先日、この『仙境異聞』の内容を紹介したTogetter(『江戸時代に天狗にさらわれた人のお話が面白すぎて云々』)を見て、「ほぅほぅ、そりゃ面白そうだ」と早速図書館で借りてきたんですけど。

著者、平田篤胤なんですよね。
江戸時代の人。
歴史上の人物。

この岩波文庫版は「より多くの読者に読みやすい形で提供することを意図したものである」となっていて、ある程度段落分けもされていて、まぁ確かに読めないことはない、意味もだいたいはわかるんですが。

読むのにめっちゃ時間がかかる!

たとえば冒頭の文章はこんな感じ。

文政三年十月朔日夕七ツ時なりけるが、屋代輪池翁の来まして、山崎美成が許に、いはゆる天狗に誘はれて年久しく、其の使者と成りたりし童子の来たり居て、彼の境にて見聞きたる事どもを語れる由を聞くに、子のかねて考へ記せる説等と、よく符合する事多かり (P9)

『源氏物語』みたいながっつり古文ではないので、がんばれば読める。がんばって40頁くらいは読んだんです。でもちゃんと現代語訳が出てると知り、そっちを借りてきちゃいました。

角川ソフィア文庫版『抄訳仙境異聞』。



こちらはトピックごとに章も分けられ、大変読みやすい。うん、原著の方、古文というだけでなくだらだらと切れ目なく続いていくところがしんどいんですよね。キリをつけにくくて。

現代語訳の方は抄訳で、図版を入れて245頁と薄く、すぐ読めました。でもまぁ、面白いところは全部Togetterにまとめられてた感じ(^^;)

仙童寅吉がもともとサイキックだった話とか、幼い頃から癇の強い子で、ちゃんと成長しないのではと思われていた話とか、初めて「山人(やまびと)」に連れていかれた時は、口周り12センチほどの小さな壷に入って空を飛んでいったとか。

その壷の中に敷物から何からすべての道具が収まり、「山人」本人も入ってしまい、見ていた寅吉も「おまえもこの壷に入れ」と言われ、最初は気味が悪くて断ったけど、お菓子に釣られてついてっちゃったと。

で、7歳から11歳までの5年間、「山人」の弟子としてあちこちの山をめぐり、修行。篤胤と出逢ったのは15歳の頃で、15歳だけど「13歳ぐらいにしか見えなかった」。
寅吉くん、「寅の年、寅の日、寅の刻に生まれたから寅吉」という名前だそうで、なんというか「いかにも」っぽい属性がありすぎる。

現代語訳のタイトルは「天狗にさらわれた」となってますが、本文読むと寅吉が「師」と仰ぐ「杉山僧正」やその弟子たちは、厳密には一般人が思い描く「天狗」とは違います。
寅吉によると天狗とは、「何によらず鳥獣の年を経たものがなることもある」「人の死霊がなることもある」けれど、

世の中では、こうした種々のものの仕業を、すべて天狗のわざと言うのです。我が師のような存在をも、世には天狗というのでとりあえず天狗とは言っていますが、実は天狗ではありません。山人というものです。 (『天狗にさらわれた少年』P204)

ということらしい。
ちなみに寅吉の師、杉山僧正は4千歳に近いそう。神に近い神通力を持つ杉山僧正たち「山人」はあちこちの山を周り、山の神々に一般人がかけた願いを成就するべく奔走しているそうな。

で、天狗の中には悪いものもいて、「僧侶が天狗になるとだいたい邪悪」とか言ってて、寅吉は仏道と僧侶が大嫌いなんですよね。「山人」たちは「山の神」に近い存在のようだし、圧倒的に「仏ではなく神を崇める」人間。

篤胤が寅吉に心酔してしまったのもそこで、「神を研究し、神道を広めたい」と思っていた篤胤の目的に、寅吉のありようがとてもよく合致していた。
篤胤は「幽界」の実在を信じていたので、「山人とともに“地上とは違う神に近い世界”で修行していた」寅吉は、「幽界というもう一つの世界が存在する生き証人」と思われた。

なので最初寅吉が身を寄せた山崎美成と篤胤とで、「寅吉の取り合い」になったりします。寅吉を尋ねて美成のところへ行くと美成の母が出てきて「留守だ」と言うんだけど,実は奥に寅吉がいるとかね。

何やってるの、江戸の知識人たち。

「江戸」と一口に言っても寅吉が篤胤の前に現れたのは文政三年、西暦で言うと1820年。3年後の文政六年にはシーボルトが日本に来て、勝海舟が生まれている。ペリー来航はだいたい30年後の1853年。
つまり、そこそこ幕末なんです。

篤胤は「神道を研究して広めようとしている」国学者なんですが、彼がその実在を信じる「幽界」というのは、子安宣邦さんの解説によると

記紀神話における「顕事/幽事」の概念によって国学者たちが発展させてきた顕幽二元論的な世界のとらえ方 (『仙境異聞』解説P425)

記紀神話のもつ政治的な文脈からすれば、「顕界」は皇孫としての天皇の統治に人々が服する形で構成される「葦原の中国」というこの現世(うつしよ)であり、「幽界」は皇孫の命に国譲りしてこの世を退いた大国主命が主宰する神霊たちの世界、すなわち幽世(かくりよ)であり、「顕界」を背後にあって支え、見守る世界として位置づけられる。 (『仙境異聞』解説P425)

というものだそう。
よくわかんないけど、篤胤が信奉する「神」はほんとに「天皇に通じる神」であり、幕末の「尊皇攘夷」とか、維新後の「廃仏毀釈」「国家神道」に繋がるものなんだろうと。

寅吉が篤胤の質問に答えて開陳する様々な知識の中には、Togetterにまとめられている通り、「へぇー!すごい!この時代に!」って思うものも多いのだけども、寅吉の「仏教嫌い&神様アゲ」の側面を見ると、「篤胤が彼を利用して神道を広めようとしているのでは?」と邪推してしまう。

実際当時の人も同じことを思ったらしく、「仙童」ともてはやされ、大名にまで引見された寅吉、やがて

しかし異界からの帰還者寅吉事件はやがて篤胤への、すなわち寅吉の背後の、いわば操り人とみなされた篤胤への誹謗・非難へと転化していく。 (『仙境異聞』解説P411)

ということになったそう。

まぁねぇ、誰でもそう思うよねぇ。篤胤は無邪気に寅吉の言葉を信じて、難癖つけてきた知り合いに「なんでそんなこと言うんだ、納得いかん」とか書いてるんだけど、荻野梅塢って人の言い分、もっともな気がする。

「彼(※寅吉のこと)がこれまで、神仙に仕えたと言ってきたことは全て妄説です。つらつらと考えますに、彼は頭脳明晰の者ですから、あちらこちらを徘徊しながら聞いてきたことを、さも幽境にて見聞きしたことのように言いふらしていることは間違いありません」 (『天狗にさらわれた少年』P83)

荻野くん、「私も神童だともてはやされてた。子どもの頃は目に見えないものの状態を言い当てた」って「ソースは俺」理論かますのがなかなかすごいです。
でもなんか、「7歳までは神のうち」って言葉もあるし、感受性の鋭い子どもが「大人には見えないものを見る」っていうの、ありそうですよね。

寅吉が山の修験者とともに修行し、彼らから色々な知識を授かったことはきっと本当なんだろうけど、自分の言うことを信じてくれる篤胤に気に入られようとして「話を盛ってる」部分もあったんじゃないかなぁ。無意識的に迎合してたというか。

現代語訳の方の「はじめに」で、訳者の今井さんはズバリ

おそらく寅吉は、常陸国の山で修行をともにしていたという人々や、江戸の知識人たちとの交流を通して、広範にわたる知識を手にしていたものと思われます。 (『天狗にさらわれた少年』P12)

江戸の知識人たちは、自分たちの知識が寅吉によって再利用されていることには気づかず、彼の創り出すその世界の見事さに魅了されてしまったのです。こうした成立背景を持つ『仙境異聞』ですので、その内容を真正面から信じるわけにはいきません。 (『天狗にさらわれた少年』P13)

とおっしゃってます。

もちろん荻野くんに「妄言」って言われた寅吉は血相変えて憤るんだけど、「仏教嫌い」だったはずの寅吉、その後結局出家して僧侶になるらしく。
それは篤胤自身が『気吹舎日記』の文政十一年七月の記事に書いていることで、文政三年の篤胤との出会いからおよそ八年、寅吉にどんな心境の変化があったのか。

とはいえ、もともと寅吉、篤胤に会う前には「師の命令」でお寺で修行してたこともあったらしく(もしかしてそこで嫌な目に会って仏教嫌いになったとか?)、仙童として有名になって、だいぶ世間一般の人間とはズレている彼が市井で生きるには――山を下りて生きるには、寺に入るしかなかったのかも。

篤胤に会って以後も山へ――師のもとへ行ったりしているみたいなんですけど、「山人」にはなれなかったんでしょうかね。4千歳という話の杉山僧正、「山人」は私たち「普通のホモサピエンス」とは違う種類の生き物だったりするのかな。
一方で、

寅吉の師杉山々人は現世の「天子、将軍」を崇敬する。 (『仙境異聞』解説P423)

って書いてあったりして、ほんとにこう、篤胤の「顕幽二元論」に合致しすぎなんですよねぇ。超人的でありながら、現世の秩序を肯定し、見守る「山人」たち。

寅吉の言葉を頭から「妄言」と決めつけるのもどうかとは思うけれど、人はやっぱり自分の見たいものを見、聞きたいものを聞いてしまうもので、篤胤が「自分の聞きたいものだけを聞いてしまった」ということもあるんじゃないかなぁ。
篤胤が書き残したものだけを見て、「すべてがこの通り本当にあった」と信じるのはなかなか難しい。

でももちろん、寅吉が篤胤の予想に反した答えをすることもありました。
たとえば「彼の境に男色はないのか」と訊かれた寅吉、「私のいた山などにはそうしたことは決してありません」と答えてます。
で、このくだりに関して篤胤、

それは、世の中で天狗に誘われたというものの多くが少年であることの理由が、もしかして僧侶の変身した天狗などが、僧侶であったときの悪しき性癖が治まらず、その用に伴わせるのではないかと、常日頃から疑っていたためである。 (『天狗にさらわれた少年』P211)

とただし書き。「自分の口からは聞けなかったので他の人に聞いてもらった」っていうのも可愛いというかなんというか。

「山で修行させる」が目的なら、当時の「山」――特に神と崇められるような山は女人禁制だったでしょうから、そりゃ女の子は連れてかないだろうと思ったりはします。
「かどわかして売り飛ばす」ならむしろ女の子の方が「神隠し」に会いそうですが、行方不明のままではなく「戻ってくる」からこそ「天狗にさらわれた」という話になるのでしょう。

果たして天狗は――4千歳近くも生きる「山人」は、実在したのでしょうか。