『幻の女』(新訳版)を読んでもうちょっとウイリアム・アイリッシュを読みたいな、と思い、早速近所の図書館に行って借りてきました。残念ながら彼の著作はほんの数冊しか蔵書がない上に、全部書庫に入っていたりします。開架棚には限りがあるとはいえ、能動的に検索しないと出会えないというのは寂しい話です。

で。さて。

まずは早川書房の「世界ミステリ全集」の第4巻。「ウイリアム・アイリッシュ/コーネル・ウールリッチ」となっていますが、この二人は同一人物。コーネル・ウールリッチの方が本名で、ウールリッチ名義の作品の方が多いようです。

「全集」ですので複数の作品が収められていて、巻頭を飾るのはアイリッシュ名義の『死者との結婚』

のっけからやられました。

もう、冒頭のヒロインによる独白部分だけで「掴みはオッケー!」です。

幸せに暮らしているはずのヒロインとその夫。心地よい家、暖かい家庭、互いに愛し合う若い二人。

けれどもその生活には恐ろしい疑惑が潜んでいる。

半年ほど前に起きた殺人。

その犯人が、互いでしかありえないという疑惑。

ヒロインは、もちろん自分はやっていないということを知っている。そうして、自分以外に犯人の可能性があるのは最愛の夫しかいないのだ。けれども夫もまた、「自分は潔白であり、となると犯人は妻しかいない」と思っているらしい。

互いを心から愛する二人は、互いをなじったり、白黒つけようと喧嘩をしたりすることはない。忘れようと努め、終わったことだと思うよう努め、表面上は幸せな夫婦として過ごし……。

けれども。

けれども。

どんなゲームなのか、わたしは知らない。ただその名を知っているだけだ。世間の人は、このことを人生と呼んでいる。 (P13-14)

わたしたちは負けた。わたしにはそのことしかわからない。わたしたちは負けたのだ、負けたのだ。 (P14)

「負けたのだ」の後、「なぜそんなことになったのか」という顛末が語られるんですけど、正直「顛末」は要らないぐらい、この最初の独白だけで成立しちゃってる感があります。

表面上は幸せであり、また、殺人とはいえ怖れるべきは警察の手ではなく、ただ「互いへの疑惑」だけ。自分はやっていないのに、相手は本当は信じてくれていないのではないか? 私も、夫を愛し信じているのに、「私でないなら夫しかありえない」と思っているのだ……。夫はいつか出て行ってしまうかもしれない。でなければ私が……。

どちらかが逮捕され処罰される方がまだマシと思えるどっちつかずの疑惑。真綿で首を絞められるような恐怖。いずれ耐えられなくなって発狂するのではないかと思えるような。

この心理状態の描写だけでもう、この作品はオッケー。

しかも「顛末」の後、また最初に戻ってほぼ同じ描写が繰り返されるのです。

実は「顛末」部分をほとんど読まないうちに気になってぱらぱらっと最後を見ちゃったんですけど、そしたら「リフレイン」だったので「うぉーっ!」と思っちゃいました。ウールリッチ最高!と。

めっちゃ好みです。

もちろん「顛末」部分も良かったんですけどね。独白から一転、「あれ?この“若い女”は誰?同じ人?」と少し戸惑わされる導入部。しだいに明らかになっていく女の正体と、彼女を待つ運命への「暗い予感」。

そう、読者にある程度わかるのがまたドキドキするんですよねぇ。まぁ冒頭で「殺人が起きてどっちかが犯人」ってことは提示されてるんですから「ある程度」どころか結末はわかってるんだけど、その破滅がいつ来るのか?っていうのがもう、息詰まるわけです。

心理描写がとっても巧いですし。

最後、救いがあるかと見せかけてどーんと落とすところもねぇ。容赦がない。

名探偵が鮮やかに犯人を名指ししてくれるどころか、どっちが犯人かわからないまま終わる、「わからない」ところがキモなんですよねぇ。読者としては二人以外にも全然関係ない第三者が犯人の可能性あるんじゃないの?と思ったりするんですが、本人達が

そして、二人の眼が答えた。「きみだ、あなただ」 (P190)

と思わざるを得ないからこそのサスペンス。

原文は単に「It's you」なんでしょうね。It'sかどうかはともかく、「きみ」「あなた」を別に表現する必要はなくて。

ただ「You」。

見事ですわ♡

(全集収録と同じ中村能三さん訳の『死者との結婚』は文庫版もあります。紙は絶版だけどKindleで読めます)


続いて収められているのが『九一三号室の謎』。ウールリッチ名義、訳者は稲葉明雄さん。

聖アンセルム・ホテルの913号室で連続する自殺。「連続」と言ってもそれぞれの間には1年近い開きがあるのですが、いずれも自殺しそうには見えなかった人間が突然窓から飛び降り、後には署名のない短い遺書が残されている、という同じパターン。

刑事は「自殺だ」であっさり片付けてしまうのですが、ホテル付きの探偵ストライカーにはどうしてもそうは思えない。ホテルの支配人にクビにされても「殺人」の証拠を掴もうと奮闘するのですがさて真相は……。

お話は事件を提示する「自殺室」と、解決篇的な「殺人室」という二篇に分かれています。二篇合わせてもそれほど長くない、中編です。ウールリッチには珍しくきちんとした推理物になっていて、最後にはトリックの種明かしがされます。

ホントにそんなこと可能なの?と思わないこともない真相ですが、描写の妙とストライカーの頑張りで読ませます。

他殺説を唱えるストライカーに対し刑事は「まだ君は地球上にいたのかね?」とけんもほろろ、「あんたの許可でもいるんですか?」と言い返すストライカーはなかなか魅力的。 (P209)

フットボールよりSFの方が好き、というところも好感が持てる(笑)。

フットボール試合かなにかだな、と探偵は思った。彼個人にかんするかぎり、ふくらませた豚皮を奪いあう二十二人の無頼漢たちよりは、あの荒唐無稽な超科学小説のほうが、まだしも好ましく思えるのだった。 (P207)

集英社文庫の世界の名探偵コレクションシリーズに『ホテル探偵ストライカー』として入っていたりしますが


ストライカーが出て来る作品はこの『九一三号室の謎』しかないそう(^^;)

聖アンセルム・ホテルを舞台にした作品としてウールリッチは『聖アンセルム九二三号室』という作品も書いていますが、こちらはミステリではないとのこと。ミステリではないけど、巻末の座談会で訳者の稲葉明雄さんが「読んでほしい作品」として挙げていらっしゃいます。


絶版な上に中古もほとんど流通していないレアな作品。読みたくなるなぁ~(笑)。



そして、「夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」の名訳、稲葉明雄さん訳による『幻の女』。文が二つに分かれているということは、これは初訳ですね。新訳版の解説に、その後稲葉さんは「彼も若かったが、」と改訳されたという話が出ています。

その改訳版ハヤカワ文庫は現在も入手可能です。


新訳版で読んだばかりなので稲葉さん訳の『幻の女』はちゃんとは読みませんでしたが、やはり言葉が少し古いように感じますね。

たとえば「とっておきの一張羅にめかしこんで」とか。これ、新訳だと「特別の服を着こんで」なんですよ。「とっておきの一張羅」の方が気分が出ると思うのは私がきっとおばはんだからでしょう。今どきの若者に「一張羅」は通じないかもしれませんものね。

昭和生まれのおばさんで『世界少年少女文学全集』で育った私にはなんともない(どころか馴染み深い)翻訳が、今の人には「読みづらい」かもしれない、というのは寂しい話ですが、その辺の「翻訳」の難しさについて、巻末の座談会でも取り上げられています。

「ウイリアム・アイリッシュ/コーネル・ウールリッチについて」というタイトルで、稲葉明雄さん、石川喬司さん、小鷹信光さんが話し合うという非常に贅沢な座談会。全集ならではの楽しみですねぇ。

この中で小鷹さんが「“正訳”“完訳”ばかりが翻訳じゃない。」と言い、稲葉さんが「まあ、翻訳者はだれでも、翻訳は不可能ということを大前提にしているでしょう。」とおっしゃるんですね。

たとえば谷崎潤一郎の作品にとって関西の風土というのは非常に重要なファクターで、地名とか様々な固有名詞に含まれるその「イメージ」込みで作品が織り上げられている。それを外国語に訳す時に――というか、日本国内の読者でさえ、「夙川」と言われてピンと来る人と来ない人がいるわけで、英米の作品でも「ロンドン」や「マンハッタン」という地名に込められた「イメージ」がある。それはどんなに「訳注」をつけても、体感したことのない者にはわからないものだったりする。

「くわしい割注をつけたりしますね。啓蒙主義みたいな。ハマチに割注つけたって仕様がないものね。」と小鷹さんも何やら皮肉っぽく(笑)。

「注」がめんどくさいから翻訳物嫌いって人もいるかも。

私も「注」はあんまり読みません。特に注が巻末にあるものは本文と行ったり来たりすると物語の流れを切られてしまうので。

わからなくてもストーリーを追うのには支障がないことが多いですし、わからないことでかえって印象に残ったり、余韻をかもしたりすることもある。

小鷹さん、「訳す立場になると、翻訳というのは“世につれ”てやらなければならないのか、三十何年前に原作が書かれた時のムードにいちばんあった定訳があってもいいはずなんですが、日本語がだんだんかわるでしょう。」とも言っておられます。

この全集が刊行されたのは1973年なので当然この座談会もその当時の状況を踏まえてのお話なんでしょうが、新訳ばやりの今読むと、なんだか皮肉にも聞こえますね。「訳が古くなる」のではなく、「話されている言葉がどんどん変わっていく」なんですよねぇ。少し古めかしい言葉だからこそ「その作品が書かれた当時の雰囲気」「その作品が日本でよく読まれていた頃の雰囲気」がよくわかる気もするし、私は昔の訳も好きだけど、「こんなもの読めない」という人が多くてお蔵入りするのももったいない。

どっちにしても「原著」とは少し違うもの――「翻訳不可能なものを無理に日本語に置き換えたもの」なんでしょうけれど。

翻訳の話だけでなく、座談会ではもちろんウールリッチの魅力も語られています。

(稲葉)ことばを小説に従属させるのではなくて、ことばを生かして、一つの虚構世界をつくり上げようという意識ですね。そういう点では類をみない作家だと考えます。 (P552)

(稲葉)同義反復的な、一つのことを表現するのに、いろんな方向からつけたしていくような文体、あれがウールリッチ流のムードをかもすのに役立っているのですね。 (P554)

うんうん。同義反復的なとこ、すごく好きです。

(稲葉)これはこの作者のよくない特徴ですが、表現のためにプロットがやや犠牲にされる傾向がありますね。 (P553)

あはは。『幻の女』でもごまかしがありますよね、と語られています。私が『幻の女』で一番気になったのは「最初に誰が警察を呼んだのか?」です。スコットが帰ってくると家にはもう警官がいる。スコットの妻が殺されているわけだけど、真相で描かれたように殺されたのなら悲鳴を上げることもなく死んだんじゃないかと思える。彼女が死んだあと、誰か友人でも訪ねてきたのでしょうか? 一体死体の第一発見者は誰だったのか? 真犯人自らがスコットを陥れるために警察を呼んだのか? もしも匿名で電話か何かしたのなら、警察は「それが誰だったのか」はきちんと明らかにしておくべきですよね。第一発見者というのは怪しまれてしかるべきなんだから。

スコットが戻ってくると警察がいて、でもなかなか「何が起こったのか」がスコットに明らかにされない、それがゆえに追い詰められていくというプロットのために「通報者」は曖昧になっているという。

うん、でも、そういうとこも好きです、ウールリッチ(笑)。