(※単行本と文庫版、双方のリンクを貼りましたが私が読んだのは単行本。引用箇所のページ表記はすべて単行本のページです)

「ファウンデーション」シリーズの続きも気になりつつ、寄り道を続けています(^^;)

『レナードの朝』等でおなじみのオリヴァー・サックス氏が少年時代を回想したエッセイです。タイトルの「タングステンおじさん」というのは、著者のおじ・デイヴのこと。

おじのデイヴは、私に物心がつくころにはもうタングステンおじさんと呼ばれていた。 (P16)

それは彼がタングステンをフィラメントにした電球を作っていて、その経営する会社の名前もずばり「タングスタライト」、タングステンを「俺の金属」と呼んで、

「(タングステンは)金属のなかじゃ一番融点が高くて、鋼鉄より丈夫で、高温でも強さを失わない。理想的な金属なんだ!」  (P53)

と常々語っていたからなんですね。

オリヴァー・サックス氏は長じて脳神経科医として活躍されるわけですが、子どもの頃は「タングステンおじさん」や他のおじさんの手ほどきもあって、化学に夢中だったそう。

著者自身の「化学遍歴」と、「化学の発展の歴史」が実にうまく組み合わされて、単なる自伝的エッセイにとどまらず、「化学読み物」としても十二分に楽しめる内容になっています。

おおむね14歳までの「化学と過ごした少年時代」が描かれているんですが……なんか、すごいです。

ご両親ともに医者、というだけでなく、デイヴおじさん始め親戚一同みんな理数系で色々なことに詳しい。

私には、書庫や図書館の代わりになるおじやおばやいとこが大勢いた。しかも、問題に応じて違う相談相手がいた。 (P268)

たとえばお母様は、

ダイヤモンドで簡単にガラスに傷がつくことを示してから、唇に当ててごらんなさい、と言った。やってみると、不思議なことに、びっくりするほど冷たかった。 (P13)

と教えてくれたり、ダイヤモンドが石炭と同じ炭素でできているのだ、と教えてくれたりする。

まだ幼い著者にフィボナッチ数列を教えてくれるおばさんがいたり、とにかく環境がすごいです。すごすぎて、お母様、まだ14歳の著者に「そろそろ人体解剖を」と「同じ14歳の少女の解剖をさせたり」するんですけど……。ちょっと、想像がつかない家庭環境です。

フレーヴィア(『パイは小さな秘密を運ぶ』他の主人公)同様、自分の「実験室」を持っていて、そこで色々な実験をしたり、自分で写真の現像をしたりするのもすごい。

ヴィクトリア朝時代には、人々が化学に熱烈な興味を抱いた。多くの家庭には、シダやステレオスコープと同じように、自前の実験室もあった。グリフィンの『趣味の化学』は一八三〇年ごろに初版が刊行されたが、大変な人気を呼び、次々と改訂されて新しい版が出た。 (P92)

ということらしいんですけど……「多くの家庭に自前の実験室があった」って、「あなたの知らない世界」すぎる!

フレーヴィアは1950年に11歳。オリヴァー・サックス氏は1933年生まれで1950年には17歳。フレーヴィアの実験室も「おじさん」のものでしたし、その時代の裕福な家庭には「実験室」があったのか……。

で、その『趣味の化学』という本の中では猛毒物質の使用が平然と勧められていたそうで、著者も近所の薬局で普通に青酸カリを入手できたそうな。殺虫剤として使われていたそうで……うーん、毒殺し放題ではないか。

著者の場合、ご両親が医者なので医療で使われる薬剤は簡単に手に入ったのだろうし、タングステンおじさんの工場などからも鉱物や化合物を色々入手できたよう。

わずか二、三年のあいだに私が集めた種々の化学物質は、通り一帯を中毒させたり吹っ飛ばしたりできるぐらいあった。 (P106)

大きなナトリウムの塊を手に入れて、その反応を見るために池に放りこんで「辺り一面を黄色い炎の海にした」ってくだりには、唖然とするしか(^^;)

昔の子ども、すごすぎない!?

もちろん、いくら家に実験室があったとしたって、全員が全員それを有効に活用していたとは限らないけれども。

そんな、子どもでも薬局で簡単に青酸カリが買えたり、ナトリウムが手に入ったりしたらあかんやろ、危なすぎやろ、と思ってしまうけど、「注釈」で触れられているノーベル賞受賞者ライナス・ポーリングの自伝の一節、

さて現在ではどうだろう。化学に興味を持った少年少女は、化学実験セットを手に入れる。だが、そのセットにはシアン化カリウムがない。硫酸銅などの面白い物質までない。それらの面白い物質は、どれも危険物と見なされているからだ。それゆえ、こうした化学者の卵たちは、化学実験セットで何かに夢中になるような機会に恵まれていない。 (P113)

という文章には、ちょっと考えさせられてしまいます。

「安全」なものばかり、大人たちがあらかじめ危険なものをすべて排除してしまったのでは、子どもの好奇心はたいして刺激されないだろうなぁ、と。

子どもの頃大好きだった学研の「科学」と「学習」の付録が息子ちゃんの頃にはずいぶんつまらないものになっていたけど、あれも「○○は危険」みたいなことの積み重ねで「当たり障りのないもの」にならざるを得なかったからなのかも。

まぁ青酸カリがお手軽に買える時代にはもう戻らないだろうし、戻るべきでもないとは思うけど、著者が過ごした「実験三昧」の少年時代、なんとも羨ましいです。

息子ちゃんが小さい時にちょっと化学の講義をしたり、周期表ポスターを貼ったりしましたが(現在も貼ってある)、そんなのでは生ぬるかったのだ。

実験室を作ってやらないと!

いや、無理だよね。うん、無理だ。

そんなふうに、化学者の卵としての環境にめちゃくちゃ恵まれていた著者、でも実はその「化学への熱中」の背後には、つらい事情も隠されていました。

1933年生まれの著者は、戦争中、疎開先のブレイフィールドでとてもつらい目に遭います。学校の校長がやたらと子どもに鞭をふるうような人間だったようで、一緒に疎開していた5歳上の兄マイケルは、その後、心を病んでしまったほどなのです。

疎開先でも、その後に通ったカレッジでもひどいいじめにあったマイケル。15歳くらいで「発狂」し、

自分は「鞭打ちの大好きな神様のお気に入り」で、「サディスティックな神様」から特別に目をかけられていると言って、ことさらにそう信じだした。 (P224)

自分が痛めつけられるのは、長く待ち望まれたメシアだから(あるいはその可能性があるから)だろうと考えたのである。 (P224)

というふうになってしまったそう。

自分にも同じつらい記憶があり、自分も兄と同じように狂ってしまうのではないか?と怯えていたわずか10歳の著者。

科学に集中することで、混乱を目の前にして自分がめちゃめちゃになってしまわないようにしたのだ。 (P225)

……マイケルも著者も可哀想すぎて……。

戦争は、戦前の――5歳くらいまでの著者の身の回りにあったものを色々と破壊してしまいます。家にあった柵が、疎開から戻ってきた時にはなくなっていたり、近所の劇場や大時計が消えてしまっていたり。

著者は化学実験と同じように写真にものめり込みますが、それは写真が時間を切り取って、永遠にその瞬間をとどめておいてくれるからでした。

そんなふうに記録に残す欲求に駆られた一因は、戦争にあった。戦争が、それまで永久不変に見えたものを、片っ端から破壊したりなくしたりしてしまったからだ。 (P167)

なくなってしまった柵や劇場。もしかしてそんなものは最初からなかったのでは? 自分の記憶の方が間違っているのかも……。

なんか、わかります。

私も「記憶フェチ」なので。今目にしているものもいずれは消えていく。自分以外には誰も覚えていない、自分さえ忘れてしまうかもしれない。

確かに存在したはずなのに。

そんな疑念と恐怖が、自分で乳剤を作り自分で現像する方向へ向かう著者、すごいですが。私はただ、過去のがらくたを捨てられずに積み上げるだけだからなぁ……。


化学に夢中だったオリヴァー少年、でも医者であるご両親は当然著者も医者になるものと思っていて、著者が13歳ぐらいになるとあまり化学の話をしていると「やめなさい!」と怒られてしまったそう。14歳で人体解剖させられるぐらいだもんね。いくら「私たちの子どもは医者になるのが当然」と考えていたからって……。

産婦人科医のお母様はいわゆる奇形児の赤子を時折家に持ち帰って、著者に解剖して見せ、「自分でもやってみなさい」と言っていたそうな。その時著者11歳。

お母さん……。

私は、(中略)このような早すぎた体験のせいで医学が苦手になり、感情をもたない植物、いや、さらには鉱物・結晶・元素へと逃げたくなった。 (P291)

さもありなん。

でも結局著者はいつの間にか実験室に足を踏み入れなくなり、化学者ではなく医者になるのです。それは一つには量子力学のせいで。

私をとりこにした化学は、一九世紀の、具体的で、博物学的で、観察にもとづく記述的な化学であって、量子の時代の新しい化学ではなかった。 (P371)

少年時代の著者が化学の知識を増やしていくのに合わせ、周期表やレントゲンや放射性物質の発見といった「化学の発展の歴史」も合わせてうまく語っていくこの本。量子力学が登場したところで、著者の「化学と過ごした時代」も終わります。


化学なんて苦手、という人にも読みやすくておすすめです。