昨日の話の続き。

「そうは言ってもうちの旦那は家事も育児も全然手伝ってくれないし、理解がないのよ〜! 『わからないことを前提とする』と言ったって、我慢ならないわ〜」
という奥様方の声は大きいのだろうな、と思います。

でもたぶん、それは「理解」の問題ではなくて、「手伝うか手伝わないか」という「行動」の問題なので、どんなに内心で「奥さんも大変だよな。悪いな」と思っていても、まったく行動に表してくれなかったら意味がないです。

時々「お父さんのための子育てハッピーアドバイス」とかいう本の広告を見て、「奥さんの大変さを理解してあげよう」みたいなことが書いてあります。
奥さんが「大変だ」と愚痴をこぼしたら、「俺にどうしろって言うんだよ」ではなく、「そうか。おまえも大変なんだな。いつもありがとう」みたいに言いなさい、というようなのがマンガで載っている。

もちろんそういう返答をしてくれるのはありがたいけども、常にそういう反応をお父さんがするようになったら、そして「大変だな」と言うだけでやっぱり皿洗いも洗濯たたみも、実質的な手伝いを何もしてくれなかったとしたら、早晩「あんたは口ばっかり!」と言って、やっぱり奥さんの機嫌は悪くなるんじゃないだろうか。

大体こーゆー本を読んで「こう来たらこう返せ」で対応するのは「理解」云々というよりモロ「傾向と対策」でしょう。
もちろん、「真心」なんかより「傾向と対策」の方がよほど効果あると思いますけど。

結局のところ、言葉とか表情とか態度とか、「外に現れたもの」しかこちらは把握できないわけで、「大変だなと思ってるけど手伝わない」よりは、「なんだかわかんないけど奥さん怒ってるから手伝っとこう」の方が「理解ある夫」として喜ばれるのではないかと。

「理解する」とか「わかる」ということと、「それに基づいて行動する」というのはまた別の話です。
「わかるけどやりたくない」なんてこと、いくらでもあるもんなぁ。
うん、掃除が必要だとわかってるけどやりたくない(笑)。

おじいちゃんとかおばあちゃんとかが孫に甘いのも、あれは「わからない」が当然だからじゃないかな。
年齢の隔たりが「相手のことはよくわからない」を当たり前にして、「いるだけで可愛い」という可愛がり方ができる。爺ちゃん婆ちゃんは細かいことは言わなくて(あるいはとんちんかんなことばかり言って)、でも根本的に自分の存在そのものを「可愛い」と思ってくれてるから、孫としては居心地がいい……みたいな。

そんないい爺ちゃん婆ちゃんばかりじゃない?
まぁまぁ。
たとえですから。
でも「相手のことをわかる・理解する」というのと、「相手を愛する」というのは、やっぱり別のことじゃないかな。
わかんなくても愛せる。
わかんない方がより愛せるかもしれない。

「愛する」という定義がまた問題だけどね。
奥さんや子どもを愛しているから育児や家事を手伝うかっていわれると、ねぇ?