やっと読み終わった、『赤と黒』。
マチルドとの「お互いを征服するための戦」のような恋模様のところが終わって、破滅へと向かっていく最後のところはやはりとても面白かった。

主人公ジュリヤンはまず家庭教師として上がった先の奥方、レナール夫人と恋に落ち、それがばれかかって神学校に入る。そしてラ・モール侯爵に秘書として雇われることになり、令嬢マチルドに目をつけられて「征服戦」のような恋を演じる。
「戦」に勝ったジュリヤンはマチルドと結婚できる寸前にまで行く。しかしそこへレナール夫人から「彼は金と出世のために、入り込んだ家の女性を誘惑する不埒な男だ」という手紙が届き、いっさいはおじゃんになる。
そしてジュリヤンはレナール夫人を銃撃し、その罪で死刑となる……。

レナール夫人を撃ってからギロチンにかけられるまでの、牢の中でのジュリヤンの思索がとても面白いのだな。
彼はレナール夫人を撃って、でも牢の中で、自分が一番愛しているのはレナール夫人だとはっきりわかる。なんとか彼の命を助けようと奔走するマチルドにはまったく愛を感じない。

まぁ、読んでてホントにマチルドは「ヤな女」で、彼女がジュリヤンに下手なちょっかいを出しさえしなければ、ジュリヤンはあーゆー最期を迎えはしなかっただろうから、「いい気味!」ではあるんだけど。
当然の報いという気がするもんな。

レナール夫人は撃たれたけど死ななかったし、マチルドの奔走もあって、裁判で無罪になる望みはあった。
けれどもそれをジュリヤンは拒否して、自分から死刑を求めるような振る舞いをする。
このへんのジュリヤンの心理がとても面白い。

「それにしても、死ぬ時期がこんなに迫ってから人生を愉しむ術がわかるとは、おかしな話だ」(下巻521P)

彼の心と行動を縛っていた野心がさっぱり消え失せて、レナール夫人への想いにもよけいなものがまざらなくなり、やっと「ピントが合ってくる」。
破滅に至るまでのジュリヤンの「夢想」とも言うべき野心、「ピントのずれ方」に付き合うのはなかなか骨だったのだけれど、「人間ってそういうものかもしれないな」と思う。
色々な欲や願望に振り回されて、「世界」にちゃんとピントが合わない。
自分というフィルターを通してしか「世界」は見えなくて、おかしなことばかりするんだ。

でもそのフィルターが「間違っている」とか「正しい」とか、そんなことは誰にも言えない。
ジュリヤンは23歳という若さでギロチンの露と消えてしまうけど、死を目前にして彼は「これまで味わったことのない幸福」を感じている。もっと長生きして出世したとしても、「幸せ」だったかどうかはわからない。

ジュリヤンは聖書をラテン語で全部暗記している。
でもその内容はまったく信じていない。

「もしキリスト教の神が実在するならば、ぼくはおしまいだ。何しろあれは暴君だし、暴君らしく、復讐の念にあふれている。聖書に出てくるのは残虐な処罰の話ばかりだ。あんな神様を好きだと思ったことは一度もない。あんな神様を本気で愛せる人間がいるなどと思いたくもなかったくらいだ」
(下巻542P)

こーゆーことをキリスト教圏の人が書いて、大丈夫なのかな?と非キリスト教圏に生まれ育った私は思ってしまう。
スタンダールがどれくらい信心深かったか知らないけど、このセリフを書けるということは、少なくとも「そういう見方もできる」とは思っていたのだろう。
私なんかはジュリヤンのこーゆーセリフに共感してしまうけど、クリスチャンの人にとってはどうなのでしょう。

『赤と黒』の中で、聖職者はほとんど「ペテン師扱い」。
「神を敬う」ことと「聖職者を敬う」ことは別だし、司教の座をめぐっての争いとかは、実際世俗の権力争いとなんら変わるところがないんだろう。
罪を犯したジュリヤンの「魂を救う」と称して牢の外に居座る司祭を、ジュリヤンは
「あの男は新聞に記事を載せてもらいたがっているんだ。まんまとそうなるだろうな!」と切って捨てている。
「およそ下劣きわまる偽善ぶりが見えすいていた。いままでジュリヤンがこれほど腹を立てたことはなかった」(下巻562P)
「魂を救う」どころか、静かに最期の時を過ごしたいと思うジュリヤンの心の平安をかき乱すばかりだ。

ジュリヤンは「あの世がどんなところかわかったものではありませんよ」とも言っている。
「責め苦が待っているか、あるいは何もないのか」(下巻557P)
天国を信じていないのだ。
「一緒に死にましょうか?」と言うレナール夫人に対して上のセリフを言った後、「それよりも二ケ月のあいだ、二人で楽しく暮らしませんか?」と言うジュリヤン。
「死んだ後」より「生きている今」というのは私にはとてもうなずけるけど、敬虔なクリスチャンの読者にとっては「なんてことを!」ではないのかしらん。

「そのせい(レナール夫人がそばにいないこと)でぼくは孤立しているんだ。別に、公正で善良で万能なる神様、意地悪ではなく復讐ぶかくもない神様がいないからではない」(下巻578P)
神様よりも「人」。
人を陥れるものも、人を救うものも「人」であると私は思うけれども。

そうそう、岩波文庫版の『赤と黒』の最後の箇所をちょっとめくってみたら、ジュリヤンが「おれ」としゃべっていてやっぱりずいぶん印象が違った。新訳の方では「ぼく」としゃべっているのよね。
新訳の方が「紅顔の美少年」っぽいしゃべり。

上の、578Pのところの独白の文章。岩波文庫版では
「このことがおれに孤独の感を与えるので、公正、善良、万能の、悪意なく復讐心に渇していない神のいまさぬことではないのだ」
となっている。
私は昔の古めかしい翻訳の文章というのがけっこう好きだけど、やっぱり新訳の方が読みやすいですね。