SF史上に名高い名作『夜来たる』を含む5作を収めた短編集です。

アシモフさん自身が『「夜来たる」その他の物語』として編んだアンソロジー(20編収録)のうちの冒頭5編がまとめられています。

それぞれの作品の前にはアシモフさんのちょっとした解説があり、作品成立の経緯や作品への思い入れなどを知ることができて楽しい。

そしてもちろんどの短篇もアイディアが素晴らしく、さすがの面白さでした。

まずは表題作『夜来たる』

6つの太陽を持つ、「夜」を知らない惑星が舞台。しかし実際には、5つの太陽が沈み、もう一つの太陽も「日食」によって光が消える「夜」が、二千年に一度訪れるのです。

「夜」や「星々」についての話は宗教では語られている。けれども一般の人々はそんなものが現実にあることをまったく信じていないし、「もうすぐ夜が来る(太陽光が失せる)」ということを予測した天文学者たちでさえ、半信半疑。「夜が来ればパニックになる」ことはわかっても、彼らにも「世界が何時間も暗闇に包まれること」を実感することができないし、「星が見える」ということについても想像の域を出ない。

もうこれだけで面白いですよね。

地球人にとっては当たり前の「昼」と「夜」。夜を照らすためにランプや電灯が発明された地球だけど、「暗くならない」星の文明にはそんなものを作ろうという発想もなく。

暗くなったら、松明しかない。

星を見ることがないから、他にも恒星があるということに思い至らないし、日食を起こす「月(衛星)」の存在に普段は気づくこともない。

ああ、そうかぁ。そうだよねぇ。

途中、「昼と夜がある星」について登場人物が

「そんな惑星では生命は生存不能であるということを忘れてはいけません。熱も光も不充分だろうし、それにもし自転していれば、一日の半分は完全な闇の中にあるはずです。生命体は――何よりもなず光を必要としているのだから――こんな条件下では発達することはできないでしょう」 (P64)

なんて言うところもあり、ふふっとなります。

アシモフさんのアイディアと描写も素敵だし、「夜来たる」っていう邦題がまたいいですよねぇ。「風とともに去りぬ」もそうだけど、「ぬ」とか「たり」とかいう助動詞、いい仕事するよなぁ。「夜が来る」とか「夜が来た」では出ない趣きがありますよね、「夜来たる」。「夜来たり」という終止形ではなく連体形になっているところも。

ちなみに原題は「Nightfall」です。

 
2作目は『緑の斑点』

この作品のテーマは『ファウンデーション』シリーズの最後で提示された問題と似ています。惑星全体が一つの「生命体」として存在するような在り方と、我々地球人類のように、個々人が別の意識体として好き勝手に振る舞う在り方。

どちらが良いのか。

全体で一つの生命体であるような「セイブルック星」。その調査を終え帰還する宇宙船に潜り込むことに成功したセイブルック星の一細胞は、「哀れな独立存在」を自分たちと同じ「大いなる一つの生命」へ組み込んでやろうと画策するが……。

「セイブルック星の生命の在りようと比較した場合、地球の有機的組織のそれはひとつの大きな癌にたとえることができる。あらゆる種、あらゆる個体が、他の種、他の個体を犠牲にして繁殖しようと最大の努力を払っているのだ」 (P100)

他の種を自分たちの都合で絶滅に追いやる地球人類。のみならず、同じ種の間でも殺し合う私たちより、「全体で一つ」ゆえに食糧を食べ過ぎることもないセイブルック星の在り方の方が良いのでは?

うん、まぁ、でも、嫌だよね、やっぱり。個々でありながら調和を保てる生きものでありたいよね……。

 
3作目『ホステス』

ホーキンズ星から来た博士をホームステイさせることになった生物学者のローズ。地球外生命体の生理や心理について研究するチャンス!と浮かれるローズだったけれど、夫のドレイクは猛反対。

「なんでそんなやつをうちに泊めなくちゃならないんだ!」

それでもドレイクは渋々ホーキンズ星人の滞在を受け入れ、のみならず熱心に議論を始める。そんな夫の様子に次第に不信感を覚えるローズ。警察官のドレイクがなぜ自分と結婚したのか(二人はまだ新婚)、それすら疑問に思えてきて……。

銀河系で知られている五つの知性体、そのうち地球人だけが短命なことについての議論がなされ、それも興味深くはあるんだけれど、夫に対する不審が募っていき、最後には……ってなるその描写がサスペンスフルでドキドキします。

タイトルの「ホステス」が掛詞になってるのも憎い。

 
4作目『人間培養中』は、人類はもっと高位の生命体によって操られているのでは? 実験台でしかないのでは?というテーマを描いたもの。

「神が人間を造った」という話を信じれば、何か高位の存在により作られ、場合によっては滅ぼされることもある(ノアの箱舟の時の洪水とか)ってそうそう変な話でもないし、SFでは色々な形で描かれている普遍的なテーマだけど、これは「原子爆弾」に絡めているのが秀逸。

これ、1951年の作品なんですよね。核戦争はもう「空想の話」ではなくなってしまって、SFで取り扱うのが難しいネタになった時代。

「明日のことを扱いながら、明日が過ぎたあとも時代遅れにならないような物語を書きたい」
「これは、その時事性にもかかわらず、執筆された一九五一年当時と同じように今日もSFであり続けている」 (P182-183)

と、アシモフさんは書かれています。むしろ原爆の話を普遍的なテーマに絡めた、ってことなのでしょうね。

 
最後は『C-シュート』。これは少し毛色が違う作品のように感じました。設定はSFだけど(異星人に拿捕された宇宙船の中で繰り広げられる群像劇)、描かれるのは「極限状態で人は何を支えに行動するのか?」ってことで。

戦争中に敵の捕虜にされたそれぞれに何のつながりもない市民が、衝突しながらも最後は……、って、宇宙船じゃなくてもドラマになりますよね。そこを宇宙船にすることで、敵がまったく地球人とは生態も文化も違う存在、ミッションに失敗すれば宇宙の藻屑、というよりドラマティックなものになってる。

まったく英雄的ではない登場人物たちのキャラクター造型がいい味を出す好編。

 
短編集なので隙間時間にも読みやすいし、お薦めです。