『マーダーボット・ダイアリー』に続き、また本を買ってしまいました。
朝、Twitterにお薦めTweetが流れてきて、「角川ソフィア文庫だし、今月の新刊というのでもないし、まぁ最寄りの書店には置いてないだろうな」と思いつつ、その日のうちにウォーキングがてら本屋に寄ったらあったので、「これは買うしかないか」と。

本体だけで1,560円。
税込みなら1,716円。

うぉぉぁぁぁぁ、財布に図書カードが入っていて本当に良かった。

文庫にしてはけっこうなお値段だけれども、それも納得の分厚さ、本文644頁。帯に「名著が復刊」とあるように、もとは講談社現代新書で刊行されていたものなのですよね。
新書の時は「名詞篇」「動詞篇」「形容詞・副詞篇」と3分冊になっていたのを、ぎゅぎゅっと1冊にまとめてある。

そう思えば1,560円は安い!
(値段のことばかり言ってすいません。無職なもので)

「辞典」とあるけれども、内容は言葉にまつわるエッセイのような感じで読みやすく、一つのトピックが4~5頁と短いので隙間時間にちょこちょこ読むのにも向いています。

例えば最初の「兄弟――母系社会の落とし子たち」という項では「五行/兄(え)/弟(と)/甲(きのえ)/乙(きのと)/十干/干支/還暦/本卦がえり/同胞(はらから)/乙(おと)/弟人(おとひと)/四海/四方(よも)/柄(から)/族(やから)/輩(ともがら)」という言葉を説明してあるのですが、これがすごい、流れるように言葉から言葉へと繋がっていくんですよね。

本文書いてから語句をピックアップしたところもあるのかもしれないけど、きっと最初に「兄弟という項目ならこの辺の語句だな」と頭の中に流れができちゃってるんでしょうね。ある言葉からどのように意味が派生し、広がり、繋がっていくか、その関連性をこんなふうにさらりと読みやすいエッセイにしてしまえる森田さんすごい。

元になった新書はおよそ30年前、1987年から1989年の刊行ということで、

“五行”をそれぞれ兄(え)と弟(と)に分けて、甲(きのえ)・乙(きのと)のように言うことは誰でもよく知っている。 (P16)

などとさらっと書いてあったりしますが、今でもみんな知ってるのかな。この本を手に取ろうと思うような人なら知ってるか。

213頁に出て来る「気は心」って表現も、うちの母はよく使ってたけど、今となってはあまり耳にしないというか、そもそも母以外の人が使ってるのを聞いたことがないような。

新明解国語辞典(第六版)によると、「気は心」の意味は
“取るに足りない行為や分量であっても、気持ちが込められていると思えば満足出来ること。”
だけれども、「気=心」とわざわざ言うということは当然「気」と「心」とは別物という意識があるわけで、

“気”は気分・気持ちで、精神や感情のなびいていく傾向だし、“心”はもっと理性的な頭脳の働き、考えたり判断したりする精神活動だ。 (P213)

と森田さんはおっしゃる。

“心”って感情のイメージが強くて、「理性的な頭脳」とは対になるような気もするのだけど、「気」に比べれば「心」の方がしっかりしていると……。確かに「感情」だけが「心」ではないか。

「対になるような気もする」という言いまわしを「対になるような心もする」とは言わないし。
(漱石はよく「気持ち」の代わりに「心持ち」という言葉を使っていたと思うけれども)

“気”と“心”との違い。
気は移り気でころころ変わるのが常、でも「心変わり」というとかなり重い。“気”に比べれば“心”は変わりにくいもの、という指摘になるほど。

「親」ということばは、父でも、母でも、両親共でもかまわないということなのだ。(中略)たとえば「親たち」と複数接尾辞を付けたら、父と母の両方、つまり二親を指すわけではない。 (P25)

という話も「そう言われれば」だし、普段意識せず使っている言葉の「意味範囲」にへぇー!と驚くことしきり。

「人(ひと)」という言葉も、本来「他人」を指すもので、自分自身は「人」に含まない、と。「ひとごと」というのは「他人事」だもんね。

「世」の項に

日本人はどうも自分中心に物を見る癖があるらしい。自分も当然その中の一員であるはずなのに、自分を含めた対象として考えない。それどころか、自分の外の事物ででもあるかのように眺めて、自分との関係でそれを理解しようとする。 (P35)

と書いてあるんだけど、これ、ほんとにね。私自身そうだけど、日本人の「お上(かみ)意識」、色々やるのは「お上」の仕事で、自分たちと「お上」との間には断絶があるみたいな、江戸時代が終わってもまだ国家とか国民というのがピンと来なくて、「国のありようは我々国民次第だ」って思えない、「自分」はどこか外側にいるみたいな感覚。

そのくせ同調圧力が強いのが謎だけれども。

「あなた」にしても「そなた」にしても「彼」にしても、いずれも話し手(つまり自分自身)を中心にしてその人物を把握する語だからである。私から見て“あちらのほうのかた”とは、いかにも自己中心的な発想ではないか。 (P33)

日本語の人称は、直接名指さずに、「場所」をもって示す、ってよく言われるんだけど(「奥方」とか「お殿様」も場所の転用)、その際“自分を中心に見てる”っていうのはあまり考えたことがなかった。

言葉には「ものの見方」が出るんだなぁということを改めて感じます。

「目」の項では

どうだろう、ここらで伝統的な“目の働き”から解放されて、せめて人目を気にせず、障子に目ありなどといじけたり、鵜の目鷹の目で他人のあら捜しをするようなこともしない、自由な世の中とはできないものであろうか。 (P64)

とあったり、巻末に索引はついているものの、森田さんの言葉エッセイという印象がやはり強い。

そのものずばり「言葉」の項では、「リズムをとること」が「よむ」の原義という話が出てきて、これまた「へえぇ」と。だから「歌をよむ」なんですね。
リズムをとることから、「1,2,3」と「数をよむ」ことにもなり、内容を理解するという意味では「顔色をよむ」ともなり。

ことばも、歌も、踊りも、さらには数えたり、歩調を合わせて労働に勤しんだり、形勢をさぐったり、あらゆる人間らしい知的な行為は根を共通にしていると言っていいのではないか。だから、ことばは決して他の諸行為から切り離された単独の存在ではなかったとみてよい。 (P197)

今まだ「名詞篇」部分しか読めてないんですけど、名詞篇を締めくくる一文 「言語とは何と面白いものではないか」(P220)を噛みしめさせてもらっています。

同じく角川ソフィア文庫に入っている「基礎日本語辞典」も手に取ってみたくなるなぁ。