2月に発売され、3月にはもう5刷という話題のベストセラーです。

図書館でもずっと貸し出し中。ほとぼりが覚めた頃にのんびり読もうと思っていたら旦那さんが買ってきて、思いがけず早めに読むことができました。

非常に面白い&興味深いお話でしたし、何より大変読みやすい。論理的で明快、頭のいい人の文章を読むのは気持ちいいです。

著者の新井紀子さんは東ロボくんプロジェクトのディレクターを務める数学者。「ロボットは東大に入れるか」というプロジェクトはメディアでも大きく取り上げられたので、ご存じの方も多いでしょう。

結論から言うと、現在のところロボットは――東ロボくんは、その名に反して東大には入れません。でも、Amazonの表紙画像にもある通り(実際には表紙ではなく帯に書いてあるのですが)、すでに「MARCH」合格レベルには達しているそう。

ええっとMARCHっていうのは……明治、青山学院、立教、中央、法政の5私大。関西の人間には今一つレベルがピンと来なかったりはしますが、要は東ロボくんは“センター入試受験者の上位20%に入った”のですね。

もちろん実際にセンター試験を受けたわけではなく、模試を受けて偏差値を出しているんですが、模試受験者の80%が東ロボくんに敗れたと。

で、著者は

どうすれば、東ロボくんに負けた80%の子どもたちに明るい未来を提供できるのか。そのことと真剣に向き合わなければならない、そう決意しました。 (P62)

と、中高生の読解力調査を始めるのですが、その前に。

・東ロボくんはどのようにして数学や歴史の問題を解くのか

というお話と、

・そこまで賢くなったんなら東大入学も夢じゃないのでは

・AIが人間より賢くなる“シンギュラリティ”の到来が近いのでは

というお話があります。それがこの本の前半部分。



AIにどうやって問題を解かせるのか。その具体的な手法も大変面白いです。

東ロボくんは、世界史と英語と数学では、言語処理一つとってもまったく異なるアプローチを採ることになったのです。 (P54)

数式処理研究とか自然言語処理研究とかオントロジーとか、へぇーと思ったのですが、重要なポイントは「AIは意味を理解しない」ということ。

意味を理解しなくても問題に答えられ、その偏差値が上位20%に入るってすごいですが、AIはコンピュータ上で実現されるソフトウェアであり、数式で記述できること以外は実現できません。数式で記述できる範囲でめっちゃがんばった結果、「MARCH合格レベル」にまで達しましたが、そこから先は今のところ「数式で記述できない」世界なのです。

だから、これ以上チャレンジを続けても、東ロボくんが東大合格レベルになることはない。東ロボくんの演算装置としてスパコンを使ったところでそれは同じ。

「そこそこのサーバーを使って5分で解けない問題は、スパコンを使っても、地球滅亡の日まで解けない」 (P82)

数式化できないものは処理できないわけですからね……。

これ以上偏差値を上げるには「意味がわからないといけない」けど、人間だってなんで「意味がわかるのか」、そもそも「意味がわかる」ということがどういう活動なのか、解明されていないのです。

人間の知的活動のすべてが数式で表現できなければ、AIが人間に取って代わることはありません。 (P2)

なので、シンギュラリティは来ない。

アシモフ描くところのスーパーアンドロイド・ダニール君や、現在放送中のアニメ『BEATLESS』で描かれているような世界は、少なくとも今後数十年の間には実現されない。

『BEATLESS』の中には政治をAIにやらせようという試みも出てきますが、「人の幸福」というものを数値化できない以上、幸福を実現するための「良い政治」も数値化できず、AIに政治判断をさせるのは無理、ということになる。

うん、まぁ、そうですよね。
「心」を持たない、たとえ「形」だけだとしても、自律的に状況判断・価値判断をくだして人間と同じように行動するAIっていうのは……残念ながら……。

 
シンギュラリティは来ないし、AIが人間の活動すべてに取って代わることはない。でも。

やっぱり、人間の“仕事”はかなりの部分、AIに取って代わられることになるだろう。AIにできる仕事はAIがどんどんやっていくことになる。だから、人間はAIにはできない仕事をこなせなければならない。でなければ生き残れない。

AIにできない仕事――それはつまり、「意味」を肝腎とする仕事、ということです。

決まったフレーム(枠組み)の中で計算処理をすることは得意(というか、それしかできない)なAI、

その反対の、一を聞いて十を知る能力や応用力、柔軟性、フレームに囚われない発想力などを備えていれば、AI恐るるに足らず、ということになります。 (P172)

えー、そんな難しいこと……って思いますよね。

そんな能力備えているぐらいなら苦労してないわ、っていう。

AIが人間に取って代わることはないけれど、しかし既にセンター試験模試の偏差値で人間の80%が負けている。AIはまだ意味を理解していなくて、文字通り「機械的」に処理しているだけなのに、その時点でもう80%がAI以下の解答しかできてない。

「もしかして人間も、“意味”わかってない?」

ということで著者は「中高生は文章の意味をどれくらいわかっているか」ということを測るための「リーディングスキルテスト」というものを開発し、調査を始めます。

その調査の結果はメディアにも取り上げられました。(たとえば東京新聞のこの記事「中3の15%、短文も理解困難」。また、この記事に絡んだ昨年9月の新井さんのツイートまとめも話題に)

私もこのお話聞いて「うわー」と思った覚えが……。

で、この本の中には実際に中高生が受けたテストのごく一部が「こんな感じの問題です」と紹介されているのですが。

「え、これ間違うの?」と思うものもあれば、「あれ?正解は3か、間違えた……」というのもあり、意外と難しいというか「私もその程度か~」と凹んだり(^^;)

中高生だけでなく学校の先生や一流企業の社会人、記者さん達にも試してもらってるそうで、やっぱり、意外と間違えるそうな。なのでこの本のタイトルは「教科書が読めない子どもたち」ですが、読めないのは子どもたちだけじゃないもよう……。

ツイートまとめの中にも出て来ますが、残念ながら「読書量」と「読解力」との間に相関は見られないらしく、単純に「本を読めばいい」とか何かをすればいい、しなければいい、という問題ではないそうな。

何につまずいて「理解できない」のか、それも人によって違うらしく、読解力を向上させる簡単な処方箋はない。

ただ、リーディングスキルテストで「どういう分野が苦手か」ということは可視化されるので、そのタイプ別に、「教え方」を工夫することはできるのではないかと。

今まで「画期的な教育法」と呼ばれるものは、山のように提案されてきました。(中略)それにもかかわらず、今回お伝えしているような読解力の状況なのです。 (P245)

私のような一介の数学者がRSTを発明するまで、なぜ「中高校生は教科書を読めているか」という事実を考えようとも、調べようともしなかったのでしょうか。なぜ、数十年前に卒業した中学校の記憶と、自分の半径5メートル以内にいる優秀な人たちの印象に基づいて、こんな「餅」の絵を描いてしまったのでしょうか。 (P239)

「餅」というのはアクティブ・ラーニングのことなんですけどね、はははは。
ホントにねー、これまで色んなこと提案して学習指導要領変えて、でも実際にそれが効果があったのか、どれくらいダメだったのか、ちゃんと検証もしないまま次々と新しいことが提案され……。

センター入試改革についても著者は否定的です。現行のセンター入試はよくできていると。

センター試験の英語を「実用性ゼロの暗記英語」と批判している方々は、おそらく実際にセンター入試の問題を解いたことがないのだと思います。 (P94)

インパール作戦でさえ検証可能な資料が残っているのに、「第五世代コンピュータ」プロジェクトがなぜ失敗したのか、きちんとした報告書は何も残ってない、って話も「日本あるある」すぎて……。「実はあのプロジェクトは成功した」と強弁する報告書ならあるんだって。マジ笑えない。

AIのできない仕事云々以前に、作業マニュアルや安全マニュアルを読んで内容が理解できないと普通に仕事ができなくて困るわけですが、この話で思いだしたのがずっと前の「クローズアップ現代」。

「漢字が読めないから仕事ができない」という案件が取り上げられてたことがあったんですよね。「漢字が読めない→マニュアルや注意書きが読めない→職場が漢字教室を開く」っていう話。

blog記事(読み返すとかなり偉そうに書いてて赤面…)にもしたんですが、なんと2006年。10年以上前です。その後漢字教室を必要とする職場が増えているのかどうなのか知りませんが、2006年にはすでに「マニュアルが理解できない」が顕在化していた……。

RSTでも「漢字が読めない、熟語の意味がわからない」から「そこを飛ばし読み」した結果、誤答したのだろう、という例が出てくるし、小学生から英語だプログラミングだと言う前に、とにかく漢字と文章の理解。

重要なのは中学卒業までに中学校のどの科目の教科書も読むことができ、その内容がはっきりとイメージできるようなリアリティのある子どもに育てることです。 (P258)

やれグローバルだアクティブなんちゃらだと旗を振りながらも、

日本の教育が育てているのは、今もって、AIによって代替される能力です。 (P272)

……この本はすでにベストセラーですが、果たしてこの危機感は文科省に届くのだろうか……。


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で、ここからは余談。

学校の授業で、教科書って、あんまり読まないですよね?
国語の教科書はまぁ音読させられたりするけど、歴史とか理科とか、そもそも授業ではろくに教科書使わなくて先生のプリントで進んでいったり、問題だけやったり。
これもまた「数十年前に卒業した中学校の記憶」なので、今の学校でどうなのかはわからないけど、そもそも教科書を授業であんまり使わないから、生徒が「教科書の文章を理解できているか」なんて、気にしなかったのでは……。

理解できてないと気づいても、理科の先生が「いやこの文章はな」と“文章”を解説することはないだろうし。

一方で国語は「この時作者はどう思ったでしょう」みたいな話になりがちで。論説文とかもやるはずだけど、「国語は道徳」「読書感想文も道徳」という印象しか残ってない……。

なんか、「論理的」であることがあまり褒められない風土という気もするし。理屈っぽいと嫌われる、「小難しいこと言うな」みたいになる。「場の空気」の方が大事なので、「論理的に正しいかどうかは問題ではない」とか。

(新井さんも「現代の社会の中で上手く生きて行くには、場の空気を読むことは非常に大切で、論理的に正しいことや、正しく推論するとそうなるに違いないことを主張し過ぎると、窮地に立たされることがあることを、私も知っています。 (P238)」と書いておられます。新井さん好き)

SNSの隆盛で文字に触れる機会は増えたけど、そのほとんどは短文で、しかも感情の表出が多くて、論理的な文章を書く機会も読む機会もどんどん減っていってるような気がする。書き言葉が話し言葉にどんどん浸食されて、「論理的な日本語の文章」というものが古代の漢文のような、「一部の人しかわからないもの」になってしまっているのでは。

かつては「公的な記録」「できごとを記述する論理的な言葉」はすべて漢文が担っていて、和歌や随筆を主とする日本語の文章は「私的なもの」「感情を表現するもの」だったんですよね。

たとえば橋本治さんの『古典を読んでみましょう』を紹介する記事中の、“昔の文章で大事なのは「ブレスの息づかい」であって「意味じゃない」”って話とか。“現代の日本語はただ意味を説明するだけのものになってしまった”なんてことまで橋本さんおっしゃってる。

おお、そもそも意味わかんないのが日本語か……。

書き言葉が話し言葉に浸食されて意味より感覚や感情が優先されるのって、ある意味先祖返りだったりするのかな。

でも公式記録や教科書はもはや漢文ではなく日本語で書かれているんですから、「そーゆー日本語」をちゃんと扱えないとやはり困る。

しかし読書の多寡が関係ないとしたら、読解力ってほんと、どういう仕組みで涵養されるものなんだろう……。