e-honから橋本さんの6月発売の本の新刊案内が来て、Amazonさん見に行ったら5月にこれも出てました。

なぜe-honはこちらの「新刊案内」を送ってこなかったのか。来てたのに見逃したのかな。

ともあれ「読まねばならぬ」と早速図書館で借りてきました。原則橋本さんの著書は買って読むことにしてるんですが、冗談抜きで本の置き場所がヤバいので、タイトルからして「いつもの話かなぁ」と思って“こっち”は買わずにすませました(6月発売の方は買った)。

読んでみたらやっぱり面白くて、買えばよかったかな……と思ったけど(^^;)


この本の元となった『知性の顚覆』という評論は、『小説TRIPPER』誌に2015年の夏から2017年の春まで連載されたものです。

「ヤンキーに本読ませなきゃだめだよ」という橋本さんの言葉がきっかけで始まった連載だそうで、第一章のタイトルはずばり「ヤンキー的なもの」。「知性」の周辺を絡め手から攻めていっていたらEU離脱とトランプ大統領誕生で、「本当に顚覆しちゃいましたね」っていう。

いつも橋本さんの本は、読んでる時はすごくわかる気がしてどんどんページを繰れちゃうのに、後で何が書いてあったかまとめようとすると「あれ?」ってなっちゃうんですが、今回は特に難易度高いです。

橋本さんご自身が「あとがき」で
この本を改めて読み直して、「むずかしい本だな」と思いました。 (P226)
と書いてらっしゃるぐらい。

わかりにくいところ、「飛躍している」ところがあるけれど、
私がその「飛躍」を残したままにしているのは、そこを受け手の人にそれぞれ埋めてもらいたいからです。 (P228)
と。

何しろ、

この現代で「知性」というものは、様々に存在する複数の問題の整合性を考えるもので、一昔前のもっぱらに自分のあり方だけを考える「自己達成」というような文学的なものではないのだ。 (P204-205)

なのです。橋本さんのご本の「いつもの話」、つまり「わかりやすい正解はない」「面倒でも自分の頭でああかな?こうかな?と考えなければならない」、ということ。

って、これ最終章の「顚覆しちゃいましたね」に出てくるフレーズで、いきなり結論になっちゃってますけど。

そこへ至るまでに、「ヤンキーとは何か」、そもそも「知性」とは何か、そして昨今のトランプ現象に見られるような「反知性主義」はどうして生まれるのか、というお話があります。

キーワードは「不機嫌」

反知性主義の根本にあるのは、「ムカつくんだよ」という不機嫌な感情なのだと、私は思う。 (P207)

なぜムカつくか、っていうとその人があんまり幸せじゃないからで、単純に「不幸」「悲しい」じゃなく「ムカつく」になってしまうのは、「本当だったら自分はもうちょっといいところにいるはずなのに、その優越性が崩された」と感じるからだ、と橋本さんは解説してくれます。

「そうそう優越性が崩されはしない真のお金持ち層」や、最初から「優越」を感じられない貧困層ではなく、「それなりの安定した生活を送れている(送れていた)」中間層がもっとも「不機嫌」になりやすい。グローバルに進行する「中間層の崩壊」が「不機嫌な人達」をどんどん増やしてしまっている。

第一次世界大戦で王様はいなくなり、第二次世界大戦では「擬似王様」であるような独裁者のいる国が敗れて、世界は「中流である共和制の国」と「後進国」の二つに分かれた。 (P85)

世界は「ほぼみんな中流」になってしまって、その「中流」が資本主義経済の行き詰まりで「下流」に落ちつつあり、その不安感が「ムカつく」になって、「私の安定が脅かされているのはあいつらのせいだ」と移民だったり他宗教の信徒だったりを敵対視する方向へ行ってしまう。

現代の知性は人に、「複雑なことを考えろ」と言ってくる。簡単に解決策のないようなこと、自分だけじゃなく世界中の「みんな」が幸せになるにはどうしたらいいか、なんてことを。でも安定を崩されて不安に陥っている人には、もちろん「みんな」のことを考えるような余裕はない。

「みんなのことを考えろ」という声は、「均質なみんな」のことだけ考えて、その「均質」からはずれた「個人の不幸」を考えてくれない。考えようとしても、それが出来るだけの用意がないから、考えることが出来ない。その結果、「自分の固有な不幸」を抱えた人間は、「みんなのこと」を考えるだけの余裕を持った幸福な人間達の中で、孤立して不幸を募らせる。 (P219)

いわゆる「リベラル」が嫌悪の対象になってしまったのってたぶんこれで、不安で不幸な人は「この自分の不幸をなんとかしてくれ」と思っているのに、「全体」を考える「リベラル」は即効性のある薬を用意してくれない。

世界は色々と複雑だから、そうそう「すぐ効く薬」なんてないんだろうけど(あったとしても副作用がきつかったり)、「すぐ効かなくてもいい」と言える人は「今困ってない恵まれた人達」だけで、「リベラルな言論」だったり、「知性的な物言い」というものは今や「上から目線」と同義のようにもなってしまっている。

私にとって、「反知性主義」を生むものは、「均質で、そのことが他人を排除しているということにつながるのだという自覚がない、“幸福な知性”なんだろう」としか思えない。 (P219)

219ページのこの文章のあと、最後のまとめで「こうしていくしかないでしょ?」みたいな結語が書かれているんですけど、うーん、「不機嫌な土壌」を変えていくことってできるんでしょうか。この先再び世界経済が上向いて中間層が潤う、なんてことはあんまり期待できないだろうし……。

えーっとそれで、全然感想がうまくまとめられないわけですが、個人的に「第四章 知の中央集権」部分のお話がとても興味深かったです。

言文一致体以前の人間は、すべてなんらかの形で「生活属性」を背負っている。言文一致体でなにかを語る人間は、そういうものを捨て去らないと「俗な語り手」になって、人の世のあり方を語る「普遍的な(ユニヴァーサル)語り手」にはなれないのだ。 (P106)

とか、

「誰でもないことによって、すべてに共通しうる書き手になれる」というのが言文一致体の文章で、「それ以前の日本的属性から離脱することによって、形式上、優越的な日本人のポジションを確保出来る」というのが、言文一致体以後の、日本の標準語なのだ。(中略)「オシャレタウンになれる力」を生み出すのは、標準語を駆使することによって「誰でもない男性」になれる人達なのだ。 (P107)

というような話。なるほどなぁ、と思います。

近代教育が行き渡って、「お上だけが賢ければいい。お上だけが自我を持っていればいい」という状態から、「みんなが自我を持つ」=「みんなが自分の利益を前提とした意見を持つ」になって、その結果みんなの意見は集約しない。

第四章の結論は、

「知の顚覆」というのは、そのような「知の行き渡った結果」を言ってしかるべきなのだと、私は思う。 (P117)

で、でもだからって再び「上の方の人間だけが賢ければいい」世界を私たちは望むのか。「自我」とか「人権」というのが一部の人にしかない世界。「難しいことを考えなくていい」という意味ではそれは「楽」なのかもしれないけど……。


やっぱり全然まとまりません。
諦めて橋本さんの次の本読もう――。