図書館に新訳版があったので、手に取ってみました。旧訳版を読んだのは2015年の10月。もう10年も経ったとは(旧訳版の感想記事こちら)。
この『十日間の不思議』はライツヴィルシリーズの3作目。そして「後期クイーン問題」を提示する問題作。10年前にパリで少し交流のあった青年ハワードに請われ、三たびライツヴィルを訪れたエラリーが、真犯人の手のひらの上で踊らされ、その犯罪の片棒を担がされるというお話です。
ハワードには「たびたび記憶喪失になって、気がつくと全然知らない場所にいる」という持病(?)があり、その「記憶喪失の描写」から物語が始まります。これがなんとも見事な悪夢描写で、「え?何!?いきなりエラリーどうしたの!?」ってなります。エラリーの話じゃないんだけど。
空が迫り、星々がおりてきて、別の謎がもたらされた。というのも、近づくにつれて、星は大きくならずに縮んだからだ。 (P12)
両手をおろす。すると、手の全体に血がついていた。両手が血まみれだった。 (P18-19)
混乱したハワードの心理描写からパッと舞台が変わってエラリーの登場。掴みはOK、巧い展開。これまで二度ライツヴィルで事件を手がけているのに、なぜハワード一家のことを知らなかったのか、その説明もちゃんとあって、なぜかそこに「三菱財閥」の名が。
一方、ヴァン・ホーン家は実業界の大物、地域社会のミツビシ財閥のような存在で、カントリークラブに集まる面々の一員だから、旧来の上流階級とのあいだにある塀を乗り越えられないのだろう。 (P52)
前2作で出会った人々の名前があちこちにちりばめられ、拘置所の看守だった男がホテルのエレベーター係になっていることにエラリーが感慨を覚える場面など、シリーズ物ならではの面白さが。
旧訳の感想記事ではだいぶエラリーに同情していましたが、すでにラストの展開を知っている状態で新訳を読むと、「おいおいエラリー、なんでそこを見落とすんだ」「なんでそこで手を引かないんだ」と思ってしまいましたねぇ。ハワードと義理の母サリーとの姦通をネタに脅してくる謎の脅迫者。その犯人を突きとめもせずに「万事解決」「事件は終わった」としてしまうのはあまりに詰めが甘すぎる。
「十戒」に絡めた「事件の真相」を滔々と語る場面も、「志村、うしろうしろー!」ってなってしまう。キリスト教徒じゃないこともあって、あまりにもこじつけな理屈に思えるし、これを周囲の全員が「なるほど!」と納得して、新聞その他もエラリーの推理を大々的に褒めそやしたのかと思うと……。
十日目の「どんでん返し」を知った目で読むと、冒頭のディードリッチ(ハワードの父)とエラリーのやり取りも非常に趣が深いんですよね。エラリーの書いた本を全部持っている、自称「エラリーの大ファン」のディードリッチ。
「きみはどちらの事件でもライツヴィルの人々をだましたかもしれないが、わたしはだまされなかったよ」 (P98)
もうこの時点ですべてを計画していたんですもんね、ディードリッチ。エラリーが家に来ると聞いた時から、「それならば」と。ライツヴィルの二つの事件でエラリーが「真実を伏せた」ことを看破している彼にとって、この場面の会話はエラリーに対する挑戦状だったのでしょう。「私はだまされなかった、そして君は私にだまされるのだ」という。
旧訳ではエラリーに対して「ですます」で喋っていたディードリッチ、新訳ではもっと不遜というか、いかにも一代で財を成した実力者という雰囲気の喋り方になっています。
同じ箇所を旧訳と新訳で比べてみるとこんな感じ。
旧訳:「世間で賞賛するのも当然な《クイーン式方法》というのには――ある一つのきわめて脆弱な点があると絶えず思っていました」 (P396)
「残念ながら、論理がいかに輝かしくとも単なる論理だけでは法を承服させることはできません」 (P396)
サリーが夫のことを「計り知れない人です。力強くて、びっくりするほど若々しいのよ」(P59)と評していることからしても、新訳の口調の方がディードリッチの人となりをよく表している気がします。
活力と威厳と自信に満ちた「大きな男」が、すべてを思う通りに運びながら、1年後には亡霊のように老い衰えてしまっている。その落差も、新訳の方がより鮮やかです。
ディードリッチはエラリーという名探偵を隠れた助手として、不義を働いた息子と妻を罰するのですが、最後の最後にエラリーがそれを暴いても、言い訳めいたことは何も言わないのですよね。どれほど彼が妻を愛していたかとか、妻と息子との姦通にどれほど傷ついたかとか。
自決を迫るエラリーに対して、冷静に「金銭取引」を持ちかけるディードリッチ。
「大事なのは人生だ。名だ。ひとりの男がわずかばかりのむなしさとともに墓へ携えていくものがほしい」 (P482)
要は「今さら俺の名誉を汚すな、暴露したところでサリーもハワードも生き返らない、金ならいくらでも払うから知らんぷりしろ」と言ってて、ちょっと(だいぶ)見損なっちゃうんですが、結局彼が息子と妻を罰したのは、愛する妻を奪われた悲しみや憎しみからではなく、「面子を潰された」からだったのでしょうか。
捨て子だったハワードを息子として育て上げたのも、貧しい少女だったサリーを「自慢の妻」に育てたのも、自分の人生を飾りつけるためにすぎなかったのかなぁ。なんか、どうしてクイーンはそういう設定を2人に与えたんだろうと思っちゃうんですよね。ハワードの方はまぁ、「十戒」のためでもあり、不安定な精神状態の理由として「実の親ではないディードリッチとの関係」が付与されたんだろうけど、サリーの方の「若紫設定」はなくてもよさそうなのに。
ディードリッチはただ単に若い女に溺れるような男ではない、ということなんでしょうか。エラリーを利用するほどの犯罪計画を練る男なら、自分にふさわしい妻も計画的に作り上げるだろうという。サリーの出自自体が、真相の伏線になっているということなのかな。
「五千万ドルでも問題外だ」と突っぱねて、スミス&ウェッソンを差し出すエラリー。名誉を汚さず償うにはそれしかない……って、うーん、そんな権限がエラリーにあるのか。探偵はただ犯人を名指しするだけ、裁きは法がくだすべきものでは。
さっきの、「論理が見事でも法は影響を受けない」っていうくだりで、「確かにぼくは証拠集めについては警察に任せてきた」「ぼくの役目は犯人を見つけることであって、罰することではなかった」(P466)って自分で言っているのに、ここへ来てエラリーは犯人を罰しようとしてる。
警察に行って洗いざらい話せば、それは「エラリーの大失敗を明るみに出す」ことにもなるわけで、エラリーはそれを選択せず、密かに決着をつけることを選んだ。もしもディードリッチが自決しなかったら、その時は警察に行ったのかもしれないけど、でもたとえどんな優秀な名探偵でも、犯人に「死ね」という権利なんてないよね。
この傲岸で勝手でズルい決着も含めて「後期クイーン問題」なのかなぁ。ドルリー・レーンも神になろうとした探偵だったけど、名探偵のせいで人が殺され、名探偵自身が意図的に人を死なせる。追いつめる――。展開をすべて知っているだけに、途中で手を引かずにまんまと踊らされるエラリーにムズムズして、初見の時よりエラリーへの不満が強くなってしまいました。
せっかくなので旧訳と新訳の訳文の違いをもう少し紹介しておきましょう。エラリーへの印象が変わったのは、すっきりと読みやすい新訳の表現のせいも大きいのかもしれません。
新訳:何かが異様だ。それは姦通でも、恐喝でも、これまでヴァン・ホーン家で見聞きした物事でもない。たしかにそういったことは異様だが、これはそれらとは別種の異様さであり、すべてを覆っている。 (P199)
旧訳:彼はどうやら客観的立場に立って、二人を容赦せず、冷笑的態度を続けるほうが、結果的に見てよさそうに思えてきた。だがエラリイは、感情に関することとなると、救い難いほどのセンチメンタリストだった。そして二人はまだ若いのにこんな辛い目にあっているのだ。 (P230)
新訳:冷静で手きびしい皮肉屋の態度をとったほうがよかったのだろうが、いったん情がからむとエラリイは手のつけられない感傷家だ。それに、ふたりとも若くて苦境にある。 (P271)
巻末にはおなじみ飯城さんの詳しい解説が付属。この作品は大変な難産だったらしく、ハワードのキャラクターについて作者二人の間でも議論があったそう。うん、記憶喪失症ってちょっと都合良すぎるし、エラリーが「父親への愛情ゆえに義理の母親と密通した」っていう見立ても……。エラリーが一目で参っちゃうような女性に、なぜハワードが惹かれないと思うのか。そりゃあ「父に対する裏切り」という背徳感はさらに恋情を燃え立たせたでしょうけども。
本文中に登場する金庫破り「ジミー・ヴァレンタイン」についても解説が。これ、本書を読む前にちょうど宝塚の『扉のこちら』を見ていて、「え? ジミー・ヴァレンタインってもしかして?」と思ったんですが、やはりO・ヘンリーの「よみがえった改心」の登場人物だと。当時舞台や映画など色んなメディアで人気を博していて、クイーンもラジオドラマの脚本を書いたことがあったそう。へぇぇ、そんな繋がりが。
真犯人を知っていても――知っているからこそいっそう面白い。そんな読書でした。
※クイーン作品の感想記事まとめはこちら
前2作で出会った人々の名前があちこちにちりばめられ、拘置所の看守だった男がホテルのエレベーター係になっていることにエラリーが感慨を覚える場面など、シリーズ物ならではの面白さが。
旧訳の感想記事ではだいぶエラリーに同情していましたが、すでにラストの展開を知っている状態で新訳を読むと、「おいおいエラリー、なんでそこを見落とすんだ」「なんでそこで手を引かないんだ」と思ってしまいましたねぇ。ハワードと義理の母サリーとの姦通をネタに脅してくる謎の脅迫者。その犯人を突きとめもせずに「万事解決」「事件は終わった」としてしまうのはあまりに詰めが甘すぎる。
「十戒」に絡めた「事件の真相」を滔々と語る場面も、「志村、うしろうしろー!」ってなってしまう。キリスト教徒じゃないこともあって、あまりにもこじつけな理屈に思えるし、これを周囲の全員が「なるほど!」と納得して、新聞その他もエラリーの推理を大々的に褒めそやしたのかと思うと……。
十日目の「どんでん返し」を知った目で読むと、冒頭のディードリッチ(ハワードの父)とエラリーのやり取りも非常に趣が深いんですよね。エラリーの書いた本を全部持っている、自称「エラリーの大ファン」のディードリッチ。
「きみはどちらの事件でもライツヴィルの人々をだましたかもしれないが、わたしはだまされなかったよ」 (P98)
もうこの時点ですべてを計画していたんですもんね、ディードリッチ。エラリーが家に来ると聞いた時から、「それならば」と。ライツヴィルの二つの事件でエラリーが「真実を伏せた」ことを看破している彼にとって、この場面の会話はエラリーに対する挑戦状だったのでしょう。「私はだまされなかった、そして君は私にだまされるのだ」という。
旧訳ではエラリーに対して「ですます」で喋っていたディードリッチ、新訳ではもっと不遜というか、いかにも一代で財を成した実力者という雰囲気の喋り方になっています。
同じ箇所を旧訳と新訳で比べてみるとこんな感じ。
旧訳:「世間で賞賛するのも当然な《クイーン式方法》というのには――ある一つのきわめて脆弱な点があると絶えず思っていました」 (P396)
「残念ながら、論理がいかに輝かしくとも単なる論理だけでは法を承服させることはできません」 (P396)
新訳:「高く評価しているとはいえ、きみの手法には――賞賛に値する“クイーン方式”には――大きな弱点がひとつあるとわたしはつねづね考えている」 (P466)
「残念ながら、論理がいくらみごとでも法は影響を受けない」 (P466)
サリーが夫のことを「計り知れない人です。力強くて、びっくりするほど若々しいのよ」(P59)と評していることからしても、新訳の口調の方がディードリッチの人となりをよく表している気がします。
活力と威厳と自信に満ちた「大きな男」が、すべてを思う通りに運びながら、1年後には亡霊のように老い衰えてしまっている。その落差も、新訳の方がより鮮やかです。
ディードリッチはエラリーという名探偵を隠れた助手として、不義を働いた息子と妻を罰するのですが、最後の最後にエラリーがそれを暴いても、言い訳めいたことは何も言わないのですよね。どれほど彼が妻を愛していたかとか、妻と息子との姦通にどれほど傷ついたかとか。
自決を迫るエラリーに対して、冷静に「金銭取引」を持ちかけるディードリッチ。
「大事なのは人生だ。名だ。ひとりの男がわずかばかりのむなしさとともに墓へ携えていくものがほしい」 (P482)
要は「今さら俺の名誉を汚すな、暴露したところでサリーもハワードも生き返らない、金ならいくらでも払うから知らんぷりしろ」と言ってて、ちょっと(だいぶ)見損なっちゃうんですが、結局彼が息子と妻を罰したのは、愛する妻を奪われた悲しみや憎しみからではなく、「面子を潰された」からだったのでしょうか。
捨て子だったハワードを息子として育て上げたのも、貧しい少女だったサリーを「自慢の妻」に育てたのも、自分の人生を飾りつけるためにすぎなかったのかなぁ。なんか、どうしてクイーンはそういう設定を2人に与えたんだろうと思っちゃうんですよね。ハワードの方はまぁ、「十戒」のためでもあり、不安定な精神状態の理由として「実の親ではないディードリッチとの関係」が付与されたんだろうけど、サリーの方の「若紫設定」はなくてもよさそうなのに。
ディードリッチはただ単に若い女に溺れるような男ではない、ということなんでしょうか。エラリーを利用するほどの犯罪計画を練る男なら、自分にふさわしい妻も計画的に作り上げるだろうという。サリーの出自自体が、真相の伏線になっているということなのかな。
「五千万ドルでも問題外だ」と突っぱねて、スミス&ウェッソンを差し出すエラリー。名誉を汚さず償うにはそれしかない……って、うーん、そんな権限がエラリーにあるのか。探偵はただ犯人を名指しするだけ、裁きは法がくだすべきものでは。
さっきの、「論理が見事でも法は影響を受けない」っていうくだりで、「確かにぼくは証拠集めについては警察に任せてきた」「ぼくの役目は犯人を見つけることであって、罰することではなかった」(P466)って自分で言っているのに、ここへ来てエラリーは犯人を罰しようとしてる。
警察に行って洗いざらい話せば、それは「エラリーの大失敗を明るみに出す」ことにもなるわけで、エラリーはそれを選択せず、密かに決着をつけることを選んだ。もしもディードリッチが自決しなかったら、その時は警察に行ったのかもしれないけど、でもたとえどんな優秀な名探偵でも、犯人に「死ね」という権利なんてないよね。
この傲岸で勝手でズルい決着も含めて「後期クイーン問題」なのかなぁ。ドルリー・レーンも神になろうとした探偵だったけど、名探偵のせいで人が殺され、名探偵自身が意図的に人を死なせる。追いつめる――。展開をすべて知っているだけに、途中で手を引かずにまんまと踊らされるエラリーにムズムズして、初見の時よりエラリーへの不満が強くなってしまいました。
せっかくなので旧訳と新訳の訳文の違いをもう少し紹介しておきましょう。エラリーへの印象が変わったのは、すっきりと読みやすい新訳の表現のせいも大きいのかもしれません。
旧訳:どこかに変な点がある。姦通でもない。脅迫事件でもない。彼がヴァン・ホーン家で見たり聞いたりした事柄でもない。あれらは確かに“間違った”ことだ。だが、今彼が感じている変な点というのは、違う種類の“間違い”で、それはすべてを包括する“間違い”なのだ。 (P169)
旧訳:彼はどうやら客観的立場に立って、二人を容赦せず、冷笑的態度を続けるほうが、結果的に見てよさそうに思えてきた。だがエラリイは、感情に関することとなると、救い難いほどのセンチメンタリストだった。そして二人はまだ若いのにこんな辛い目にあっているのだ。 (P230)
新訳:冷静で手きびしい皮肉屋の態度をとったほうがよかったのだろうが、いったん情がからむとエラリイは手のつけられない感傷家だ。それに、ふたりとも若くて苦境にある。 (P271)
巻末にはおなじみ飯城さんの詳しい解説が付属。この作品は大変な難産だったらしく、ハワードのキャラクターについて作者二人の間でも議論があったそう。うん、記憶喪失症ってちょっと都合良すぎるし、エラリーが「父親への愛情ゆえに義理の母親と密通した」っていう見立ても……。エラリーが一目で参っちゃうような女性に、なぜハワードが惹かれないと思うのか。そりゃあ「父に対する裏切り」という背徳感はさらに恋情を燃え立たせたでしょうけども。
本文中に登場する金庫破り「ジミー・ヴァレンタイン」についても解説が。これ、本書を読む前にちょうど宝塚の『扉のこちら』を見ていて、「え? ジミー・ヴァレンタインってもしかして?」と思ったんですが、やはりO・ヘンリーの「よみがえった改心」の登場人物だと。当時舞台や映画など色んなメディアで人気を博していて、クイーンもラジオドラマの脚本を書いたことがあったそう。へぇぇ、そんな繋がりが。
真犯人を知っていても――知っているからこそいっそう面白い。そんな読書でした。
※クイーン作品の感想記事まとめはこちら
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