(文庫版もあるけど私が読んだのは単行本)


先日TwitterのTLに筑摩書房さんのツイが流れてきてですね。
面白そうだな、と思って早速図書館で借りてきました。
単行本は2004年11月の刊行で、もう14年前の本ということになります。

前半はこれまでの「心」についての研究をおさらいする感じで、「なんとなく聞き覚えがある」ことが多かった。

第1章のタイトルは【「心」――もうわかっていることと、まだわからないこと】なので、まさに「おさらい」と論点の整理です。

この本の副題は“「私」の謎を解く受動意識仮説”で、第2章からが著者の発見というか考えの本論になります。

で、まず「心」とか「私」とかいう場合に、何をもって「心」と言うのか、「どこからどこまでが私か」という定義が問題になるので、著者はまず第1章で

「自分」は自分の身体、「私」は「自分」の意識、〈私〉は「私」の自己意識のクオリア (P48)

という「哲学者による一般的な定義」を説明してくれます。その上で、「からだのどこまでが自分なの?」ということで、たとえば「ミトコンドリアは自分か?」「大腸菌は自分の一部か?」「食べたものはいつ“自分”になるのか?」という話から第2章が始まる。

「自分」の「身体」は「物体」だが、「自分」の「生命」は「現象」なのだ。 (P51)

っていう表現、いいなぁ。
うん、「生命」は「現象」。ミトコンドリアとか一つ一つの細胞も“生きている”んだけど、全体として一つの「私」という生命現象を成り立たせている。

第2章のタイトルは【「私」は受動的――新しいパラダイム】
一般的には「私」は「主体的に自分の身体や思考をコントロールしている」と思われているけれども、著書は「いやいや、「私」ってのは受動的だよ?」という考えを提示する。

「動かそうと意識する前に、筋肉を動かす脳の部位はもう反応している」、という実験結果はすでにだいぶ前に出ていて、「意志」がすべてをコントロールしている、「意志」が動きに先立つ、というのは幻想なんですよね。

そもそも心臓とか意識して動かしてないし。

それは不随意筋でしょ、そういう話じゃなくて、と思いたくなるけど、時速100何十キロの剛速球を打ち返すのにいちいち脳で(意志で)命令してバットを動かしていたら間に合わない、という話もある。

それだって「プロのアスリートは体で覚えているんだ、そうなるまでには意志の力が云々」と思うけど、「体で覚えられる」んだから、「私がそう思う(意志する)」より先に「体は勝手に(しかも適切に)動ける」仕組みがある、ってことなんですよね。

ニューロンネットワークがどうのこうの、という話を聞いたことある人も多いと思うけど、外界からの色々な情報を受け取ってヒトの脳は同時多発に並列で計算処理を行っていて、著者は「脳の中の働く小びとたち」という比喩でそれを表現し、「私」はその「小びとたちが働いた結果」を受動的に受け入れているだけなのだ、と言います。

大勢の「小びと」を「私」が支配者として統括しているのではなく、「小びと」は多数決の民主主義によって動いていて、「私」は結果だけ見て「自分がやったと錯覚している」だけだ、と。

ものすごく話をすっとばすと、著者は、「要するに〈私〉ってのは“錯覚”だよ」とおっしゃるのです。それを「自分」だと――「自分が主体的に行っていることだ」と錯覚する方が便利だったので、脳はそのような「自己意識のクオリア」を作ったと。

うーん、途中までは――受動的だ、というところは「なるほど」と思えるんですが、そして「錯覚」というのも「そうかもなぁ」とは思えるんですが、「錯覚」だから「〈私〉が死ぬのは怖くないよ」って話になるのが「???」でした。

なにしろ、私たちが失うことを恐れていた〈私〉は、実にちっぽけでささいな存在に過ぎないのだ。しかも、それと同じものが地球上に星の数ほどもある。数十億人の人の心の中に。 (P173)

あなたの知情意と記憶の命は有限だが、あなたの〈私〉の命は、永遠に、確実に、受け継がれていくのだ。輪廻のように。 (P173)

〈私〉という錯覚システムは確かに無数にあって、人類や、同じく「心」を持つと言っていいかもしれない生きものたちが存続する限り、“死なない”ものかもしれないけど。

でもそれは私の〈私〉じゃないから……。

この、「永遠だから怖くないよ」の結論の前に、「なぜ私たちは死ぬのが怖いのか」「具体的に“私”のどの部分がなくなるのが嫌なのか」という議論があります。

肉体が滅びるのが嫌なのか、「心」がなくなるのが嫌なのか。でも「心」の大部分、感情や知識は「脳の中の“小びと”たち」のしわざで、「子どもの頃の大切な思い出」といった「私固有の記憶」も脳のメモリに入っているものです。

肉体が死ねば「脳の小びとたち」も死ぬわけで、小びとたちの働きを「自分がやったと錯覚している」〈私〉も当然消えるというか……そのシステムだけがあってもしょうがないよね?????

ただ、たとえば「仮面ライダービルド」において、主人公桐生戦兎は天才科学者葛城巧が顔を変えられ記憶を消された姿、ということになっているんだけど、葛城巧であるという「記憶」や「自意識」を持たない戦兎くんの〈私〉と葛城巧の〈私〉は同じなのか。二人は「同一人物」と言っていいのか。

ある人を「その人」たらしめるものって一体何なんだろう。

戦兎くんはいずれ葛城巧の記憶を取り戻すことがあるかもしれない。そうなった時、「桐生戦兎」という人格は消えるのか。

顔の見た目を変えられただけで、科学者としての頭脳、知識、「ニューロン」はそのままのはずだけど、行動や性格はずいぶん違うように見える。……戦兎としてマスターに拾われた時から、ニューロンは刺激を受けて変化し、「それ以前」とは「小びとの質」や「量」が変わったのでしょうけども。

あの二人を「同じ人」と見なすかどうか、っていうの、「私」とは何か、を考える上ですごく面白い気がするなぁ(この本の主旨とはたぶんあんまり関係ないけども)。

あと、著者は、人間以外の動物のうちにも「心」を持っていると言っていいものがあるだろう、と述べ、「心を持ったロボットはそのうち作れる」「ロボットも人もたいして違いがない未来が来るだろう」ともおっしゃいます。

昔の人は奴隷を人と考えていなかったが、現代人は人と考えるように、現代人はオランウータンを人と考えていないが、未来人は人と考えるということの可能性を、私たちは否定できない。 (P189-190)

人間の奴隷が過去に解放されたことと、奴隷が語源であるロボットが未来に解放されることは、偶然の一致ではない。人間とロボットが自然に共存する時代がやってくるのは、歴史の必然であり時代の要請だ。
人間的なロボットがちまたに満ち溢れ、家に帰るとたくさんのロボットが親しげにお帰りなさいと言ってくれる時代。 (P191)

アニメ『BEATLESS』の世界ですね。
あの作品の中では、そういう高度なロボットの存在を快く思わない人間たちもいるわけですが……。

自分や自分の属する集団を「特別」だと思いたがる人間。その、「思いたがる」のも、「小びとたち」のしでかしたことで、それを「自分の感情」だと思っているのは「錯覚」かもしれないけど。

それが――錯覚することが便利だったから〈私〉というシステムができたのなら、人はなかなかその自己意識を手放せないのではないかなぁ。「かけがえのない自分」「かけがえのない人間」という幻想を。