2015年9月20日日曜日

『「無限」に魅入られた天才数学者たち』/アミール・D・アクゼル



私が初めて「アレフ・ゼロ」という言葉を知ったのは高校の数学の授業でした。

教科書とは無関係に、雑談のような形で先生が教えてくださったのです。

「アレフ」というのはヘブライ語のアルファベットの最初の文字で、「ℵ」と書くのだけど、無限の大きさを表すのにその「アレフ」を使うのだと。

無限の大きさにもいくつか種類があって、そのうち自然数の集合の大きさを「アレフ・ゼロ」、それより大きい無限を「アレフ・1」「アレフ・2」などと書き表す……。

高校生の私は「無限の大きさに種類があるだと!?」「は!?」と驚愕しながらも、「アレフ・ゼロ」という言葉の響きに魅せられて、そーゆータイトルのSF小説を構想したぐらいでした(もちろん構想しただけで全然形になってないどころかどんなプロットだったのかすら覚えていない)。

その、「アレフ・ゼロ」とか「アレフ・1」とかいう呼び名を作り、無限についての本格的な考察を最初に始めた数学者、ゲオルク・カントールがこの本の主役。

タイトルは「天才数学者たち」と複数になっているけれども、カントール以外の数学者についてはさほどページが割かれていません。古代ギリシャからの人類の「無限」に対する考え方がおさらいされ、カントール以後の動向も紹介されるけれど、それらはあくまで「カントールの無限」を理解するための補助線のような感じ。

いきなり「連続体仮説」とか出されてもわからないもんねぇ。

うん、ゼノンのパラドックスから順に説き起こされてさえ、「わかった」とは言いがたい。

「アレフ数」について、Wikipediaさん

“数学の基礎である集合論において、アレフ数 (aleph number) は無限集合の濃度(あるいは大きさ)を表現するために使われる数の列である”

と説明しています。そして、

“概念は Georg Cantor までさかのぼる。彼は濃度の概念を定義し無限集合には異なる濃度があることに気付いた。”

とカントールさんに言及。

「無限の大きさ」と冒頭でテキトーな言い方をしたけれど、正しくは「無限集合の濃度」。数学は――というか計算は好きだったけれど、「集合」は苦手でなるべく避けて通っていたわたくし。

カントールは、すべての実数からなる集合(つまり数直線という連続体)が、すべての整数からなる集合のべき集合であることを知っていた。 (P200)

とか言われても全然わからない。べき集合? ある集合の部分集合を全部含んだなんとかかんとか???

「アレフ・ゼロ」は自然数の無限集合の濃度だけれども、整数の集合の濃度も、有理数の濃度も、同じ「アレフ・ゼロ」であるらしい。

つまり、すべての有理数を自然数を使って数えることができるのだ。 (P157)

これは驚くべき結果である。自然数や整数は互いに1だけ離れているのに対し、有理数はぎっしりと詰まっているのだから、自然数よりもはるかにたくさんありそうだ。(中略)つまり、整数の無限と有理数の無限とは、同じ階層に属しているということだ。 (P157)

有理数を数えるカントールの「対角線論法」について、ちゃんと図解で説明してくれているんだけど……やっぱりわからない……。

その論法はわからないけど、整数の「大きさ」と有理数の「大きさ」が「同じ」というのはなんとなくわかる気はする。

直感的には整数よりも有理数の方が多そうに思える。でもどちらも「無限に続く」んだから、その「大きさ」というか「数」は比較できない→おんなじだ、というのもそれほど直感に反してはいない。

一方、無理数の方は整数に対応させることができない。

無理数というのは整数の比で表すことができない数で、小数点以下が延々と無限に続く。有理数(整数比で表せる数)も、たとえば「1/3」は「0.333333333333……」と小数点以下がずーーっと続くのだけども、有理数の場合はたとえずっと続くとしても、「同じパターンをどこまでも繰り返す」。

翻って円周率πのような無理数は、小数点以下の数字にパターンがなく、「でたらめに」続いていく。

πのような無理数を表現しようとすれば、無限を避けて通るわけにはいかない。なぜなら、無理数を完全に定義するためには、どこまでも無限に続く数字をひとつひとつ指定しなければならないからだ。 (P34)

「同じパターンを繰り返す」っていうのも不思議と言えば不思議だけど、「円」という「閉じたもの」を構成する数値πが小数点以下に延々でたらめな数字を続けるっていうのがまた。

謎だよねぇ。

小数点以下がどこまでも「無限に」続く。つまり「これ」と指定できない。円はちゃんと閉じていて、「有限」に見えるのに。

でも両端が閉じていない「直線」――「数直線」も、実は「これ」と指定できない。

数直線は、「無限」の「点」の集まりなわけです。1と2の間には、1.5があり、1と1.5の間には1.25があり……。何しろ小数点以下は「無限」に続けられるので、いくらでも「間の数」が作れる。

いや、「作れる」と言うと語弊があるけど、「無理数」という存在を認める以上、理論的には1と1.25の間には「無限」に数がある。

だから、数には「順序」があるけれども、「隣の数」というものはない。

ううううむ。言ってることはわかる。わかるけど。

直感に反するよ~~~~~。

1と1.25の間にも無限の数があるし、1と5の間にも無限の数がある。だからつまり。

数直線上の区間が他の任意の大きさの区間と同じだけの数をもつことはボルツァーノによって示されていた。 (P172)

どんな区間を区切っても、そこには同じだけの数がある……っていうか無限。

うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。

そしてそこへカントールさんがさらに追い打ちをかけてくる。

平面上の点はどれもみな、線分上の点に対応させられるということだ。こうしてカントールは、平面上には直線上と同じだけの点があるという結論を導き出した。 (P173)

無限に関する限り、次元というものには意味がないというのだから。連続空間なら何であれ――直線でも、平面でも、n次元空間でも――連続体と同じだけの点をもつ。 (P174)


……まぁね、無限だからね。だって無限なんだもんね……。

で、今出て来た「連続体」という言葉。簡単に言うと「数直線」のことのようなんだけど、カントールさんは「連続体仮説」というものに取り組みました。

“連続体仮説(れんぞくたいかせつ、Continuum Hypothesis, CH)とは、可算濃度と連続体濃度の間には他の濃度が存在しないとする仮説。” (Wikipediaさんより)

えーっと、素人にもわかるように言ってもらえませんか。

“自然数より真に大きく、実数より真に小さいサイズの集合がない、ということを連続体仮説は述べている。” (同じくWikipediaさんより)

無限集合の大きさ(濃度)には階層(違い)があるけれども、自然数の集合の濃度「アレフ・ゼロ」と、実数全体の集合の濃度との間に、別の「濃度」はない。つまり実数全体の集合の濃度が「アレフ・1」なのかどうかという……。

合ってる?

自然数と実数の「大きさ」が違うというのはまぁわかるとして、それ以外の種類の「無限」ってもう全然なんだかわからないよね。

「2のアレフ・ゼロ乗」とか「足しても変わらないが指数計算をすると云々」とか読んでてもさっぱりわからないんだけど、わかろうと努力したカントールさん、「連続体仮説」の証明に取り組むうちに心を病んでしまったそうな。

さもありなん。

カントールさんが「無限」の扉を開けた頃はまだ、

「神は整数を作られた。それ以外の一切は人間が作ったものである」

と言って無理数の存在を断固として認めない数学者(名をレオポルト・クロネッカー)もいて、カントールさんの論文が掲載されるのを妨害したりしていたそうな。

無理数を拒否しても数学者でいられる時代があったんだなぁ、その頃の子どもは無理数を習わなくて良かったのかな、とか思っちゃいますが。(しかしπはどーするんだ)

カントールの死後「連続体仮説」に取り組んだクルト・ゲーデルさんも精神に失調をきたしてしまったそうで、「無限」というのは何かしら人知を超えたもの、人が深入りしてはいけないものなのでしょうか……。

カントールさんが「証明できた!」「いや、間違ってた」「やっぱり証明できた!」「あれ……」と苦しみ続けた「連続体仮説」。

今日では、連続体仮説はわれわれの数学体系の内部では証明できないことが知られている。 (P208)

やはりある意味人知を超えたものなのか、無限。でも直線も円も物理世界に存在するわけで、何かまったく違う数学体系を編み出せればπもすぱっとした数字で表現できたりとか……しないのかなぁ。

現実には「真円」は存在しないような気もするし。あくまでイデアの話で、現実世界に存在するのは近似に過ぎないような。

というわけで、著者のアクゼルさんは最後に「数は実在するのか?」という問題を出してきます。クロネッカーさんの言う通り、「整数以外は全部人間の作ったものにすぎない」のか? いや、整数でさえも「数える知能を持ったもの」がいない世界では無意味なのでは。

数というものは、物理量を勘定したり比較したりするのに便利なように、人間が作り出した抽象概念のようにも思える。(中略)しかしもしそうなら、数を作り出したわれわれは、数のすべてを知っているはずだ。 (P293)

数は実在する。そしてその実在性は、人間とは関係がないと私は考える。 (P293)

人間とは関係がないとしても、知的生命体と無関係に「数」は存在しうるのでしょうか……。

訳者あとがきの中で青木薫さんは

もしも現代物理学が「時間と空間さえも離散的である」ことを首尾良く証明したとすれば、数学はいわば梯子をはずされてしまうわけである。連続体は、物理的世界に基礎をもたない虚構だということになってしまうのだ。 (P327)

この意味における数学の「虚構性」が誰の目にも明らかになったとき、「物理的世界において、数学はなぜこれほどまでに有効なのか?」というユージン・ウィグナーの問いかけは、ますます深い謎となってわれわれを魅了することだろう。 (P328)

とおっしゃっています。もしも「数」が完全に物理的世界とは独立した代物なら、なぜ「数」はこれほどまでに物理世界をよく説明するのか。

「神は数学者なのか」?

……その謎が解けることなんて、あるのかな……。


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