県立図書館から本を取り寄せてもらう間、1週間ぐらいでさくっと読めて感想を書けそうな本ないかなー、と思い、これを手に取りました。

タイトルはよくよく知っているし、ケストナーさんの名前もよくよく存じているのですが(往年の宝塚の舞台『秋…冬への前奏曲』にも登場していた)、これまで読んだことはなかった……はず。

子どもの時『エーミールと探偵たち』を読んだような気もするんだけど、似たタイトルの全然違う作品だったかもしれない。どっちにしても内容は覚えてない(^^;)


家にあった『講談社少年少女世界文学全集』に、丸々ケストナーさんの巻があったにもかかわらず、手に取らずじまい。ああ、タイムスリップして子どもの自分に「ちゃんと全部読んでおけ!」と言いに行きたい!

……なんてことは置いといて。
『飛ぶ教室』です。
岩波少年文庫版新潮文庫版などいくつも訳書が出ていますが、たまたま図書館で目に止まったのがこの古典新訳文庫版でした。

「すぐ読める」ものを探していた私にぴったりの、本文217ページ。目次が数ページあるので実際の本文はさらに短く、207ページほどです。

最初の2章は「まえがき」になっていて、「こんな暑い時期にクリスマスの話を書くなんて」という嘆きから始まったりします。「無理だ」という著者を、母親が「8月でも寒いところはどこかしら」と雪山の見える避暑地へ送りだす。

読者としては「どこまで本当なんだろ?」と思ってしまいますが。

まえがきの中で、お話の登場人物ジョニーの身の上話が語られるのも斬新。本文でもジョニーの過去に言及があるのかと思いきや、本文は「ジョニーがどういう境遇かは読者の皆さんも知っているでしょ?」という前提で話が進むんですよね。

ええっ、そんな小説の語り方、有りなの……。

で、そのジョニーなんですけど。
4歳で親に捨てられます。
母親はジョニーと父を捨てて出て行き、父親はジョニーを一人でハンブルク行きの船に乗せるのです。アメリカからドイツまでの船に、4歳の子どもをたった一人で!

「港におじいちゃんおばあちゃんが迎えにきますから」と頼まれ、船長はジョニーをハンブルクまで連れていってくれますが、そこには迎えなど誰もいない。
父親はただ、息子を厄介払いしたかっただけ。

幸い船長がいい人で、その後もジョニーの面倒を見てくれたんですけど――可哀想すぎますよね。何も海の向こうにまで捨てなくたって……。

船長さんとその妹の庇護を受け、やがてジョニーはギムナジウムに入学。たくさん本を読み、物語を書く少年に育ちます。『飛ぶ教室』というのは、ジョニーがクリスマスの出し物として書いたお芝居のタイトルです。

でもそのお芝居の話はメインではない。どんなストーリーなのかもよくわからない。
お芝居の練習風景含め、クリスマス前のギムナジウムの日常が、“メイン”です。

ギムナジウムの5年生になったジョニー。

ギムナジウムというのは、9年制の中高等学校のことだ。大学進学予定の子どもが、4年間の小学校をすませて10歳で入学するのだが (P19)

と、まえがきで紹介されています。
10歳で入学ということは、5年生のジョニーは14~15歳ってことかな。今の日本だと中学2~3年ぐらい。
なんとなく、本文読んでるともうちょっと小さいような、小学6年生ぐらいなイメージを持ってしまうんですけどね。
メインキャラとなるジョニーとその友人4人は寄宿生で、室長の「9年生」も出てくるんだけど、9年生ということはもう18歳で……うーん、行動がガキっぽく思えるのは私があまりに年を取ってしまったからなのか……。

ともあれ、実業学校の生徒と「伝統の」喧嘩をしたり、大好きな舎監のベーク先生(通称“正義さん”)とその親友を再会させたり、弱虫と言われ続けてたチビのウーリが一世一代の大芝居を打ったり、子どもと大人のあわいにいる少年たちのなんということもない日常、時にほろりとさせられながら、楽しく読みました。

仲間たちからも“作家”と認められているジョニー、クラストップの成績でしっかり者のマルティン、ボクサー志望のわんぱく大食漢マティアス、「遺伝学の本が面白くて宿題にかける時間がもったいない」と言う読書家のゼバスティアン、そしてチビで弱虫でいじめられっ子のウーリ。

ウーリ、くずかごに入れて吊されるっていういじめを受けるんだけど……いくらチビだからって激しくない!? 中学生をくずかごに入れて教室に吊すって……。

この時授業を受け持っていたクロイツカム先生の反応がなんとも面白い。いじめに気づいているのかいないのか、飄々と、淡々と授業を進めるかと思いきや、ちゃんと「止めない人間にも責任がある」という書き取りをさせたり。

頭ごなしに怒るよりこういう対応の方が効き目ありそう、と思わせます。

でもクロイツカム先生、生徒としてクラスにいる自分の息子に対して、「なかなかすばらしいご両親のようだな」「お父さんによろしく伝えてくれ。これからは息子のこと、ちゃんと注意するように」と言うの、面白すぎる。

生徒たちはみんなこの「当の父親からの伝言」に対して笑うけど、先生本人は真顔で、厳しく
言うって……どんなメンタルの持ち主!?

このくずかご事件で「もう我慢できない!」と思ったウーリは、「自分は弱虫じゃない」ということをみんなに見せるために無茶をして、大怪我をしてしまいます。
ウーリに対するみんなの見る目が変わる中、ゼバスティアンは、「ウーリがしたことは勇敢さの問題じゃない。ウーリは恥を知ってるってだけだ」と言います。

「ぼくって、ものすごい臆病者なのさ。でもね利口だから、誰にも気づかれないようにしてるんだ。ぼくはさ、勇気がないからって、特別に悩んだりしない。恥ずかしいとも思わない。それもまた、ぼくが利口だからなんだ。どんな人間にも欠点や弱点がある、ってわかってるからさ。その欠点を気づかせないようにする、ってことだけが問題なんだよ」 (P149)

なんか、「読書家」というキャラ設定もあってか、ゼバスティアンを他人と思えないところが。さらにこんな風に続いちゃうし。

ゼバスティアンには親友がいなかった。「ゼバスティアンには親友はいらないんだ」と、みんなからずっと思われていた。だがいまは、ゼバスティアンも孤独に苦しんでいることが感じられた。きっとゼバスティアンは、それほど幸せな人間ではないのだ。 (P149)

ジョニーたちはゼバスティアンの親友じゃないの?という気もしますが、マティアスとウーリの関係、マルティンとジョニーのやりとりほどには、ゼバスティアンはみんなと打ち解けてないのかも。
自分の欠点を見せないよう利口に振る舞うには、「距離を置く」というのが肝心ですもんね。必ずしも本心を明かさず、心を開かず、必要以上に他人と関わらず。

長いお話じゃないのにそれぞれの人となりがしっかり描かれてるのがすごいです。

聡明でしっかり者のマルティンも、貧乏ゆえの悲しみが降りかかってきた時にはとても子どもらしい一面を見せるし、「息子を心配して駆けつける両親」を見てジョニーがどう思うのか、落ち着かない気分になったりする。

何か言いたそうなマルティンの様子を察して、「慣れるんだよね」と言うジョニーが悲しい。

「自分の親って選べないだろ。ときどき想像することがあるんだ。いつかさ、両親がここにぼくを迎えにやってくる。で、そのときになってはじめて気づくんだよ。ひとりのままでいられるって、うれしいことなんだと」 (P195-196)

ジョニー……。

マルティンは“正義さん”のおかげで楽しいクリスマスを過ごすことができたけど、ジョニーは帰る家もなく、寄宿舎に一人。年が明けたら船長が迎えに来てくれる、とは言っていたけど、そこまでは描かれずにお話は終わり、「あとがき」に突入。

でもこの「あとがき」で、またジョニーが登場するんです!
2年後のジョニーに向かって、ケストナーさんが「君たちのことを本に書いたんだよ」と言い、ジョニーがその後の友だちのことを少し話してくれる。

ええっ、こんなことやっていいの!?
 「まえがき」にもびっくりしたけど、「あとがき」にはさらにびっくり。いやぁ、なんか、ケストナーさんってお茶目だなぁ。
ジョニーのこと――自分がペンで生み出した少年のこと――、愛しく思ってるんだな。

実の親には捨てられても、船長さんや“正義さん”、そして友だちと出会い、自分の道を歩いて行くジョニー。

「まえがき」には、

どうして大人は自分の若いときのことをすっかり忘れてしまうのだろうか。子どもだって悲しくて不幸になることがあるのに、大人になると、さっぱり忘れてしまっている。(この機会に心からお願いしたい。子ども時代をけっして忘れないでもらいたい。どうか約束してもらいたい) (P18)

と書かれているのだけど、それは「子どもの時の哀しみを忘れず、大人になっても子どもの哀しみに寄り添える人間であってほしい」という意味だよね。子どものまま、子どもっぽい大人になれ、ということではなくて。

子どもの時、「こんな大人がいてくれれば」と思った、そんな大人にならなくちゃ。