はい、やっと下巻読みました。上巻の最後でラーヴァナに拉致されたシーター。囚われの身になっても毅然として、その聡明さで現地の人々の心を捉えてしまったシーターですが、もちろん夫たるラーマは必死に彼女の行方を捜しています。

そこへ現れる助っ人ハヌマーン。

ハヌマーンは猿族ヴァーナラに属す存在なのですが、めちゃくちゃ強くて賢くて、不老不死だったりします。
シーターが拉致されているラーヴァナの都ランカーは遠い海上にあり、普通の人間はそう簡単にそこへ行くことができません。しかし強大なハヌマーンはその体を巨大化し、空へ飛び上がって短時間でランカーに到着してしまうのです。

ハヌマーンの頭は空を超え、星たちは彼の頭の周りをめぐるべきか太陽の周りをめぐるべきかと戸惑った。(中略)ハヌマーンの重みに耐えられなかった海辺の山々からは液体金属がにじみ出始めた。 (下巻P79)

描写がすごいなぁ、と感心してしまいますが、ともあれハヌマーンはランカーに渡り、無事シーターを見つけます。そしてシーターに語る形で「ラーマがどれほどシーターを探していたか」「私(ハヌマーン)がどういう経緯でここへ来ることになったか」が読者にも開示されます。

その賢さでシーターを感嘆させるハヌマーン。

「知識とは、水に浮かぶ丸太のようなものです。悲しみの海で、我々が溺れずにいられるよう助けてくれるだけです。岸を見つけるためには、自分の脚で水を蹴って泳がねばなりません。他の人が代わりに泳いではくれないのです」 
これを聞いたシーターには、ハヌマーンがヴァーナラなのか、自由に姿を変えることのできるシッダなのか、あるいは人生について鋭敏な理解力を持つ苦行者なのか、判断できなかった。 (下巻P23)

ハヌマーンは大変人気のあるキャラクターらしく、ハヌマーンこそ『ラーマーヤナ』の作者と思われていたりするそう。
初期には単に「力の強い猿」「風の神の息子」とされていたのが、中世以降は「シヴァの息子」「シヴァの化身」とも言われるようになったというのも、その人気のゆえなのでしょうか。あるいは「ただの猿にこんなことができるわけがない」という合理的な解釈の結果なのか。

ハヌマーンは強大な力の持ち主であり、彼1人でシーターを連れ帰ることも余裕だったのですが、シーターはそれを断ります。

「私を解放するのは夫に任せてください。これには彼の名誉がかかっているのですから」 (下巻P87)

ハヌマーンの申し出通り、彼の背中に乗ってランカーを脱出していればその後の血なまぐさい戦争は起こらなかったのに……。まったく名誉ってやつは。

ランカーを出て行く際、ハヌマーンは早くもラーヴァナの息子を殺してしまうし、宮殿を火の海にしてしまいます。ハヌマーンにしてみれば攻撃されたから守っただけで、尻尾を焼かれそうになったからその尻尾を振り回したら宮殿焼けちゃった、という、不可抗力みたいなもんなんですが、ラーヴァナ以外は特に悪人でもないランカーの住民たちは火に焼かれて右往左往、シーターはそのひどい有り様にこんな感慨を持ちます。

これで彼らはハヌマーンを非難するだろう、とシーターは思った。それゆえにラーマを、それゆえに私を。ラーヴァナの執拗さが招いたことだとは、決して考えないだろう。シュールパナカーの奔放な情熱が招いたことだとは、決して考えないだろう。心が恐怖に囚われているとき、問題は常に、自分の内でなく外にあるとされるのだ。 (下巻P95-96)

何千年も昔にこういう真理喝破してるの、ほんとインドの人すごいなと思うんだけど、シーター、あんたがさっさとハヌマーンの背に乗って逃げていれば、殺戮の大部分は防げたのでは……。

その後ラーマと猿族ヴァーナラの軍隊がランカーに到着。「シーターを解放するなら退却する」と伝えるものの、もちろんラーヴァナは諾わず、激しい戦いが繰り広げられます。ラーマの軍もラーヴァナの軍も多大な犠牲を払い、ランカーは幽霊と未亡人の町に成り果てます。
最終的にラーヴァナは斃され、しかも死の間際にラーマに足元に跪かれ、「私はあなたをきちんと見ていなかったようだ、ラーマ」とか言って息を引き取るんですが。

いや、そこで!
改心しても!
遅い!!!

あんたのせいでランカーの住民がたくさん死に、夫と息子を失ったマンドーダリー(ラーヴァナの妻)は号泣、シーターは「このような悲しみの海から、本当に喜びが生まれるの?」と思います。

敵を倒して万々歳、解放されたぜヒャッハー!にならないのがいいですね。でもくどいようですがシーターがさっさとハヌマーンの背に乗って脱出していればこんなことには。
でもどのみちその後の悲劇は避けられなかったのかもしれない。
シーターがただ救われるだけでは「名誉」の問題は解決しない。

ラーマはシーターに向かってこう言ってのけるのです。

「この戦いが行われたのはそのため(一族の名誉挽回)であって、そなたを救うためではないことを、明らかにしておこう。(中略)そなたは我が目に入った砂、家名の汚点だ。なぜならそなたは、自殺するのではなく、雨季の間別の男のもとで生きることを選んだのだから。」 (下巻P180)

ええええ、マジかよラーマ。おまえそれでも英雄かよ(´・ω・`)

その場は火の神アグニによりシーターの潔白が証明され、ラーマとシーターは14年ぶりにアヨーディヤーに戻ります。
そう、ラーマは戴冠直前に義理の母カイケーイーの奸計に遭い、都を逐われていたのでした。
ようやく追放の期限を終え、王となったラーマ。やれやれ、今度こそ本当にめでたしめでたし――にならない!

シーターが懐妊し、その噂を伝え聞いたラーヴァナの妹シュールパナカーの策略により、アヨーディヤーの民の間に「シーターが身ごもったのはラーヴァナの子では?」という恐ろしい噂が。

そしてその噂が無視できないほど大きくなった時、ラーマはシーターの追放を決めます。そしてそのことを自ら彼女に告げるのではなく、弟ラクシュマナの口から伝えさせるのです。もちろんラクシュマナは「そんなことできません!」「シーター様は穢れてなどいません!」と反論するんだけど。

「これは貞節や忠誠とは何の関係もない」ラーマは言った。「こういう噂があると、民は王に対して優越感を覚えるようになる」 (下巻P216)
「他人より優位に立ちたいという人間の願望を無視してはならない。(中略)何も持たない者は穢れがないことで優位に立つ」 (下巻P216-217)

人間の心理に対する洞察はすごい。
すごいがしかし。
おまえには情というものはないのか、ラーマ!
身重の妻を森に一人きりで追放するとか鬼畜か!!!

「シーターなら理解してくれる。理解するはずだ」(下巻P219)というラーマの期待どおり、シーターは怒りも悲しみもせず、粛々と追放を受け容れます。ラーマへの愛も変わらない。

ラクシュマナに「でもあなたは無実なのに」と言われると

「もしも無実でなかったとしたら? そうしたら、夫が妻を家から放り出すのは社会的に適切で法的に正当なの? そんな不寛容な社会よりは、ジャングルのほうがよほど好ましいわ」 (下巻P225)

とまで答える。
いや、正しいけど。
私だって「何の落ち度もない被害者がぁー」ってニュースを聞くと「落ち度があったら殺されても仕方ないんかい」と突っ込んだりもするけれど。

その後シーターは森で一人で子どもを生んで、その子たち(生んだのは一人なのに“双子”になる。経緯は割愛)が成長して父親のことを聞いても「シーターの息子だということで満足してちょうだい」と諭す。

さらに大きくなった子ども達は父と知らずにラーマの宮殿を訪れ、それをきっかけにシーターもラーマと再会。そしてラーマは「ラーマはアヨーディヤーの王妃を拒絶したのであって、自分の妻を拒絶したのではない」「この十四年間は森に追放されていた十四年より悲惨だった」などとのたまいます。

ど の 口 が っ !

民を納得させるため、再びシーターに身の潔白を求めるラーマ。シーターはその要請に応え、「私の愛が真正なら、大地よ私を呑み込みたまえ」と地の底へ消えていきます。うわぁぁぁ……。

もちろんラーマはそんな結末を望んでいたわけではないんだけども、でもその後ラクシュマナにも「おまえは規則を破った。だから死ね」と命じるし、なんというか……なんなんだこの話。

「規則」を重んじすぎてはいけない、という話なのかもしれないし、現世で起こることに一喜一憂しても仕方ない、という話なのかもしれないし、「よき家庭人」と「よき王」は両立できるのか?という話なのかも……。

シーターの「穢れ」を忌むのはラーマ本人ではなく「民衆」であり、自分より優位に立つものの瑕疵を鵜の目鷹の目で探して糾弾するというのは本当に人間心理の真理。
シーターの悲劇はこの話を聞くおまえたちの狭い心のせいなのだ……

とはいえシーターは自分の人生をまったく「悲劇」とは考えていない。このパトナーヤクさんの再話の原題は「Sita」であり、少なくともパトナーヤクさんにとってこのお話の主人公はラーマよりもシーター。

「文化は生まれ、やがて滅びる。ラーマもラーヴァナも生まれ、やがて滅びる。自然は続く。私なら自然を楽しむわね」 (シーターの言葉 下巻P230)

「ラーマがいようといまいと、私は自分一人で完璧な存在です。(中略)不完全なあなたは、私が森に一人でいるというだけの理由で私を不完全だと決め付けるべきではありません。」 (シーターの言葉 下巻P252)

いやー、ほんと素晴らしいな、シーター。
そしてどこまでがパトナーヤクさんの「贔屓目」なのか、もともとの(と言ってもいくつもの『ラーマーヤナ』が存在するんだけども)叙事詩をひもといてみたくなります。


一般的に『ラーマーヤナ』の著者はヴァールミーキということになってますが、このヴァールミーキさん、なんとお話の中に出てきます。
森に追放されたシーターのところへやってきた盗賊がシーターに感化され、修行して生まれ変わり、シーターから聞いたラーマの物語を叙事詩として書くのです。元はラトナーカルという名だったのが、シーターにより「ヴァールミーキ」と名付けられたのでした。

作者自身のことが出て来るのもびっくりですが、さらに、彼の書いた『ラーマーヤナ』よりハヌマーンの書いたものの方がずっとずっと素晴らしかった、というくだりがあるのがすごい。

お前は世界にヴァールミーキを覚えてもらうために『ラーマーヤナ』を書いた。私は自分がラーマ様を覚えていられるよう『ラーマーヤナ』を書いたのだ。 (ハヌマーンの言葉 下巻P255)
その瞬間ヴァールミーキは、自分が作品を通じて認められたいという欲望の虜になっていたことを悟った。 (下巻P255)

おお、ヴァールミーキよ、それをしっかり自覚して叙事詩の中に書き加えるとはなんと真摯な。汝のあらわした書物は幾千年の時を超え、広く世界に親しまれているぞよ。(何目線)

シーターを失い、弟をも失い、最終的に入水して肉体を捨てるラーマ。
その後『マハーバーラタ』の登場人物クリシュナに転生するそうです。

上巻の献辞部分でパトナーヤクさんは

『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』はどちらも、家族についての物語である。修行者がどうしたら家庭人としての人生を送ることができるかを示そうとしている。(中略)修行者の生活と家庭人の生活との葛藤こそが、インド的な思想の基礎を成している。前者はシヴァの生き方に、後者はヴィシュヌの生き方に体現されている。 (上巻P48)

と書いてらっしゃいました。
マハーバーラタってそうだったっけ? なんか戦いばっかりしてたような……。

パトナーヤクさん再話版『マハーバーラタ』を読んで思い出さなければ、と思うんですがなぜかこちらは最寄り図書館に入ってないんですよね。


あと。
上巻の感想に書いた「謎の小磯先生の話」
章題が書かれているページ上段に突如出現する「小磯先生からの補足です」という文言。「ググったら小磯千尋先生という方が」と書いたのですが、ビンゴでした!
下巻巻末の監訳者さんによるあとがきに、「亜細亜大学教授の小磯千尋先生にご教示いただいた」と。

見事推理(?)が的中して嬉しかったです。ふふふ。


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マハーバーラタの中の『ラーマーヤナ』

『インド神話物語 ラーマーヤナ』上巻/パトナーヤク