(前編はこちら

無事最後まで読み終わりました。

後半は「ラッセルの論理学」がどーのこーの、という話が中心になっていたのですが、そもそも「ラッセルの論理学」を知らないので、前半よりもよくわからない箇所が多かったのですが、それでもけっこう面白く読めました。

ポイントは、まだ証明が発見されていない信念と、証明されている命題「それは循環せねばならない」との関係は何か、ということである。 (第13講 P227)

これは、前半で出て来た「正七角形の作図」の話と共通する論点だろうと思います。正五角形は作図することができるが、正七角形は作図することができない。

でも、一般の人には「ジョンは正五角形を作図した」も「ジョンは正七角形を作図した」も同じ文章、同じ意味に感じられる。

もしもそれが、まだ「できないとは証明されていない」事柄なら、「おおーっ、ついにジョンが作図に成功したのか!」という文にもなるところ、すでに「できないと証明されている」と知っている人にとっては「嘘つけ」という話になってしまう。

「証明される」とはどういうことなのか?

それが真であることの規準は――もし証明ではないのなら――何なのだろうか。 (第14講 P243)

私は実際、数学において数えることと日常において数えることとの違いや、数学的命題と経験命題との違いを検討しようとしているだけなのである。 (第14講 P263)

要するに――と言ってしまうと哲学する意義がなくなってしまうのですが、やはりポイントは「正しさ」とはどういうことか?なのだと思います。とりわけ、「数学における“正しさ”」とは何によって担保されるのかということ。

そりゃあ「Q.E.D.証明終了!」ってなったらだろ?と思いますが、「それが真であることの規準は本当に“証明”なのか」ということです。

最後の第31講で、ウィトゲンシュタインはこう言います。

なぜ我々は、2つのステップを踏むやり方が3000のステップを踏むやり方と同じ結果に至るだろうということを、これほど確信できるのだろうか。なぜ我々は、それらが一致すると言うのだろうか。 (第31講 P550)

1+1=2、2+1=3、というような小さなステップをいくつも踏んで、たとえば100億+100億を証明するとしたら?

さらに一対一対応を行い、足し算の結果とは異なる結果を得たとしたら、我々は確実に、対応づけではなく足し算の方を信頼するだろう。線を引くときにどこかでミスがあったのでなければならないと我々は言うだろう。 (第30講 P546)

実際に100億と100億の線を引き、それを数えることで「100億+100億」の結果を得ようとしたら、私たちの多くは、そもそも「100億の線を引く」ところで数え間違えてしまうでしょう。

100+100ぐらいでも、数え間違えることは大いにありえます。

でも、その時に人は、数えた結果の「199」という数字よりも、「100+100なのだから200あるはずだ」というふうに考える。最初の100と100が「正しく数えられている」なら、それを合わせた結果は「200」であるはずだと。

もしも199や201になってしまうなら、それは数える時にミスをしたか、何かの拍子に1本なくなってしまったか、あるいは別の塊から枝(数えていたのが枝だとして)が飛んできたのか。いずれにせよ、「100+100=200」という計算の方が間違っているとは思わない。

我々はすでに計算体系を手にしており、何か他の方法でそれをチェックしたりなどしないのだ。反対に、もし何かがこの計算と一致しないとしたら、我々はその何かの方を拒絶するはずなのである。 (第30講 P546)

面白いですよねぇ。

たとえば秤で重さを量る時に、Aを量ったら10g、Bを量ったら50g。二ついっぺんに量ったら数学的には60gになる。でも実際には60gにならなかった時、私たちは秤が壊れていると思うか、あるいはAとBの材質に何か理由があると考えるか、はたまた埃がついてたとか、摩擦や重力うんぬんと考えるか……。

とりあえず「10+50=60」を正しいと考え、そこから「はずれた」のはなぜか、とその理由を考える。

我々の算術は重さについては何も語っていない。――それは標準なのである。それを基礎にして、我々は何が起こらねばならなかったのかを判断するのである。 (第31講 P551)

数学は、なぜそんなにも「正しい」のでしょう。

何が、数学の正しさを担保しているのか。

どこかに「完璧な数学の世界」というものがあって、私たちはその影をアプリオリに見ているのでしょうか。

我々が日常の世界において可能性と呼ぶものは、幾何学の世界においては実在である。ユークリッドの天界では、二つの点はすでに結ばれている。 (第15講 P268)

化学者が、H2O4は現実のものとはならないのだが、それが存在している世界が存在する、と考えることはありえないだろうか。ここには、諸君が実際に描いた影的な実在が存在していないだろうか。諸君の言語が影的な実在ではないのか。 (第15講 P271)

「純粋な赤」はイメージしやすいのに「純粋なクリーム色」と言われるとモヤっとする、みたいな話も面白かったし、「私はただ、ある種の探究を勧めているのである(第11講 P188)」というウィトゲンシュタインさんのお言葉通り、普段当たり前に使っている言葉や概念について「本当にそうか?」と考えてみるのはとても刺激的。

ウィトゲンシュタインさんの他の著作もちょっと読んでみたくなりました。たぶん全然わからないだろうけど(笑)。

これは「講義」なので、とっつきやすいんですよね(^^;)

日本語に訳してくださった大谷さん、古田さん、ありがとうございました。お二人とも私より10歳も若い方で……。こういう学術書の著者さんや訳者さんって「昔の人」っぽいイメージがあって。ええ、自分が年取っただけなんですけどね。

原書の読書会を行っていたお二人が「これは面白い!」と訳稿を作り、講談社学術局に持ち込まれたんだそう。お二人のそういう熱意と、出版を引き受けた講談社さんのおかげで読めたのですよねぇ。

ありがたや。

ちなみに講談社学術文庫からは同じケンブリッジでの講義の記録『ウィトゲンシュタインの講義 ケンブリッジ1932-1935年』という本が出ています。


ちくま学芸文庫の『青色本』も面白そう。


『青色本』の名は、訳者解説にも出てきます。この『数学の基礎』のもととなった学生のノートの一部は、1950年代初頭からオックスフォードで『青色本』や『茶色本』とセットになって回覧されていたと。


学生が取った講義録が貴重な資料として回覧されるなんて、すごいですよね。試験対策に先輩のノート借りるとかじゃなくて、よその大学の講義録。ウィトゲンシュタインさんのまとまった著作が少なかったこともあるでしょうけど、本当に頭のいい人達の世界は違うなぁという……。

あと、訳者あとがきに科研費の番号が書いてあるのが印象的でした。こういう「一般の人にもとっつきやすくする作業」って、専門家の重要な役割だと思うんですが、通常の大学の業務としてははずれた作業で、色々難しいところもあるんでしょうね。

読みやすい翻訳、本当にありがとうございました。