったく「自律的に」ハリーとして振る舞えるっていうのが本当にとんでもない。生きた標本があっても、その脳細胞を模倣しただけでは「記憶の中のハリー」にならないし、「記憶の中のハリー」だけを模倣したのでは、「自分の意志で行動する一人の人間」なんかにはとてもなりそうにない。

「海」、すごいよなー。

そんな「海」を創造したレムさん、まさに“神”。

「記憶から生き物を再現する」なんて離れ業を実行しながら、「海」の真意はもちろんさっぱりわからない。単に「地球人類」という刺激に対する「反射」として返してきてるのかもしれないし、「海」にとっては一種の遊びなのかもしれない。でももしかしたら、「それを使って人類とコンタクトを取ろうとしている」のかも。

研究者たちはその、「ここには存在するはずのないもの」に翻弄されるだけで、「海」自体とは結局何のコンタクトも取れないのだけど。

そして研究者たち(特にサルトリウス)は自分たちにまとわりついて離れない「記憶から生み出された精妙なコピー」を何とかして消し去ろうとする。

「人間」そっくりの“お客さん”は、人間と違って“不死身”なんですね。重傷を負わせてもすぐに治癒して復活してしまう。ロケットに乗せて宇宙へ飛ばしても、またすぐに同じものが現れる。ただし“ロケットで飛ばされた”という記憶は持たない、最初に現れた時と同じ状態で(つまり同一個体ではないらしい)。

そして彼ら“お客さん”は眠らないし、どうも食事を摂る必要もないらしい。

と言ってもハリー以外の、スナウトやサルトリウスを訪れている“お客さん”についてはほのめかされるだけで詳しい描写がないのですが。

ここ、すごい気になったんですけどね。

人間の脳に深く刻まれた記憶というのは喜びよりもむしろ哀しみ、さらに言えば「罪」の記憶のようで、新しいハリーを愛するようになるケルヴィンと違って、スナウトもサルトリウスも、“お客さん”の存在にほとほと疲弊しているようなのです。

彼らを訪れている“お客さん”の正体が具体的に描写されず、読者に気を持たせたままなのも、うまいですねぇ。

ケルヴィンと「新しいハリー」の心の交流がこの作品を豊かにしているのはもちろんですが、主題は二人のロマンスではなく、やっぱり「異質なものとのコンタクト」の方だと思えます。

人の理解を超えたソラリスの「海」。人間はどうしても、自分達の基準で「海」を分析しようとしてしまう。ソラリスを地球上の事象に当てはめようとして四苦八苦する。

考えてもみろよ、人間は宇宙の星にも惑星にも、次から次へと名前をつけまくった。ひょっとしたらすでに自分の名前を持っているかもしれないのに。なんていう僭越さだろう。 (P347)

こういう「人間中心主義」「アントロポモルフィズム(人間形態主義)」を、レムさんはソラリスの「海」を通して批判しているように見えます。

どこどこの星には水の痕跡があるから生命が存在するかもしれない、みたいな話を聞きますが、この広い宇宙で「生命」というのは本当に私たちの考えるようなものだけなのでしょうか。地球上に存在するような元素だけがすべてであり、「生命」はその元素の組み合わせからしか生じないものなのか。

この広い宇宙に、「知的生命体」が地球人類だけであるとはとうてい思えない。けれども「知的」とはどういうことか、「生命体」であるという定義は何か。現実に“それ”に出逢った時、私たちは“それ”を「知的生命体」だと認識することができるのか……。

この作品が世に出たのは1961年。まだソ連がバリバリだった時代のポーランド。

レムはここで再三(中略)、ソラリスの海がまさに人間の理解を絶した他者なのかもしれない、と示唆し続けるからだ。これは理性による人類の進歩と宇宙進出の可能性を信ずる当時の社会主義圏のイデオロギーから見ると、かなり異端的なものだった。 (P398)

と、訳者である沼野さんが解説に書いておられます。

今この日本で読んでも「海」の描写はとてつもない。これからも読み継がれていく「古典」なのだろうなぁと納得します。

理解を超えた他者。その他者に翻弄され、愛しい者を再び失うことになったケルヴィン。それでも彼はソラリスを離れず、「何かを期待していた」。

この終わり方もいい。

人類の理性は決して宇宙で一番のものではないかもしれないけど、ソラリスの「海」を前に「まだ何かを期待する」ことができるなら――。

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