映画
映画『どろろ』やっぱり好き
アニメの『どろろ』がもうすぐ最終回(これを書いてる時点でまだラス前回しか見てない)。
最初はさすが靖子にゃん、と面白く見ていたものの、だんだんと「あれ?予想より好みじゃないかも……」となってきました。いや、面白いのは面白いし、なるほどな、とは思うんだけど、「好きだーっ!」って感じにはならない。
百鬼丸が最初は感情(心)がなくて、体を取り戻したところで「人」になるかどうかはわからない、っていうのすごく靖子にゃんだなぁ、と思ってそこは好きなんだけど、「大勢の人間の命(幸福)と一人の命なら大勢の方が重い。だからおまえは犠牲となれ」っていう醍醐側の理屈との戦いが、しんどい。
昔だったらこれも「好き」だったろうけど、歳を取ってくるとだんだんこーゆーの、「めんどくせぇな」になってくる(^^;)
なんか、他の部分も色々合理的だし。
百鬼丸が完全に死んでしまわなかったのは観音像の首が身代わりになったせいで、百鬼丸を食えなかった鬼神が1体いるから、っていうのとか、百鬼丸に体を与えた寿海が海の向こうで義手義足の勉強をしてたとか。
原作ではその辺割といい加減なんだよね。原作の百鬼丸、最初からおしゃべりだし。
「顔のない不動」の話も、原作だと単に岩に苔が生えて人面になってた、みたいなテキトーな感じなんだけど、アニメでは昔仏師がお不動様を彫ったがどうしても顔を思うように彫れなくて、だから人の顔を欲しがる妖怪不動尊になった、みたいな。
今どきはこういう合理的な理屈をつけないとツッコまれるんだろうか。
もうちょっと摩訶不思議でもいいんじゃないの、人智を超えたものはあるでしょう、と思ってしまった。
で、映画の『どろろ』を観たくなって、AmazonPrimeで観たんですよ。12年ぶりに。
干支一周してるとかびっくりですけど。
観たらやっぱり好きだった。
これをまず最初に『どろろ』だと認識してしまったこともあるんだろうけど、妻夫木百鬼丸の目、表情、たたずまいが好みなのはもちろん、「スーパー伝奇アクション」としてよくできてて脚色の仕方がすごく好き。
映画では、寿海は「まじない医師」で、戦場から拾ってきた子どもの屍をぐつぐつ煮て、秘伝の薬草を加えて電気ショック与えて「培養液」みたいなの作って、そこから手足だの心臓だのを作ってる。
そんなんで作れるかーい!と思うけれども、「そもそも鬼に体の48箇所を食われて、でも生きてる」という出発点が荒唐無稽なので、「科学的要素もちょっと入ったまじないで作れた」というのは世界観的には「なるほど」だと思う。
そんで百鬼丸は寿海を「父」と慕って、だから最初から豊かな感情を持ってる。
持ってたのに、持ってたからこそ、その後の旅でひどく傷つき、映画の冒頭では「まるで心を亡くしたような有り様」になってる。
映画では端折られてるけど、ちゃんとあの、「澪」のエピソードがノベライズでは語られてるんだよね。
あと左腕の刀に「百鬼丸」の銘があるから百鬼丸と呼ばれていただけで、「どろろ」と出逢うまでは名無しだった。
「どろろ」の方も「盗人に決まった名前なんかない」と言う。
映画では、もともとは「どろろ」も百鬼丸の呼び名の一つで、「ずっと南の国で“人の姿をした得体の知れないもの”をそう呼ぶ」と説明されてる。
ここは原作とは全然違うわけだけど、百鬼丸の「体を取り戻す話」の方がメインなのに作品タイトルは『どろろ』なのをうまく解決してるなー、と思う。
原作ではどろろが背負った「火袋の遺産=民衆の怒りとその蜂起」というテーマもあった(結局最後まで描かれてない)けど、映画ではそこはほのめかしぐらいしかない。
「名づけ」は多宝丸との関係においても重要で、映画では多宝丸という名はもともと百鬼丸のものだったんだよね。百鬼丸に名づけようと考えていた名前。でも百鬼丸はあんなことになったから、弟にその名を付けた。多宝丸はそのことを知って、「多宝丸はオレだーっ!」と百鬼丸に刃を向ける。
アニメ『どろろ』の「もともとはいい坊ちゃん」「領民のために鬼になる」多宝丸を観た後では、「そんな個人的な理由かよ」と思うけれども。
でも「名」って大事だよね。「名づける」という行為。名づけることで、人はその対象物の存在を認めるんだから。
醍醐景光の方も、アニメでは「領民のため」が強調されてるけど、映画では「このままでは醍醐の一族が滅びる」「オレに天下を取らせろ」という理由で鬼神と約定を結んでる。
自分のためかよ~~~。
でも一応多宝丸は「鬼と恐れられているが父は理想の国を作ろうとしているんだ」って思ってもいて、景光の方も「戦乱のない世にするために天下を平定したい」という気持ちもないわけではないらしい。
アニメでは景光の妻、縫の百鬼丸への思いがクローズアップされてて、景光自身は百鬼丸と(ここまでは)向き合わない。「あんな鬼神の食い残しに醍醐の跡取りが負けるわけはない」とか言っててひどい。
映画ではなんせ中井貴一なので、最後の対決シーンは圧巻だし、多宝丸を生き返らせるために我が身を魔物に食わせる親心もある。しかも「国を魔物には取らせぬ」と自分で自分=魔物の始末をつけるし、今際の際には百鬼丸とどろろに声をかけもしている。
百鬼丸の体を魔物に食わせたことを後悔はしない、けれども親としての情を完全に売り渡したわけではない……まぁ妻はあっさり斬り殺してるけど。
(でもあの魔物死んだら約定が破られてまた多宝丸死んじゃうんじゃないのかな……?)
どろろを柴咲コウという大人の女性(設定的にはまだ十代ぽい。ちなみに百鬼丸は二十歳設定)がやってることには否定的意見も多いのかもしれないけど、私は柴咲どろろもとても好き。泥だらけの変顔でガキっぽくて、魔物退治にも大活躍。
すごく生き生きしたいいどろろだと思う。
10歳未満の子どもではない、「女性」のどろろだからこその百鬼丸との関係性設定になってるけど、でもだからってまったくベタベタした感じではなくって、女だから二人の間には恋愛感情が、って描かれ方はしてない。(ノベライズでは映画より「女」が強調されてるけど)
原作でどろろが「実は女の子」なのって、生かされそうで生かされないまま終わってるから、「なんでどろろは女の子に設定されたのか」の答えとして、ちゃんとヒロイン(と言うには泥々の無茶苦茶だが)にしちゃうの私は好き。
どろろの父親火袋は景光自身に射殺(いころ)されたことになってて、だからどろろは「醍醐景光だけでなくその一族郎党皆殺しにしてやる!」と仇討ちを望んでる。最初に百鬼丸についていったのも、刀の方の「百鬼丸」目当てだった(刀目当てなのは原作に忠実)。復讐のために打たれた特別の刀、化け物をも一瞬で霧散させるあの刀なら、醍醐景光も、と。
だから、当の百鬼丸が「景光の一族郎党(どころか長男)」だと知ってどろろは葛藤する。百鬼丸自身の親殺しへの葛藤と、どろろの葛藤がリンクして、「どろろが憎しみを捨てるならオレも」と百鬼丸は景光を許すのだ。
どろろが「仇討ち」を望んでいて、その相手が醍醐であり、他ならぬ百鬼丸が醍醐の息子でどろろが葛藤を余儀なくされる、っていうのは映画オリジナルの脚色だけど、2時間18分でお話をまとめるにはいいポイントになってるし、そこまでの道中で強くなっていた二人の繋がりがそこで揺らいでしまう、そこでまた百鬼丸が孤独になりかけてしまう、っていうの、好き。
そこまでの、どろろと二人での「魔物退治道中」がほんとに生き生きと描かれてて、音楽もジプシーキングスぽい曲でとてもいいし、百鬼丸が声を取り戻し、「どろろどろろどろろーーーーっ!」と嬉しそうに叫ぶ姿、そんな百鬼丸に飛びつきながらこちらも超嬉しそうに「なんでぇなんでぇ百鬼丸!」と答えるどろろ――。
それが、「実は親の仇」なんだもんな。
まぁ、展開としてはベタだけど、百鬼丸が「じゃあ殺せよ」って言うのも、どろろに(一時的に)去られて「誰か俺を殺してくれ」って呻くのも好き。
って、「好き」しか言ってないな、俺。
最後、多宝丸が兄こそ醍醐の跡取りと認めて「帰りを待つ」って言うのだけちょっと「そうなる???」って思うんだけど、「家(本来の居場所)」を取り戻した百鬼丸が、そこに落ち着かずに、それでもどろろと再び旅に出ることを選ぶ、っていうラストのためには必要な場面なのかもと。
どろろともども初めて海を見て、「こりゃ広い」と世界の広さを実感し、「残り二十四体」というテロップで終わる。
この、「旅はまだ続く」で未完なのがほんといいんだよねぇ。今となってはうっかり続編が実現しなくてほんとに良かったなと思う(笑)。
原作で、琵琶法師に「魔物を全部取り戻したらどうするんだ?」って言われて答えられない百鬼丸。普通の人間に戻ったとして、そこからどうするのか。
結局原作は尻切れトンボで、しかもどろろと百鬼丸は別れてしまうんだよなぁ。
映画はまだ残り半分取り戻してないけど、でも実のところもう百鬼丸は「普通の人間」で、「俺はもっと世界のことを知らないと」でどろろとの旅を選ぶ。魔物を打ち倒した先、体を取り戻した先――「その先」が、ちゃんと描かれてるんだよな。
もっと言えば、最初っからどろろは百鬼丸のことを「なんでぇ、てめぇなんかただのチンピラじゃねぇか」ってバッサリ一刀両断にしちゃってる。
魔物から村を救っても「おまえも化け物」と言われ石を投げられる百鬼丸。誰もかれもが自分を化け物呼ばわりする世界で、どろろだけは最初から自分を「ただの人間」と見てくれてるんだ。
のみならず、「さっさと体全部取り戻してあんな奴ら見返してやれ!」って言ってくれるんだもんなー。
本当の親や家にたどり着く前に、百鬼丸はどろろという居場所を得てる。「今のままの自分で世界に存在しててもいい」って。
アニメでも、「鬼になっても一人にはならない。どろろがいる」って言ってるんだけど、それでも体を全部取り戻すことには執着してるし、ラス前の段階では心が救われてないというか「人」になれてないというか、アニメだと「悩み苦しみつつ仏と鬼の間を揺らぎ続けるのが人なのだ」という話になってしまって……(それはそれで面白くはあるけれども)。
ロケ地ニュージーランドの雄大な風景、常に強く吹いてる風。
もちろんアクションもすごい。そもそも「両腕が刀」をよく実写でやろうと思ったよね。今回舞台でもやってるけど、よくも生身でこんな話を……。
クレジットに「中国アクションチーム」ってあるのを見て「え?」と思ったんだけど、ノベライズの帯に「アクション監督:チン・シウトン」ってちゃんと書いてあって、そうだったのかー、と今さら。公開当時、メイキング入り宣伝番組を見たから知ってたはずだけど、すっかり忘れてた。
忘れてたと言えば、最後景光との戦いの中で百鬼丸の額に十字傷がつくの、まったく覚えてなかった。
多宝丸を救うために魔物の提案を受け入れようとする景光を止めようとして一太刀、そして魔物に乗っ取られた景光を斬る時に一太刀受ける。
最初に鬼神たちとの約定の証として景光の額に十字の傷がついて、で、最後父親との約定の証のように、百鬼丸の額に傷がつく。ラストシーンではだいぶ薄くなってるというか、傷のことなんか思い出さないぐらいなんだけど、でもわざわざ同じ十字傷を刻むのって、絶対意味あるよね?(ノベライズには書いてあるのかもしれない。まだそこまで読み返してない)
景光(と魔物)を斬って心臓が戻る、っていうのはあまりにベタだけどしかしベタで悪いか、こんちくしょー(誰)。
はぁ。
1回見た後、これ書きながらBGVにしてさらに2回観てしまった。楽しかった。Primeありがとう。
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