マンガ・アニメ
新アニメを機に『どろろ』原作を読んでみた
以前、妻夫木聡&柴咲コウで映像化された『どろろ』にどハマりしたわたくし。(映画『どろろ』の感想はこちら。あれからもう10年以上経ったとは……時の過ぎるの早すぎ!)
この1月から始まったアニメ『どろろ』ももちろん見ています。『八重の桜』『あさが来た』でヒロインの少女時代を演じた鈴木梨央ちゃんがどろろの声を担当、脚本は仮面ライダー等でおなじみの小林靖子さん。
2話まで見ましたが期待に違わぬ出来で、これから毎週楽しみです。
(↓新アニメ、AmazonPrimeVideoで見られます)
今回のリメイクに合わせ、CSの時代劇専門チャンネルで昭和版のアニメも放送。1、2話は見逃したものの、3話目を見ることができました。
先日亡くなった藤田淑子さんが歌う主題歌「どろろの歌」が実に印象的(衝撃的!?)。
どろろの声も藤田さんかと思うと違って松島みのりさん(キャンディキャンディの声でお馴染み)、そして百鬼丸の声は野沢那智さん。
私にとってはコブラの声が印象深い野沢さん、アラン・ドロンの吹き替えでも有名ですよね。
なので昭和の百鬼丸は大人っぽい。最初からフツーに喋ってる(どころかよく喋る)し、なんというかサバサバしている。
妻夫木くんの百鬼丸はこう、せつないというか儚いというか、「悲しい宿命を背負った若者」という印象が非常に強かった(といっても10年以上前に見たきりなのでだいぶ記憶が改変されてそう)ので、「え?百鬼丸ってこういうキャラ?」とちょっと戸惑ってしまって。
新アニメの百鬼丸も「眼も見えず耳も聞こえず声も出ない」という設定通り、ほぼ声を発していない。いかにも「訳あり」な、どよーんと暗い雰囲気をまとっていて、映画の百鬼丸に近い。
で。
「原作の百鬼丸はどっちなんだろう?」と思い、コミックスを手に取ってみました。
図書館にあった秋田書店の手塚治虫傑作選集版。
映画あんなにハマってノベライズまで買ったのに、あの時は原作読もうとは思わなかったんですよね。なんでだろ、「別物」って気がしてたのかな。あくまで妻夫木百鬼丸と柴咲どろろのコンビが好きだったから。
うん、あの時読んでたら、「えー、原作ってこんなんなの?」とがっかりしていたかもしれない。
原作の百鬼丸、もろ昭和アニメの百鬼丸なんだもん。
最初からめっちゃしゃべってる。「ほんとはおまえのいってることは何も聞こえないんだけど」といいながらべらべら身の上をしゃべる。
まぁどろろと百鬼丸のロードムービー的なストーリーなので、百鬼丸がしゃべってくれないと困るだろうけれども。
だから百鬼丸が「声を発しない」新アニメ版では代わりに琵琶法師が説明役に出てきて、
「なるほど」と思いました。2話目「万代」の回、原作とはかなり違いましたもんね。せっかく小山茉美ちゃんが万代役だったのにあっさり倒されちゃって。
単に妖怪を倒すだけじゃなく、「見えない人間の方が本質を見ている」というふうに持って行くのは面白かったし、「百鬼丸にはこう見える」ってことを描くの、「現代ではその辺合理的に説明しとかなきゃいけないのかなぁ」と興味深かった。
第1話で仏像が首をなくして、それが「身代わり」で、だから百鬼丸は「命(魂)」だけは奪われず、生き延びている、っていうのもこう、「合理的な設定」ぽい。
原作にはそういうくだりはないんだよね。
体の48箇所を魔物に奪われ、「このままではどうせすぐ死ぬだろう」と思われたのが生き延びて、寿海に拾われ育てられる。手足もなく、映画では心臓すら「作り物」ということになってたけど、そんなんでホントどうやって生きてるのか。食べ物もらってもそれを消化する胃や腸はあるのか、いくら寿海がブラックジャック並の天才外科医でも、「人造の体と本体を接合して動くようにする」なんてできるのか……。
寿海が手術する場面、「奇跡が生まれ始めた」で片づけられてる(^^;)
まぁそもそも「魔物に体の各部を取られて、魔物を倒すたびにそれが戻る」ってとこからして人智を超えた出来事なんだから、そこは突っ込んでも仕方がないですが。
いわゆる「テレパシー」でコミュニケーションが取れる百鬼丸、でも「口がきけないと不便だろうから腹話術の練習をしろ」って寿海が言うくだりがあって、漫画の百鬼丸は腹話術でしゃべってるようです。
腹話術であんなにべらべら。
すごいな。
原作の冒頭、百鬼丸が「生まれて十四年もすりゃふつうの人とかわらねえよ」と言ってて、「ええっ、これで14歳か!」と。戦国時代だし苦難の人生だし、今の中二と一緒にしてはいかんだろうけど、そーか、14歳なのか……。
原作漫画が連載されたのは1968年1月から1969年の10月。
そして昭和アニメは1969年の4月から9月にかけて放送されています。
ほぼリアルタイムでのアニメ化。
Wikiによると原作は「暗く陰惨な内容が読者に受け入れられなかった」そうで、アニメの方も途中で視聴率低迷による路線変更、手塚治虫氏自らが、監督に「どろろを何とかギャグ物に」と言ってきたのだとか。
ええええっ!?
映画『どろろ』のあのせつない妻夫木百鬼丸にやられた身としては信じがたい話です。
うーん、原作、そんなに暗いかな?
1969年当時の小学生には難しいだろうか???
ところどころ、「水木しげるに聞かせたい」とか「だれかなんかいった?ここを読んでる人がいったの?」といったクスッと笑えるシーンもあり、すらすら楽しく読めるんですが。
実は手塚治虫の漫画、『ブラックジャック』と『アドルフに告ぐ』しかちゃんと読んだことなくて、『アドルフに告ぐ』は読むのしんどかった覚えがあるけど(父親が買ってきたので読んだ)、もし小学生の時に『どろろ』を読んでいたらどうだったろう……。
アニメの『どろろ』は見ていなかったけど、小学生ぐらいの時『サスケ』や『カムイ外伝』の再放送を見てた記憶があって、あっちの方がさらに陰惨だったような。調べたらあれも1968年、69年の作品らしく、『カムイ』と『どろろ』は完全に同時期に放送されています。
『カムイ』の方はWikiに「内容の暗さなどから視聴率低迷で打ち切り」って書いてあるし、手塚的には「あれとは違う」を打ち出したかったのかなぁ。
この先昭和アニメがどんなふうに「ギャグ化」していくのか、見るのが楽しみなような、残念なような。
さてそれで、原作漫画全体の感想なんですけど、「戦で一つの村が分断され、“壁”の向こうの家族に会えなくなる」っていう「ばんもん」は「ベルリンの壁」や「板門店」を思わせるし、侍たちに搾取され、殺される農民の姿、そんな貧しい農民がいつか立ち上がるためにと野盗に身を落としたどろろの父など、暗いというより非常に“社会的”な作品だなぁ、と感じます。
自分自身が困窮しても、その「農民のための金」には手を付けなかったどろろの父親。あっぱれだよねぇ。
主君の命令で罪のない大工たちを斬らされ、その刀が妖力を持ってしまう話もいいし、それを退治して村を救ったのに「なぜ兄を殺したの?人殺し!」となじられるところもたまらない。
映画でも描かれていたけど、妖怪から村人を救っても、「おまえも化け物だろう」「出て行け」と石もて逐われる百鬼丸。
「怪物を退治できるほどの力を持った者はそいつ自体が怪物」……ヒーローは孤独だ……。
あと、原作にもところどころ出てきて百鬼丸を導く琵琶法師が、「人間のしあわせは“いきがい”だ」と説く場面。
失った体を取り戻すため魔物と戦っている百鬼丸だけど、いつか全部取り戻したら、その後はどうするのか。「ちゃんとした人間」に戻って、それで万々歳で幸せになれるかといったらそんなことはないだろう、むしろ目的をなくしてがっくりするだけではないのか。
と、そう言うのですよね、琵琶法師。
これ本当にその通りだよなぁ、って。「普通の人間」に戻れたとして、その後どう生きていくのか。「普通の人間」になることはゴールじゃなくてスタートでしかない。体を奪われ魔物と戦う人生は苦難に満ちているけど、でも「体を取り戻す」ことが「いきがい」になってはいる。
最初の方で、琵琶法師は百鬼丸を「戦火で家族を失い、自身も傷ついた子ども達」のところへ案内してもいる。
「手のねえ子 足のねえ子 目のねえ子 焼けただれた子」
「おまえさんはどこがわるいかしらねえが 妖怪がとっついてるかしらねえが それだけ育ってこれたんだ なぜひとりでがんばってみねえんだい?」
百鬼丸には寿海という“親”がいたし、魔物を倒せば手足も戻ってくる。でもその子ども達の失われた手足はどうがんばったって生えてきたりしないんだものね。
どっちが幸せとかいう話ではないけど、どんな状況であれ生きていくしかないし、「魔物を倒す」が生きがいにはなったわけで。
どろろの父親が隠した金を一緒に探してやることが新しい生きがいになるのではないのか?と琵琶法師に言われ、どろろと百鬼丸の旅は主従が逆になりかけるんだけど、原作は結局尻切れとんぼで終わってしまう。
どろろが実は女の子、っていう設定もたいして生かされないまま終わったし、「え?これで終わり?」という……。
映画のノベライズの感想で「全部描かないところがいい、まだまだこれから!っていう終わり方が」って書いたけど、そういうのとも違う、いかにも「打ち切り」っぽい終わり方で。
昭和アニメは「漫画以後」も描いてるらしいし、新アニメがどんなふうにどろろと百鬼丸の旅を終わらせてくれるのか、小林靖子さんの手腕に大いに期待しています。
映画『どろろ』ももう一回見たくなったけどあれ、2時間18分もあるのよね…長い……。
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