『ブレードランナー 2049』公開に合わせて(?)Amazonビデオで前作『ブレードランナー』がレンタル100円になっており、ちょうどビデオ用100円クーポンもあったのでせっかくだから見てみました。

あまりちゃんとした「感想」ではないですが、感じたことをちょこっとメモしておきます。



ファイナル・カットとディレクターズ・カット最終版、どっちが最終やねん?と悩みましたが、ググったところファイナル・カットが一番新しい版っぽかったのでそちらを視聴。

原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだのももう4年前で、大筋は覚えているものの、細かい記憶はさっぱり抜け落ち。

ちょうどいいぐらいの新鮮さで見られた気もします。少なくとも「原作はこうだったのにここが違う」みたいな見方にはならなかった。

PCの小さい画面で、洗濯畳んだりしながら見たせいもあって、特に前半(前半1時間と後半1時間とに分けて見た)はあまり物語に入り込めず(^^;)

後半、ハリソン・フォード演じるデッカードとルトガー・ハウアー演じるロイとの攻防シーンはじっくり見入っちゃったけど、画面が小さいせいか建物や空間と二人の位置関係がわかりにくくて、「ん?今どういう状況なの?」と思ったり。

ロイがタイレル博士と対峙して殺してしまうシーン、デッカードを追い詰めながらもそれは「常に死の恐怖にさらされている奴隷という存在」を彼に実感させるためで、最後は助けちゃう展開は良いなぁ、と思った。

「もっと長生きしたいんだ」と言うレプリカントのロイ。「人間には信じられないものをたくさん見てきた。でもその思い出も消える。涙のように、雨のように」(セリフ正確じゃないです、ご容赦)

四年という短い寿命しか与えられない彼ら。彼らが「もっと生かしてくれ」と願うのは当たり前のことだけれど、でも人間だってもっともっと健康のまま長生きできたらいいなぁと思ってるし、人が人生で経験したたくさんのことだって――人の思い出だって、その人が死ねば消えてしまう。

高性能な人型ロボットを描くことは常に「人間とは何か?」の裏返しになるけど、人間とロボットの関係は言ってみれば神様(創造主)と人間の関係で、人間だって神様に「もっと長生きしたいからなんとかしてくれ」って言いたいし、「結局死んで無になるのになんで人間なんか――それを自覚して悲しむだけの知能を持った生きものをわざわざ作ったんだよ」って言いたい。

その知能や体力が自分達を凌駕することに怯えるなら、人間はロボットなんか作らなければいいし、彼らが自身の存在に疑問を持ったりするほどの知能を――感情を与えなければいい。

レプリカントの感情は「しだいに芽生えてくる」みたいに言われていたから、必ずしも人間がわざとプログラミングしたものではないかもしれないけど。

あんなに高性能に作られながら4年で機能停止しちゃうロイは可哀想だけど、でもじゃあ2万年以上も一人で銀河を背負ったダニール(『ファウンデーションの誕生』他を参照)は幸せなのか。


デッカード自身もレプリカントなのでは?という疑惑はよくわからなかったけど、レプリカントにあんなにズダボロにされてもけっこう元気そうなところが「超人的」で、ユニコーンの夢自体よりもあの杖を持った警察の人(?)がいかにも意味深ではありました。

あのガフって人、警察っぽくないし、なんというか、もう一人の警察の人より色々裏事情を知ってそうな感じで。デッカードが彼らに「本当のことを知らされないまま利用されている」感が、あの人から出てたなぁ。

最後のページを読み終えた時にあんまり余韻を感じなかった原作に比べれば、「彼女も惜しいな」というガフの訳知りぽいセリフとユニコーンの折り紙、その「惜しい」レプリカントの女と逃げようとするデッカード、その後二人が逃げられたかどうかは――で終わるの良かった。

説明しすぎない、語りすぎない感じが。


日本語の文字が溢れる「近未来」の雑然とした街並みは『アンドロイドは~』より『ニューロマンサー』のようで……って、あっちがこの映画に影響されているんでしたっけ。映画は1982年の公開、『ニューロマンサー』の出版が1984年、か。

そういえば『ニューロマンサー』も映画化とか。千葉ロケはあるのかしらん。