新作アニメの方と昭和版アニメ、最終回を続けて見ました。
時代劇専門チャンネルがちゃんと同じ日に最終回になるよう放送してくれてて、見比べやすかった。

まず今期アニメの方の『どろろ』
最終回のサブタイトルは「どろろと百鬼丸」。これ、昭和アニメが途中で「どろろと百鬼丸」と改題されてるんですけど、リスペクトというか、最終回はそれしかないだろ、という気はします。

今回の百鬼丸は途中まで喋れなくてセリフがなくて、声を取り戻してもおしゃべりにはならなかったから、作品タイトルに百鬼丸が入らずどろろだけなの、自然な気もしますね。「どろろが見た百鬼丸」というか……。

最後、一瞬どろろ育ってたし。

原作では生かされないままだった「女の子設定」が最後にちゃんと。
火袋の意志を継いだ女義賊に育ってるのかな、って感じの。

でもせっかく「きれいな娘」に育ってるのに百鬼丸は一緒じゃない
いや、あれ、最後、駆けていった先にいる百鬼丸は、再会後なの?????
「いつか再びめぐり逢うためにどろろはどろろの道を駆けていく」というふうに私は感じたけど、もうそのめぐり逢った未来だったんだろうか。

ともかくあそこで百鬼丸がどろろのところへ戻らずに、一旦別々の道を行く、ってだけで「え……そうなの……」と寂しくなりました。
一緒に行ってよぉ!と。

まぁ映画と違ってアニメはもう全部体を取り戻してしまってこれからは魔物退治の必要ないし(体を取り戻してもまだ彼が“鬼”になる可能性あるのか。人並みの体になってもやっぱり超絶強いままなのかな)、いつかはどろろと同じ道を行くとしても、まず「世界を見て回る」「人として学び直してから」になる、というのもわからなくはないけれども。

「民が武器ではなく金の力で自分たちの国を作る」というどろろの道にいきなり合流できるほど、まだ百鬼丸は世の中のことを知らない。

原作では火袋の遺産、結局見つからないままだったのが、見つかっちゃったもんねぇ。
あの財宝、でもやっぱりまた取り合いになると思うんだけどな。
いきなり良さげな若い衆3人出てきたけど、「この金を元手に俺たちの国作り」の途中で、イタチみたいの絶対出てきちゃうでしょ。その金の持ち主がまだ年端のいかない、それも女の子ならなおさら。

あと、最終回で百鬼丸を救うのがどろろじゃないのがこう……。
お母さんはともかく寿海まで一緒にあそこで焼け死ぬのもよくわからない。寿海って、死にたがってたっけ? 百鬼丸を救えさえすれば自分はどうなってもいい、というのはまぁわかるけど、多宝丸のそばにいてやる=一緒に死ぬ、が本意の母親とは事情が異なるじゃない?

もっと言えば「寿海要らなくない?」ぐらいの。
お母さんだけじゃ体力的に無理だから男手がいる、ぐらいに見えたよ。
「母親と父親」なんだろうけど。
景光よりも「真の父親」ということで、母と父に救い出され、改めて百鬼丸が人として産まれ直す、ってことなんだろうけど。

百鬼丸を鬼ではなく人に引き戻すのはどろろだと思ってたから、なんかこの、最終2話の展開が私としては残念だった。

母と父が来る前、すでに多宝丸に救われていたし。

あれだけやり合ってたのに突然多宝丸、毒気が抜けちゃったよねぇ。そんなら最初から百鬼丸じゃなく恨むなら父親をやな。

「母を奪われた」と言う多宝丸は、「多宝丸は俺の名だ!」と言う映画の多宝丸と通じるところがある。領民のためと言う根っこには、寂しさがあった。
多宝丸もまた「足りない」、奪われるばかりと思っていた自分が多宝丸から奪っていた。
そこに気づいて百鬼丸は多宝丸にとどめを刺さず、それによって多宝丸も我に返る。
鬼神が再び自身をのっとろうとしても屈せず、目玉を百鬼丸に返す。

ぐりぐり取り出せば返せるのか。てか取り出せるのか……。

多宝丸と陸奥、兵庫の3人が百鬼丸の失われた残り3つを受けるのは、「国のため民のためと正義を振りかざす彼らもまた鬼」ってことの象徴なんだろう。
(それにしても陸奥がいきなり「姉上!」って呼ばれたのびっくりした。ただの美青年だと思ってたよ。あの終盤以前に陸奥が女だっていうの出てきてたっけ?)

23話で琵琶法師が「鬼と仏、どちらにしても人ではなくなる。もがきながら鬼と仏の間を揺れ動くのが人」みたいに言ってて、「ああ、もう答え言っちゃったよ」と思ったけども。

体を鬼に食われているから「化け物」なのではなく。
人に生まれ、人の体を持っているから「人」なのではなく。

わかるけどぉ、最後どろろに救ってほしかったんだよぉ……。

「父親」の立場を寿海に取られた景光はあんな死に方で。
アニメの景光も最後「国を豊かにするため」じゃなくて「天下を取るため」みたいに言ってたね。わざと、百鬼丸に自分を殺させるためにかもしれないけど。
百鬼丸にはずっと背を向けたまま、最後まで向かい合わなかった(よね?)。

寿海にもらった観音像(?)を百鬼丸があそこに置いていくの、「あれ?“父”の形見として今後も大切にするんじゃないの?」と思ったけど、「地獄堂」が「観音堂」になるってことなのかなぁ。

しかし醍醐家みんな死んじゃって醍醐領はどうなるんだろう。農民が武力によらない国を作るとしてもまだそれにはずいぶん時間が……。朝倉も攻めてくるのでは。金で解決するのかな……。


で。
「どろろと百鬼丸、別れちゃうのかよ!」とがっかりした後引き続き昭和版の『どろろ』最終回を見たら。


やっぱり最後別れちゃってた!
もっと容赦なく、百鬼丸にとっては希望なく、別れちゃってた!!!
えええええ……。

原作コミックの感想にも書いたけど、手塚治虫自ら途中で「なんとかギャグアニメに」と言ってきたとかで、2クール目からは出てくる妖怪がコミカル。

原作にかなり忠実な1クール目はカット割りとか音楽、効果音、素晴らしくて、火袋がイタチと対峙する場面や妖刀ニヒルの回などとても見応えがあって、なんだかやけに合理的でどこか説教くさくなってしまった新アニメよりも昭和版の方が好きだな、と思えるほどだった。

路線変更で少しコミカルになってもそれはそれで面白かったんだけど、最終回、いかにも「打ち切りになったので全部いっぺんにやります」的なすごい駆け足詰め込み展開

どろろと百鬼丸が立ち寄った村では一揆の計画の最中。百鬼丸の腕を見込んで助太刀を願う農民たちに(手から刀出てくる百鬼丸を怖がりもせず用心棒として雇おうとする農民たちなかなか肝が据わってる)、「俺はまだ妖怪を倒さなくちゃ」と百鬼丸はどろろを置いて行ってしまう。

「全部倒したら、きっと戻ってきておくれよ。男と男の約束だよ」とどろろが言うと、百鬼丸は「男と男の約束か(フッ)」とひとりごちる。
百鬼丸はすでにどろろが女の子だって知ってるから。

で、一揆に参加するどろろと妖怪退治をする百鬼丸の姿が並行して描かれて、どろろと農民たちは醍醐の軍に囚われ、百鬼丸の方も「最後の妖怪は醍醐景光だ!」というお告げを受けて醍醐の屋敷へ。

「仕官させてくれ」と言う百鬼丸に、「ならこいつを斬れ」と景光はどろろを連れて来させ、どろろと百鬼丸は再会。「俺の刀は女子どもを斬るようにはなってない」と百鬼丸は苦渋の拒絶(どういうつもりで仕官を言い出したのか、ちょっとよくわからなかった)。

「できぬならわしが!」みたいに景光が百鬼丸を斬ろうとしたところへ景光の妻(つまり百鬼丸の母)が飛び出してきて我が子を守り、景光を説得しようとするもあえなく返り討ち。

百鬼丸は「どろろ、おまえが母になる時には、俺の母親のような悲しい母にはなるな」などと言います。「ええっ、おいらが母親!?」「おまえが女だってことは知ってるんだ」みたいな。

で、再び地獄堂の鬼神たちに「あいつを食わせたのは間違いだった。自分自身を食わせるべきだった。俺の体をやるぞ!」とかなんとか言って魔道に落ちた景光を百鬼丸は斬り、二人を呑み込んだまま地獄堂は焼け落ちる……。

焼け跡でどろろは百鬼丸の名を呼ぶんだけど、百鬼丸は「俺はもう誰とも会いたくねぇんだ。おまえは幸せになれ」とかもごもご言ってひっそりと去って行く。

めちゃめちゃ寂しそうな背中で。

どろろは、百鬼丸が死んじゃったと思ったみたいで、農民たちに「いつまでも泣いてても仕方ない。武士もいなくなったし村を再建しなきゃ」と促され、それ以上百鬼丸を探そうとはせずに「おいら、兄貴の分も幸せにならなきゃ」とか言ってルンルン歩いていく。

えええええ……。
そんな終わり方……。

新アニメ以上に容赦ないジャマイカ(´・ω・`)

昭和版アニメにはずっと子犬の「ノタ」ってキャラクターがマスコットみたいに二人の旅に付き従ってて、最後どろろのところにノタが戻ってきた時、「ノタが“百鬼丸は生きてる!”ってワンワン言いながら引きずってってくれるのかな」と一瞬期待したんだけど、それもなく、ただどろろとノタが「新しい明日に向かって元気に歩いています」みたいなカットで終わる。

どろろ……探して……百鬼丸を、探して……。

最後の妖怪を――父をその手で殺して、せっかく体を全部取り戻したのに、一人寂しくどこかへ消えていく百鬼丸。
なんでこんなことに(´Д`)

これ、当時のスタッフどういう意図で作ったんだろ。
原作でもどろろと百鬼丸は別れて終わってしまうから、それを踏襲しているだけなのかなぁ。
どんな理由であれ父を殺した百鬼丸にハッピーエンドはないってことなのか。

衝撃の最終回だった。


映画『どろろ』を見ていなければ新アニメも旧アニメもまた違った感想を持ったのかもしれないけど、あの「まだ旅は続く」「二人の旅が続く」を見てしまった後では、どちらも「えええええ…」だったよ。

映画の後では、新アニメのどろろはあまりにお行儀が良すぎたというのもある。鈴木梨央ちゃんの声可愛いし、お芝居も良かったけど、「大泥棒を名乗る悪ガキ」という雰囲気は薄かったよね。映画のどろろは大人の女性が演じるがために「悪ガキ」をことさら強調してたんだろうけど。

昭和版の百鬼丸に、あの後なにがしかの救いが訪れますように……。