2016年10月16日日曜日

ウールリッチがいとしくて~『今夜の私は危険よ』巻末小文から~



(『今夜の私は危険よ』所収本編の感想はこちら

このアンソロジー、ウールリッチの中短篇5篇に加えて、巻末にネヴィンズJr氏による評伝と、マルツバーグ氏の「ウールリッチについて」という小文が収められています。

ちなみにこのアンソロジーは日本独自のものではなく、「C・G・ウォー、M・H・グリーンバーグ編」となっていて、1980年にアメリカで編まれたもののようです。ネヴィンズJr氏とマルツバーグ氏の文章も最初からセット。

で、まずネヴィンズJr氏の『陰影の詩人、C・ウールリッチ』という文章。

ネヴィンズJr氏は『コーネル・ウールリッチの生涯』という詳しい評伝を書かれた方で、


ここでもウールリッチの生涯をその作品とともに駆け足で振り返ってくれます。生い立ち、ミステリ以前の小説、短い結婚生活とその後の母親との人生、他人の目から見れば「不幸」としか言いようのない晩年、その死……。

ラジオドラマの原作としてもてはやされたウールリッチの作品。

たとえば一九四三年にケーリー・グラント主演で放送された三十分シリーズ番組サスペンスのために脚色した「黒いカーテン」のような彼の仕事は、いまでももっとも感動的なラジオドラマの一つに数えられている。 (P315)

けれども、ウールリッチの死後十年余りが経った1980年、その著書はほとんどが絶版になっていたと、バリイ・N・マルツバーグ氏は書いています。

このマルツバーグ氏による『ウールリッチについて』という小文がすごくいい! 泣ける!

なんというか、ウールリッチへの愛に溢れていて、胸がつまります。引用されるウールリッチの言葉にうるうるしてしまう。

確か『傑作短編集』の解説に書いてあったと思うのですが、このバリイさん、ぼっち引きこもりのウールリッチと最後まで親交があり、葬儀に参列した5人のうちのお一人なのですよね。
(ちなみに当時編集者としてウールリッチと関わっていたらしいバリイさん、ウールリッチの亡くなった年に作家デビューされています。“当代一流のSF作家13人が作品を寄せた。「現代SFの終着点であり、同時に出発点でもある」と編者が自負する、決定版アンソロジー”と銘打たれた『究極のSF―13の解答』にも作品が収録されてるほどの作家さん。)

最後に引用されているウールリッチの言葉。

「人生は死だ。死は人生の中にある。心から愛する人を腕の中に抱きながら…(中略)…わたしにとっては耐えられないことだ。わたしをおいて行かないでくれ。
 バリー、まだわたしと別れないでくれ」
 (P335 『ウールリッチについて』)

うっ。読んでて喉がつまりました。ぐっとこみ上げてくるものが。

ウールリッチのこと、本当に他人とは思えません。ネヴィンズJr氏の文章の方で、ウールリッチが子どもの頃「蝶々夫人」を見て、その数年後に夜空の星を眺めながら「自分もいつかは蝶々夫人のように死ななければならないかもしれないと思った」というエピソードが紹介されていますが、これほんと、めちゃくちゃわかるもの。

「自分もいつかは死ぬんだ」と悟った時の衝撃。

その瞬間から彼は宿命という観念にとりつかれるようになった。」(P306)とネヴィンズJr氏は書いてるけど、それって単に「宿命」とか「運命」とか「諸行無常」みたいなことじゃなくて、何とも言えない「恐怖」なんですよ。

もちろん人は誰でも成長するにつれて周りの人間が「死ぬ」ことを知り、「自分も死ぬ」ということを頭では理解するようになるんだけれども、普段はそんなこと忘れているし、「自分もいつかは死ぬ」の「いつか」は「まだまだ先の話」で。

「次の瞬間にも死ぬかもしれない」と思っていたらとても正気ではいられませんもんね。それこそ『夜は千の目を持つ』で死期を予言された男のように時計とにらめっこしてしだいに狂って、結果自分の狂気で自分を殺すことになっちゃう。

「いつか自分はあとかたもなく消えてしまう。何も感じず考えることもできず、完全な無になってしまう」という恐怖を常に心の隅に抱えている人間。生きていることそのものの理不尽さ、むごさ、“存在”の不確かさに恐れおののき、書くことでそれを紛らわそうとする……。

「わたしは死をまぎらそうとしていたにすぎない。いつかはかならずわたしの上におおいかぶさってきて、わたしを抹消してしまう暗闇から、ほんのしばらくの間のがれようとしていたにすぎない。わたしが死んでからも、ほんのしばらくの間生きていようとしていたにすぎない」 (P326 『陰影の詩人、C・ウールリッチ』)

何かを残せたら。

結局はそれも、無に帰すのだけど。人類すら――地球すら、やがては消えるのだけど。それでも。

「わたしが死んでからも、ほんのしばらくの間生きていようと」あがいたウールリッチ。

1980年、もうウールリッチの作品はアメリカでほとんど絶版になってた。でもその同じ頃、私は日本で子ども向けミステリ全集に収められた『幻の女』や『黒衣の花嫁』を読んで楽しんでいた。

江戸川乱歩に激賞されたおかげで、その作品の多くが邦訳されたウールリッチ。今では日本でも絶版ばかりで、新刊書店で入手できるものは数少ない。……よく昔の編者は子ども向け全集にウールリッチを入れてくれたよなぁ。本当に、感謝しかない。

そうやって子どもの頃に出逢って、今またこうしてウールリッチを貪り読む。絶版とはいえ図書館を駆使すればほとんどの作品が日本語で読める幸せ。江戸川乱歩と訳者の皆さん、出版社の皆さん、ありがとう。

「わたしが恐れているのははてしない抹消――しだいに何もなくなってしまうことだ。あれほど懸命な努力を重ねたのに、ゼロで終ってしまうのは耐えられないことだ。わたしのいわんとしていることがわかるかい――わたしは書くことが大好きだったのだ」 (P330 『ウールリッチについて』)

消えてないよ。

まだ、あなたの作品は読まれているよ。

あなたの作品を読んで、「ああ、同じような恐怖を――さみしさを――感じていた人がいたんだ」と思って慰められている人間がここにいるよ。

神様よりも何よりも、それが救いになるから。
 

ハメットやチャンドラーは死について書いたのだが、ウールリッチの長篇小説や短篇小説は死そのものだった。繊細な感触、終局性とともにはかない美さえも伴った死だった。 (P333 『ウールリッチについて』)

まだもう少し、ウールリッチを読みます。(未読の作品が残り少なくなってきたの寂しい…)

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