いつも楽しく内田樹さんのblogを拝見している。
この間、3月5日にUPされた「そろそろ春だけど」というエントリの後半、家族に関する話がとても興味深かった。
内田さんが『のだめ』を読んでいることもわかったし、「親族は謎ベース」というのが、日頃私が思っていることと同じで、「そうそう、そうなのよねぇ」と深く共感した。

詳しくはblogを読んでもらった方がいいけれど、

「成員同士が互いの胸中をすみずみまで理解できており、
 成員間につねに愛情がみなぎっているような関係の上で
 はじめて機能するものとして家族を観念するならば、
 この世にうまくいっている家族などというものは
 原理的に存在しない」


というお話。
要するに、夫婦・家族だからってそうそうお互いのことを理解できるもんじゃないし、別に理解できなくたって「家族のルール」さえ守れれば大丈夫なのよ、という話。

いや、まったくその通り。
私は夫が何を考えてるかなんて知りませんから(笑)。
向こうも私が何を考えて「きれいなお兄さん」の小説を書いてるかなんて知りもしなければ、知りたいとも思ってないでしょう。
知らないでいてくれた方がこちらとしても都合がいい(爆)。

私が執筆することを容認してくれさえすればよいので、その中身に対してどうこうということはなくていい。
執筆に限らず、お互いにお互いの利益に反しない限りは相手のやることを尊重できればよい。
「お互いの意志」とか「お互いの考え」とかいうのはよくわからないものなので、「お互いのやること」という表層の部分で、「まぁいいんじゃないの」でいられればそれでよいと思う。

自分の考えてることだって、「400字以内でまとめなさい」とか言われると困ってしまうものである。
いわんや他人の考えてることをや。

別にこれは夫婦や家族に限ったことではなくて、すべての人間関係の基本は「わからないを前提とする」ではないのかしらん。
わからないからこそ、言葉や表情でコミュニケーションを取らなければならないし、一定の「儀礼」や「ルール」というものが必要なのだ。

子どもなんて、言葉が話せるようになるまでは何を考えてるのかさっぱりわからないし、話せるようになってもやっぱりわからない。
それでもまぁ毎日付き合ってれば大体の「傾向と対策」はわかってくるので、「まったくあの子は何考えてんのかしら」と言いながらもそこそこうまくやっていける。

なんでもかんでもお見通しで、何をやるにも一緒で、泣くも笑うも常に同じ、なんて気色悪いよねぇ。