昨日、『下流志向』について書いたあとで。

そういえば「勉強」って、「お安くしときます」って意味でも使うよなぁ、と思い出した。
「♪勉強しまっせ、引っ越しのサカイ♪」
新解さんにちゃんと「運用:商人が客に初めの言い値より安く売る意を表すのに用いることがある」と載っているので、関西だけでなく日本中で通じるのだと思うけど。

「勉強する」と「値切る」の相関関係は深いらしい(笑)。

昨日、“「学ぶ」ということは、「経済の論理」では計れない”などと偉そうなことを書いたんだけど、今どき「学校での勉強」を「学び」だと捉えてる人って大人でもどれくらいいるんだろうなぁ、という気がする。
昔、中学生とか高校生だった時に、学校でやることは「お勉強」であって、本当の意味での「勉強」「学び」ではないと思っていた。
学校の「お勉強」というのは、テストでいい点を取っていい学校へ進学するためだけに特化されたもので、本来の意味での「学び」ではないと。

中学校に入るとすぐ実力テストがあって、「高校受験まであと3年しかありません。3年なんてあっという間です」と脅されたし、高校に入ったら入ったで、「もう大学受験は始まっている」とか言われて。

なんやねん、と思ったことを覚えている。
学校の勉強は本当に受験のためだけにあるんだな、って改めて思わされて。
私はいたって生意気なガキだったので、「そーゆーのはヤだ」と思って共通一次用のマークシート問題対策とか全然やらないで受験したらもうほんとにさっぱりわかんなくて、得意なはずの算数もお手上げ状態。

なんかすごい、「チクショー!」って思った(笑)。
「こんな問題が解けたからって頭がいいと思うなよ!」みたいな(爆)。
本当に頭のいい人はどんなタイプの問題であってもきっと解けるに違いないので、完全に私のやつあたりではあるけど。

あんな共通一次の点でよく受かったなぁ、と思うほどひどかった。
落ちてたらこれこそ「自己責任」だよね。
自分で選んだんだから従容として受け入れねばならぬ。

まぁ、さすがに私の小学校時代には「受験を意識する」なんてことはなくて、「お勉強」であれ「学び」であれ、「やらなきゃしょうがないもの」「先生の言うことは聞くもの」だと思って、40分間席についていたんだと思うけど。

「受験に役立つ」だけが目的なら、より少ない努力でより大きな成果が得られた方がいい。
そしてすぐに成果が出なければ困る。
何しろ「あと3年しかありませんよ!」だし。
いかに効率よく、経済的に「お勉強」するか。

「経済的」って、「安くつく」ってことだよねぇ。
「経済」という言葉には、「値切る」という概念が含まれているんだよねぇ。

「受験」という圧力をなくせば子ども達は勉強するようになるのかといったらやっぱり勉強しないわけで。
「受験で得する」という目的すらなくなってしまったら、学校の「お勉強」なんて……。

「生きる力」とか、最近は言いますけれども。

本来、「知らないことを知る」のは面白いし、「わからないこと」が「あ、そうか!」とわかる瞬間というのは本当に楽しいものだと思うのだけれど、じゃあそれを「学校」でやらなきゃならない理由は何なのか。

一人ずつじゃめんどくさいから?(笑)
子どもが学校に行かないでずっと家にいたら邪魔でしょうが!、という理由?(爆)

「公教育」というのは「国家がどんな人間を作りたがっているか」ということが色濃く反映されるので、そのへんの「国家」と「国民」の関係もある。

子ども自身の「学び」と、大人が子どもに与えたい「お勉強」と。

我が子にはテストの点だけでない「学びの楽しさ」を学んでほしいけど、でもやっぱりテストの点が悪かったら嫌だよなぁ、うーん。