(※ネタバレありまくります。これからご覧になる方はご注意ください)

9月21日に見てまいりました。もう10日ぐらい経っちゃった…記憶ががが。
18日公開だったので、公開後まだ4日目だったわけですがパンフレットは売り切れ、再入荷の予定なしということで。

さすがですねぇ。

事前に「マスクの替えを持っていきましょう」という情報を見ていたんですが、いや、ほんとに、マスクして泣くと大変なことになりますね。
マスクしたままだとなかなかうまく涙が拭けないし、鼻炎持ちとしては涙以上に鼻水が大変になって、鼻が詰まってくるのに鼻水はダラダラするという……。

のっけから汚い話ですいません。
途中、やむなくマスクをはずして鼻をかんだりしてました。映画館の換気を信じて。
まぁ座席は前後左右が空いてる状態、別にみんな大声出してしゃべってるわけでもないので、大丈夫だと思いますが……大丈夫だよね、もう10日経ったし。

『はたらく細胞』の時に予告見ただけでうるうるしてたし、もう最初の「ああ!あの話か!」っていう導入部だけで涙が。

テレビ本編にあった、病気のお母さんが幼い娘に手紙を残すあのエピソード。毎年の誕生日に、50年にわたって手紙を残す、それをヴァイオレットが代筆したあれ。
あのエピソード、本編でもめっちゃ泣かされたけど、あの「幼い娘」が長じて「おばあさん」になり、亡くなったところからこの劇場版が始まるんです。

つまりテレビ本編から50年以上が経った未来。
「おばあさん」の孫娘デイジーが、手紙の存在を知り、自動手記人形ヴァイオレットに興味を持ち、その足跡をたどる。

電話が普及し、読み書きのできる人も増えたデイジーの時代には、もう「ドール=自動手記人形」はいなくなっている。

で、話はヴァイオレットが売れっ子として活躍していた時代に戻って、難病の少年ユリスとのエピソードが語られる。
これが。
あかん。

年端もいかない子どもが死期を悟って、両親と幼い弟に手紙を遺すなんて、そんなん泣くに決まってるやん、無理やん。
ユリス君、最初すごい元気そうだったし、「手紙は遺すけどその依頼は必要なくなる=死なない」んじゃないの?と期待したんだけど、見事に病みやつれて亡くなってしまう上に、その悲しみに浸る間もなく手紙が読まれてしまって……。

ぐえぇぇ。

つらい。

子どもが亡くなるのはあかんわ。
しかも親にあんな手紙遺すとか、おばちゃん涙ボロボロやがな。

なんか、親としてはかえってしんどいのでは?と思ったり、とにかくユリス君がええ子すぎて。
何回も手術して1年も入院してて、だから見舞いに来てくれる両親にはつい反抗的になっちゃって、口では言えない「ほんとの気持ち」を代筆してもらうわけだけど、子どもはそんなに健気にならなくてもいいんだよ、もっと怒って、甘えて、困らせたっていいんだよ、って思っちゃったなぁ。

ユリス君の「最期の時」にヴァイオレットは居合わせることができなくて、代わりにアイリスが駆けつけるんだけど、そのことにも怒らないし。
指切りをして約束してたのに、ヴァイオレットはもう一通の依頼を受けないまま遠くにいて、でもユリス君は怒らないし、それが「大切なあの人に会うため」だと知って喜んでくれたりする。

なんていい子なんだ、私なら「自分だけ!僕はもう死んじゃうのに!」ってなるわ(つくづく心が狭い)。

「もう一通の依頼」は、お見舞いを拒絶してずっと会わずじまいになっていた幼なじみの子に対する手紙だったんだけど、アイリスはその手紙を書けず、普及し始めていた電話を病室に引っ張ってきて、直接その子とユリスと、声で会話させる。

ベネディクトも奔走して、相手の子どもが電話を使えるようにがんばって、「涙なくしては見られない友だちとの最後の会話」が繰り広げられ、おばさんの涙腺は決壊しまくりだったんだけど、よく考えたらあの子を直接病室に連れてきた方が早かったのでは?
あの子、別にそんなに遠いとこに住んでたわけじゃないし(一人で病院に様子を見に来たりしてた)、ユリスは感染症でもなさそうだったし、そりゃ最期の時に家族でもない人間を病室に入れるのは難しいかもしれないけど、それを言ったらアイリスは入ってるし――。

映画見てる時は「電話に仕事を取られる!」と言っていたアイリスが「電話も役に立つ」って思って、「なるほどな」って感じたんだけど、今冷静に振り返ると「直接呼んできた方が早くね?」と。

面と向かっては言えないことも手紙(や電話)でなら言える、というお話ではあるし、まぁ、大事な友だちとはいえ病みやつれた末の「いまわのきわ」を子どもが目撃するのはなかなかキツい体験ではあるか……。

で、その時ヴァイオレットは「急いで帰っても3日ぐらいかかる」島に、ギルベルトを訪ねていたのね。

生きてたのかよー、ギルベルト。

んー、ギルベルトとの再会のくだりではあんまり泣けなかったです。ギルベルト、面倒くさい奴だったし、なんか、「死者からの手紙」と「死者(生死不明者)への手紙」で対になってるのかな、と思ってたから。
ヴァイオレットがずっと綴っていた想い、届かないかもしれない、でも想わずにはいられないせつない願い。「いつか届くかもしれない」という希望、可能性のままの方が、お話としては美しかったのでは。

もちろんヴァイオレットちゃんのためにはギルベルトが生きててちゃんと会えてめでたしめでたしになった方が良かったけれども。

でも最後、ヴァイオレットがもう島を離れるべく船に乗り込んでて、出港して、慌ててギルベルトが追いかけていくとこ、崖みたいなとこを転がるように走ってくギルベルト、「ジブリじゃないんだから」って感じだったし、いくらヴァイオレットの耳や目が研ぎ澄まされててもあの状況で声が聞こえるのか、姿が見えるのか?って思っちゃうし、いくらヴァイオレットが鍛え上げられてても着衣泳は大変なんだぞ、とかよけいなことばかり考えてしまったので、ギルベルトが駆けだしたシーンで終わって、「あとは皆さんの想像に任せます」で「その後の郵便社の様子」に切り替わっても良かったんじゃないかな。

水面の表現とか映像はとてもきれいだったけど、2人が言葉を交わすまでのタメも長くて、「これ全部描いてしまったらかえって野暮では」と思ってしまいました。

まぁ、要は私がギルベルトのことあんまり好きじゃない、ってことなんでしょうけども。
ギルベルトよりは兄ちゃんの方が好みですね。ディートフリート兄ちゃん、なかなかのご活躍でした。なんか、兄ちゃんもヴァイオレットのこと好きになってない?大丈夫?って思ってしまった。
あの人結婚しそうじゃないし、将来的にヴァイオレットと同じ瞳の色をした男の子とか引き取って跡継ぎにしちゃうのではとか(『はいからさんが通る』の編集長パターン)。

ギルベルトの「不在」を通して繋がるディートフリートとヴァイオレットの、船でのぎこちない会話。「いない」からこそより大きな存在として照らし出されていた気がするギルベルト、生きていたとはおシャカ様でも知らぬ仏のギルベルト。

再会時に18歳のヴァイオレット、ギルベルトと別れた当時は14歳ぐらいでしたっけ? あの「愛してる」は家族としての愛じゃなくて異性としての愛だったの?と思わないこともない……。美しく成長し、戦闘人形ではなく1人の女性としての自我を持ち輝いているヴァイオレット、その噂を聞けば聞くほど「自分はもう関わらない方がいい」と思ってしまう気持ちもわからないではないけど、でも面倒くさかったなぁ、ギルベルト……。

あとホッジンズさんがやたらに過保護で、あの過保護がなければいきなりヴァイオレットが突撃して再会できてたじゃん、とか。

原作でもギルベルトは生きててハッピーエンドだそうで、私も本編見てる時は「実は生きてる、ってラストなのかな」と期待して見てた気がするし、ヴァイオレットちゃんの願いがかなったのは良かったです、うん。

50年以上経った後のデイジーが狂言回しだから、「めでたしめでたし」の後のヴァイオレットの話も語られて……。
ディートフリート兄ちゃんのその後が気になるなぁ。兄ちゃんも幸せになったかなぁ。