『マハーバーラタ』と並ぶインドの二大叙事詩『ラーマーヤナ』。
『マハーバーラタ』の方は上村勝彦先生による原典訳を昔少し読んで、『ラーマーヤナ』も
東洋文庫の新訳版が出た時にとても気になっていたのですが、全7巻、なかなか手を出せず。

そしたら先日図書館の新刊コーナーにこの本が。
上下二巻、「物語」風に再話してあるものならそんなにがんばらなくても読めるのでは?ととりあえず上巻だけ借りてみました。

インドの神話研究家であり作家であるパトナーヤクさんがイラストもご自身で描いて、章ごとに「他のバージョンではこう」「ここのエピソードに象徴されているのは~」などと解説もしてくださっています。

一つ一つの章は短いので、本文(物語)を数頁読むとすぐ解説ページ。うーん、ちょっと、このスタイルは物語に没頭しにくいかなぁ。
人名も地名も神様の名前も、日本人にはあまり馴染みがないし、端折ってあるところの説明とか、解説があった方がより「深く味わえる」のは間違いがないと思うけど、2頁おきに物語がブツブツ切られてしまうのは……。

まぁ、最後の方はそのスタイルにも慣れてきたけど、時間があるなら一度解説飛ばして本文だけざっと読んで、二度目に解説もしっかり読む、というのがいいかも。

あと、登場人物の一覧表とか相関図がないので、誰が誰だかなかなか覚えられないのがつらいです。ラーマにラクシュマナにラークシャサにラーヴァナ。「ラー」で始まる単語が多すぎる(・_・、)

冒頭に「物語の作者の覚書」として、『ラーマーヤナ』の位置づけや、年代や地域によって様々なバージョンの『ラーマーヤナ』が存在することが示されています。
叙事詩であり、もとは吟遊詩人による口誦文学だった『ラーマーヤナ』、紀元前2世紀にヴァールミーキによるサンスクリット語の『ラーマーヤナ』が成立し、通常日本で『ラーマーヤナ』と言うとこのヴァールミーキ版を指すと思われます(東洋文庫版もヴァールミーキのものの邦訳)。

もちろん紀元前2世紀とかの話なので、その「ヴァールミーキ版」にも色々なバージョンがあるわけですが、インドのみならずモンゴル語やチベット語でも記録があるらしく、へぇーと思います。
かつてのタイ王朝の首都アユタヤが『ラーマーヤナ』に出て来る都市アヨーディヤーにちなんでいたこと、国王がラーマにちなんで名付けられていたこと。

で。

「ラーマ」というのはこの物語の主人公。そしてその妻シーターがヒロインで、この本の原題は「Sita」。むしろシーターこそ主人公、という考えなのでしょうか。

子どものいなかったヴィデーハ国の王ジャナカが畑の畝で拾った女の子、それがシーター。

この子は王の種から生まれたわけではない――どうしてこの子が王の娘になれるのか? するとジャナカは、父となる資格は種でなく心から芽生えるものだ、と言った。 (上巻P39)

ジャナカ王、素晴らしいな。

一方ラーマはコーサラ国の都アヨーディヤーを治めるダシャラタ王の息子。
最初、ダシャラタにはシャーンターという娘しかおらず、息子がいなかった。なので二人目の妃カイケーイーをめとり、さらにスミトラーという第三王妃まで迎えたけれどやっぱり子どもが生まれない。

そこで祭式を執り行い、生じた霊薬ハビスを三人の妃が飲んでめでたく息子が生まれます。この時ダシャラタは

霊薬の半分を尊敬する妃カウサリヤーに、半分を愛する妃カイケーイーに与えた。カウサリヤーはスミトラーも無視してはいけないと思い、自分がもらった霊薬の四分の一を彼女に与えた。カイケーイーも同じようにした。 (上巻P49-P50)

カウサリヤー偉いなぁ。
というわけでその偉いカウサリヤーから生まれた息子がラーマ。カイケーイーはバラタを生み、スミトラーはラクシュマナとシャトルグナという双子を生みます。
二人の妃から霊薬をもらったから双子が生まれる、ってことなんですかね。
ともあれダシャラタ王は一気に四人の息子を得、聡明なラーマを一番のお気に入りにします。

ラーマは「長子」とも見なされるようで、その後ダシャラタ王はラーマに王位を譲ろうとするのですが。

「最愛の妻」はラーマの母ではなくバラタの母カイケーイー。しかもカイケーイーと結婚する際、ダシャラタは「彼女の息子を王とする」と約束していたのですね。
カイケーイーの乳母マンタラーがカイケーイーを焚き付け、その約束をダシャラタ王に思い出させた結果、戴冠式目前だったラーマはアヨーディヤーを逐われ、隠者として14年間森で暮らすことになります。

ちょっと話が前後しますが、追放される少し前にラーマはシーターと結婚していました。ラーマだけでなく、弟たちも。
ラーマとシーターは「シヴァの弓」を縁に、互いに惹かれあって結婚するんですが、シーターの父ジャナカ王が「うちにはあと3人娘がいて、あなたんとこにもあと3人息子がいる。せっかくだから全員結婚させちゃわない?」と提案、ダシャラタ王も「いいね!」と応じて、4人の王女と4人の王子、全員結婚することになります。

4人の王子がそれぞれ花嫁を得、アヨーディヤーが沸き立ったのも束の間、ラーマの追放劇が勃発。妻シーターと弟ラクシュマナも彼に付き従い、都は一気にお通夜状態、ああ、どうしてこうなった。

「私の息子を王位に就けるべき!」というカイケーイーの言い分に、ダシャラタ王は反論できない。なぜならそれはかつて自分自身が彼女に約束したことで、「ラグ王家の後裔として、私は常に約束を守る」(上巻P157)からです。

そしてまた、ラーマも王家の名誉を守るため、怒りも反論もせず、冷静に追放を受け容れます。

ダシャラタは崩れ落ちた。ラーマが抵抗したなら、説明を求めたなら、怒りのかけらでも見せたなら、少しは救いを感じられただろうに。 (上巻P161)

それな(´・ω・`)

前者(マハーバーラタ)の物語の主人公は王を擁立する者であり、規則を迂回することができる。
後者(ラーマーヤナ)の物語の主人公は王であり、規則を厳格に守らねばならない。
その規則がどれだけ嫌悪すべきものであっても。
 (上巻P6)

解説部分で著者は

彼は感情でなく、王子に求められる模範的な社会的行動に基づいて決断を下した。(中略)規則に従う者は従順な息子でも愛する夫でもない。単に規則に従う人間だ。ある意味、この物語は、規則や制度が人間よりも重んじられる社会制度に対する古代からの告発だと感じられる。 (上巻P162)

と言ってるのですが、ラーマが冷静に追放を受け容れたのは、「王というもの(地位や権力)にたいして意味を見出していないから」とも見えます。

宮殿を辞し、森へと出発しようとするラーマを群衆たちが引き留めようとした時、ラーマは彼らにこう話しかけます。

お前たちは、王妃やその息子や王に怒っているのではない。人生が予想通りに展開しなかったことに怒っているのだ。お前たちが当然視していた世界は、一瞬で崩壊してしまった。心を広げ、苦痛は自分の思い込みや期待から生まれるということを理解せよ。 (上巻P171)

森で苦行者として生活する前から、ラーマは精神的に「苦行者」だったんですよねぇ。感情よりも理性を重んじ、諸行は無常、出来事に一喜一憂しても無意味だと心得る人間。

森に入ってからも、

すべての物差しは、人間がいい気分になるために人間が生んだ幻だ。自然には被害者も悪者もいない。いるのは捕食動物と餌食、食べ物を探すものと食べ物になるものだけなのだ。 (上巻P222)

ラーマは言った。「出来事は出来事に過ぎない。それに良いとか悪いとかの価値を付加するのは人間だ」(中略)ラーマは言った。「すべてのことは、あとになってから初めて、良かったか悪かったかがわかるのだろう」 (上巻P232)

と言ってて、まじラーマすげぇな、達観しすぎだな、って感じ。
紀元前2世紀でもうこういう考え方がしっかり叙事詩として語られてるのすごいし、それを言うのが年寄りの隠者などではなく英雄たる主人公、というのがほんとインドの人すごい。

ラーマが都を出ていくのを見送りながらダシャラタ王は「今私が死んだらアヨーディヤーはどうなるのだ?」と嘆くのですが、これに対するラーマの母、カウサリヤーの答えも見事。

「どうもなりません」カウサリヤーは悲しげに言った。「太陽は昇ります。鳥はさえずり、都はにぎわいます。世界は私たちを必要としていないのですよ、あなた。私たちが世界を必要としているだけです。(中略)幸福や不幸は訪れ、また去って行きますが、それでも人生は続くのですから」 (上巻P173)

王位を継ぐ寸前だった息子が別の妃の奸計によって都を逐われる、その背を見ながらこんなこと言える母親、さすが「最も尊敬される妃」、素晴らしすぎる。

この本は著者による「再話」で、元の(紀元前に成立した)叙事詩と一言一句同じわけではないと思いますが、それでもこういう考え方、「哲学」が二千年以上昔に成立し、人々の間に流布していたのすごい(すごいしか言ってない)。

ラーマとその妻シーター、弟ラクシュマナの3人による森での生活は13年続き、いよいよ最後の14年目、都へ戻れる期限を目前にして、なんとシーターがさらわれてしまいます。

さらったのはランカーの王ラーヴァナ。彼はラークシャサと呼ばれる存在で、作中でラークシャサという種族(?)は「人間ではない」「蛮族」的な扱いをされているのですが、ちゃんと王国もあって、ランカーは海の真ん中にある黄金の都。ラーヴァナ自身は「10個の頭と20本の腕」を持つ怪物ですが、その妹であるシュールパナカーは少なくとも見た目は人間ぽくて、普通にラーマやラクシュマナに欲情して「私の愛人になって♡」と迫っています。

「ラーヴァナは卓越した占星術師、医師、音楽家、舞踏家。そしてヴェーダ、タントラ、シャーストラ、種々の神秘的な科学の知識を備えた優れた学者だった」とも書かれていて、「ラークシャサって一体???」となります。

まぁ「神話」に属するようなお話なので、人も神も魔族もそんなにはっきり分かたれてないのかもしれませんが。

ともあれシーターはラーヴァナに拉致られ、彼の都ランカーに運ばれてしまいます。それを出迎えるラーヴァナの妻マンドーダリーが格好いい!

「宮殿に滞在する女は皆、他の男と結婚している人でも、自由意志でここにいるのです。ここは喜びの館です。泣いている女の人を入れないでください。その人は悪運をもたらします」(中略)「偉大なるラーヴァナが、その人を魅了し、誘惑し、自分の意志で中に入るようにさせることもできないのですか?」 (上巻P258)

マンドーダリーがしたことを理解したのは、シーターただ一人だった。マンドーダリーは宮殿における自分自身の立場を守るとともに、シーターの自由を確保してくれたのだ。 (上巻P258)

「ラーヴァナが愛しているのは自分1人だけ」と喝破したり、マンドーダリーほんとに格好いいんですが、「元は雌蛙」らしい(^^;)
かつてラーヴァナが女神パールヴァティーを望んだ時、彼女が自分の身代わりとして人間の姿に変えた雌蛙、それがマンドーダリーなのだとか。

また、かつてマンドーダリーが誤って聖仙たちの血を飲み、生まれた娘がシーターかもしれない、という話も出て来ます。その子は「ラーヴァナに死をもたらす」と予言され海に捨てられたのですが、シーターは「畝から拾い上げられた子ども」、実の親が何者かはわからないのです。

シーターはその聡明さでランカーの女達の親愛と尊敬を勝ち取り、彼女の作ったボードゲームはランカー中で流行って「シーターは存在するだけで、ランカーを誰もが楽しく笑う遊び場に」(上巻P277)変えます。
(ますますラークシャサはごく普通の人間たちなのでは?という気がしてしまいますが)

マンドーダリーは言った。「あなたはシーターの心を勝ち取ろうとなさいました。でも結局は、あの人が皆の心を勝ち取ったのです。この素敵な娘さんを解放してあげてください」 (上巻P277)

マンドーダリーほんと素敵。
でももちろんラーヴァナは「だが断る!」――というところで上巻はおしまい。

さてシーターの運命や如何に。そしてラーマはアヨーディヤーに戻ってめでたく王になるのか?続きは下巻の感想で。


あと、これは物語とは関係ないんですが、189ページの上段部分に突然「小磯先生からの補足です」って書いてあって超気になりました。他のページでは「第三巻 追放」と巻名が書かれているだけの部分なのに突如登場する小磯先生。訳者は上京惠さん、監訳は沖田瑞穂さんで、どこにも小磯先生はいないのですが。


監修する際に「小磯先生からの補足です」と赤ペンを入れたのがそのまま印刷されちゃったんですかね。ググるとヒンディー語と比較宗教学を専門とされている小磯千尋先生という方がいらっしゃるので、その方のことなのかも。

気になる(笑)。