昨日、漢検協会から「樫の木」という機関誌が送られてきた。わざわざ私と息子の2人分。
その巻頭特集が「基礎学力を考える」というもので、「基礎学力と企業」「基礎学力と大学」「基礎学力と学校」「基礎学力と社会」……と、企業や大学のトップのインタビュー記事などが載っていたのだった。

なんとなくタイムリー。

この「基礎学力を考える」シリーズは漢検内のホームページでも読めるようになっているので、興味のある方はご覧下さい。
なかなか面白いです。
企業とか大学のトップの話は、ちょっと腰が引けます(笑)。

「企業が求める人材」なんてものには育ちたくないです(爆)。だって、それこそ「経済の論理」でしょう。
「人材」という言葉自体が人間を部品扱いしてるようで嫌だ、と確か『下流志向』の中にも出てきたけど、「市場競争に勝ち抜くための学力・勉強」ってねぇ。
そりゃ、人間、食ってかなきゃなりませんから、「お金にならない」ことばかりやってるわけにはいきませんけど、本来的な「学び」とは違うものではないかなぁ。

「大学」の方も、やっぱり「世界にはばたくリーダーを育てる」とかいう話になってる。
「日本のみならず世界で活躍する人材を輩出する」みたいな。
いや〜、そんなこと考えて大学に入る人って、少数派じゃないの??? 少なくとも私は世界にはばたこうなんて気はまったくなく、「日本を背負うのだ」というつもりさえなく、「社会に貢献できる人間になろう」という気すら、ほとんどなかった。
半分は、「まだ働きたくないから行けるんだったら行こう」というような理由……ははは。

「教育は国家存続の最優先課題の一つ」なんてふうに「国家」を持ち出されると、ちょっと抵抗を感じてしまう。
少子化問題でもそうだけど、別に子どもは年金制度を維持するために生まれてくるわけじゃないし、「日本という国家」のために生まれてくるわけでもない。
どこの国に生まれるかなんて、自分では選べないんだし。

もちろん、人間が社会生活を営む生き物である以上、「社会に関わる」「社会が破綻しないように振る舞う」ということは必要なんだけれど、でも「国家」って言われるとちょっと……。
「国家」のために「国民」が存在するのではなくて、「国民」のために「国家」が存在するはずなのに、しばしば逆転するでしょう。
よその国に「No」と言えるだけでなく、自分の「国家」が間違った時にも「No」と言える人間を「国家」は養成することができるのか。

「教育をサービスとして値切って」、「努力して授業を聞かない・学ばない」というのは問題だと思うけど、大人の提供するものを鵜呑みにして、ただ従順に「聞く」というのも違うと思う。
「おまえらの言うことなんか信用しねぇぞ」という挑戦的な態度も、子どもや若者には必要だと思うんだよね。だからと言ってまったく人の言うことを聞かないと、ただの自意識過剰の「バカ」になってしまうんだけども……。