『ヴァリス』『聖なる侵入』と続いた三部作の掉尾を飾る一作にしてディックの遺作だそうです。いつもは解説まで全部読んでから感想を書くんですけど、解説読んでよけいな知識を入れちゃうと今回はつまらないような気がするので、まだ読んでいません。なので成立の経緯とか、その時のディックの心境とか、「三部作」としての世の中的な評価などはわかりません。

そんなこととは関わりなく、単純に、私は「これ好き」と思いました。なんて言うんだろう、とても美しい物語だなと。

『ヴァリス』と『聖なる侵入』との間に直接的なつながりがなかったように、この『ティモシー・アーチャーの転生』にも繋がりはありません。『聖なる侵入』には一応「ヴァリス」という言葉が出て来たけど、今回はまったく何の言及もない。

でも、話の雰囲気は『ヴァリス』の方に似てる。

エンジェル・アーチャーという女性の一人称で語られ、神学論争めいたものがやたらに出て来て、何より、主人公が「身近な者の死」に傷ついてる。

タイトルになっているティモシー・アーチャーというのは語り手エンジェルの夫ジェフの父。ジョン・レノンが亡くなった日に、エンジェルは亡くなったジェフ、ティモシー(作中ではティムと呼ばれることがほとんど)、そしてティムの愛人だったキルスティンとの日々を回想する。

ジェフとキルスティンは自殺、そしてカリフォルニアの主教だったティムは死海砂漠で崖から落ちて死亡。短い間に「家族」を3人も亡くしたエンジェルは、哀しみと罪の意識に苛まれてる。

夫のジェフが死んだのはキルスティンのせい。そしてキルスティンとティムを引き合わせ、二人が愛人関係になるきっかけを作って、その結果ジェフを死に至らしめたのは他でもないエンジェル自身。

ティムとキルスティンの二人もジェフの死に罪悪感を感じていて、二人は「ジェフの霊が帰ってきた」なんて言い出す。二人はわざわざ霊媒師を尋ねて、ジェフの霊から「キルスティンももうすぐ死ぬ、ティムも死ぬ」なんて預言をもらってしまう。

もともと病に冒されていたキルスティンは自死を選び、ティムは死海文書の謎を解きにイスラエルに飛んで、死海砂漠で死ぬ。

あらゆる悲しい死が積み重なって、無に帰す代わりに意義を持ち、どうにかして喜びに変換されるような計画が実現されるのかも。 (P13)

死がものすごく怖いのよ、と思った。死があたしを破壊した。万人の破壊者たるスリ・クリシュナじゃない。あたしの友人たちの破壊者たる死が。友人たちだけを標的にして、他のみんなはそのままにしておいた。死のクソッタレめが、と思った。 (P17-18)

傷心のエンジェルはエドガー・ベアフットという説教師(?)のセミナーに参加しながら、亡くなった者たちのことを考える。

ティムは主教だったから――主教だったけどキリスト教の教義に疑問を持っていて、エンジェルやキルスティンを相手にしばしば神学論争的な会話を始める。ダンテの『神曲』とか、ヴァレンシュタインがどうとかシラーの詩とか色々出て来て、「そーゆー話」が好きな私にはとても面白い。

エンジェル自身は「私はキリスト教徒じゃない」と言っていて、

あたしはキリスト教徒じゃないから――そして愛する人々が死んだ後では、今後も決してならない―― (P95)

と言ってる。

アメリカでキリスト教徒じゃないっていうのは(もちろんイスラム教徒や仏教徒でもないのだろう)どんな感じなのかな、と思うんだけど、「愛する人々が死んだ後では決してならない」っていうところがすごくいい。

彼らを救ってくれなかった神を、どうして信じられるの?

『ヴァリス』でも描かれていたこと。「どうして神様は俺の猫を助けてくれなかったんだ」という嘆き。

エンジェルとティムの間で交わされる「神はホンモノか」という議論も面白いし、

「神は本物だよ」
「本当に本物じゃないわ。神は信念の問題よ」
 (P125)

「でもきみには世界が見えるだろう」
「世界は見えるけど、神の徴なんか見えない」
 (P125)

「ジェフの霊が帰ってきた」というティムとキルスティンに対して、

目に見えない神様を信じてるのと、目に見えない死んだ息子を信じてるのと、どうちがうの? ある目に見えなさを別の目に見えなさとどう区別すればいい? (P174)

とエンジェルが思うのもとても好き。

日本だと、神様もご先祖様も死んだ息子の霊も全部同等で、片方の「目に見えないもの」を信じるならもう片方も当然信じるような気はする。死んだ人を祀って「神様にする」を当たり前に行うわけだし。

でも「死んだ息子の霊が帰ってきて家中の時計を全部息子が死んだ時刻に合わせている」とか、「死んだ息子の霊が帰ってきて私の爪の間に針を刺した」とか言い出したら、まぁ普通は「頭だいじょうぶ?」って思われるだろう。

ティムとキルスティンが主張したのはそういう「具体的な霊障」で、「息子はいつも私達を見守ってくれている」とか「彼はいつもそばにいる」といった「心の持ちよう」を言ってるんじゃないんだよね。

「神を信じることとどう違うの?」ってエンジェルは言う。少なくともエンジェルは「キリスト教の神」を信じていなくて、目に見えない死んだ息子を信じるのと同じようなものだと思ってる。「神は信念の問題よ」。

息子の蘇りを信じる主教が一方で、「なぜヴァレンシュタインほどの人物が占星術のお告げなど信じたのか」といぶかっていたりする。それをいぶかりながら、なぜ自分は息子の霊などを信じているのか。キリスト教の神を信じることと占星術のお告げを信じること――あるいは未開の民族が奇妙な呪術を信じていることとの違いは本当に、一体何なのか? そこに違いなんてあるのか。

キルスティンが死んで、「次は自分の番かもしれない」と思ったティムは「ジェフが蘇ったなんて間違いだった」というふうに認めるし、それについて書いた著書も「いまさら出版を差し止められないけど、あれは間違いだったと訂正する本をまた書かなくては」と言う。

でも、それでも、原始キリスト教の謎を求めて、「アノキ」とやらの秘密を求めて、イスラエルに行っちゃう。そして死んじゃう。

息子の霊も霊媒師も「インチキ」だった。でも神は「インチキ」じゃない――。「ティムはキリスト教の教義を一つ残らず疑問視した」ってエンジェルは言ってるんだけど、よりよく信じたいからこそ疑っていただけで、神を――神の真実を求めることにとても貪欲だったように見える。

そして「ジェフの霊が帰ってきた」とティムが言った時、「そんなのナンセンスだ」と切って捨てた人物がもう一人いる。

キルスティンの息子、ビル。

彼は精神分裂病と診断されていて、病院を出たり入ったりしている。でも普段は――病院に入っていない時は――相手の気持ちをくみ取ることが苦手なだけの、いい青年に見える。ビルが猫を可愛がっているのを見てエンジェルが

連中はこの優しい親切なベイビーを傷つけて、ほとんど何も残らないまでにしちゃったんだ。治療するという名目でこの子の回路を焼き切った。 (P143)

と思うシーンは鼻の奥がツーンとなる。

ビルは車のことに詳しくて、そして「抽象化ができない」から、「ジェフの霊が帰ってきた」なんていう「抽象的」な話を一刀両断にする。ティムが彼に「神の存在」や「ジェフの霊の存在」を説明しようとして比喩を持ち出すと、ビルはいちいち「その車はどこに停まってるの?オートマチックなの?パワステなの?」と「その車の具体的ないちいち」を問いただす。

もちろんティムの話はただの「比喩」だから、「その車」がトヨタなのかVWなのか、排気量がどのくらいなのか、なんてことはまったく設定されていない。ティムにとって――多くのたとえ話にとってそういう「具体性」はどうでもよくて、そのたとえ話で言いたいことはそんな「具体的な車種」とは関係ないところにあるんだけど、ビルにとっては車種やオートマかどうかといった具体なしに「車を使ったたとえ話」をされてもまったく呑み込めない。

同じように、時計が止まっていたり爪の間に針が刺さっていたりしても、それが「ジェフの霊のしわざ」だなんていう具体的な証拠は何にもない、とビルははっきり言う。

ここの議論、どう考えてもビルに分がある。

なのにビルは「精神分裂病患者」で、ティムはカリフォルニアの主教だ。

見たことも聞いたこともないものを想像できる力、個々の具体的な事物から概念を取り出し抽象化する力っていうのは人間の知性の根幹なんだろうけど、ビルとティムのやりとりを見てると「抽象や想像に偏りすぎるのも問題じゃね?」って気になる。

もしかしたら正しいのは――まともなのはビルの方で、抽象化したり空気を読みすぎたりする私達の方が「狂ってる」んじゃないの?

たとえ話をビルに突っこまれまくったティムは、「ビルのあれは精神分裂症なんだろう?」って言う。エンジェルも「ビルが回復する見込みはない」って答えるけど、

「でもドラッグをやらないだけの知恵はあるわ」 (P205)

とも言う。

エンジェル自身は大麻をやってるし、ビルの母親でティムの秘書兼愛人のキルスティンもドラッグをやってる。息子の「病」と自分自身の「病」とに苦しめられているとはいえ、キルスティンは正直あまり「いい人」とは描かれていなくて、やっぱり「本当にまともなのはどっち?」って思っちゃう。

「ドラッグをやらないだけの知恵はある」というエンジェルの言葉に対してティムは「教育の恩恵は被ってない」と返し、エンジェルは

「教育がそれほど恩恵か、あたしは自信がないなぁ。このあたしだってレコード店で働くだけ。そしてそこで雇われたのも、カリフォルニア大の英文学科で教わったことのおかげじゃないし」 (P205)

と続ける。

エンジェルは、けっこうインテリなんだよね。英文学科卒だから文学的教養がすごくあって、頭も良くて、ティムの神学論争についていくだけでなく、自分でも色々文学作品を引用してティムの行動や「死」についてあれこれ考察する。

でもエンジェルは自分のそんな「教養」は役に立たないと思っていて、

あたしはメタファーのジャンキー、学がありすぎて頭がいい。考えすぎ、読みすぎ、愛する者たちのことを心配しすぎる。 (P302)

なんて自嘲している。

学があっても、メタファーを使いこなせても、誰一人救えなかった。みんな死んでしまった。そんな想いが、エンジェルの心にはある。

お話の最後に提示される「救い」のようなものも、「叡智ではなく共感」ということになっていて、「言葉」を紡いできた小説家ディックが最後の作品で「言葉では人は救えない」みたいな書き方をしているのが面白い。

タイトルになっている「転生」。死海砂漠で死んでしまったティムは後日、「帰ってくる」。ジェフの霊が帰ってきたように、ティムの霊も帰ってくる。「転生」という日本語だと赤ん坊として生まれ変わってくるみたいだけど、そうではなくて、ティムの意識と人格がある人物に宿ってしまうんだ。

そう、他でもない、「そんなのはナンセンスだ」と言っていたビルのもとに。

これねぇ、すごく巧いと思う。だってビルは「精神分裂病」なんだもん。実際「ティムが帰ってきた」と主張するビルは「そんな馬鹿げたことを言った」せいでまた精神病院に入れられちゃう。単なる病気の症状だと一般的には受け止められる。

それが「本当」なのか「嘘」なのか、結局のところ誰にもわからない。ビルが知るはずのないラテン語やギリシャ語を突然話し始めたとしても、ティムでなければ知り得ないようなことを知っていたとしても、だからと言ってビルの中に「ティムが転生した」という証拠にはならない。

家中の時計を止めたのはジェフの霊だ、と証明できないように。

たぶん、それが本当かどうかということはたいして重要じゃないんだろう。それを信じるかどうか、そんなことを言い出したビルに対してどう向き合うか。

身近な者の立て続けの死と、自分も彼らの死に少なからず責任があるという自責の念。そこから、人はどんなふうに立ち直っていけるのか。どんなふうに、その「理不尽」を受け止め、押し潰されずに生きていくことができるのか。

説教師ベアフットはティムの人格を宿したビルのことを「菩薩」と呼ぶ。

「菩薩とは、涅槃に達する機会を断って、戻ってきて他の者たちを助ける存在だよ。菩薩にとって、共感は叡智と同じくらい重要な目標なんだ。それが菩薩の本質的な認識なんだよ」とベアフット。 (P340)

「菩薩」ってそーゆー存在だったのか!とびっくりしたんですが、Wikipediaでは「仏教において一般的に成仏を求める(如来に成ろうとする)修行者のことを指す」「後に菩薩は、修行中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くということで、庶民の信仰の対象ともなっていった」と説明されています。

ベアフットが(というか作者ディックが)注目したのは「人々と共に歩み」という部分でしょうか。

キリスト教の主教だったティムが「菩薩」として蘇るというこの展開、アメリカではどんなふうに受け止められてるんでしょう。私はつい、「ああ、もうキリスト教の神は諦めたのか」とか思っちゃったんですが。

『ヴァリス』『聖なる侵入』と読んできて、「どうして神様は俺の猫を助けてくれなかったのか」という疑念に苛まれてきたディックが最後に到達したのは、「神様なんてどうでもいいじゃないか」だったのかな、と。

必要なのは「神の叡智」ではなく「共感」で、つまりは人と人との関わり合いだっていう。

まぁ、ディックさんの真意はわからないんだけど、私にはそう思えました。

最後にベアフットとエンジェルが聞いてるレコードが衛藤公雄の琴のレコードで、

ワールド・パシフィックがプレスした、衛藤公雄の珍しい盤。五〇年代末のレコードで、コレクターの間ではかなりの高値だ。ベアフットは「みどりの朝」をかけた。衛藤自身の作曲。とても美しいけれど、ちっとも日本風じゃない。 (P384)

というふうに描写されてます。衛藤さんのことを知らなかった私はディックの創作?と思ってしまったのですが、国際尺八協会というサイトに衛藤さんのディスコグラフィがあり、エンジェル達が聞いていたのは「Koto Music(箏の調べ)」というレコードのようです。

エンジェル同様ディック本人もレコード店で働いていたそうで、ディック作品には音楽が重要な要素になっているものが多いようですが、「菩薩」と「箏曲」。延々と「キリストの真実」を追ってきたティムが最後に「菩薩」と称され、背後には琴の曲が流れているという……。



ディック作品ということで「ハヤカワ文庫SF」に入ってるけど、全然SFじゃない、普通の小説です。

SFが苦手な人も、『ヴァリス』や『聖なる侵入』を読んでいなくても楽しめると思いますが……神様云々が苦手な人にはつらいのかな?

私はこれ、好きです。