ははは。
また内田先生の本です。
すっかりはまってますね(笑)。

この『下流志向〜学ばない子どもたち・働かない若者たち〜』は昨年1月の出版で、かなり話題になりました。
その時からタイトルだけは知っていて、「面白そうだな」と思ってはいたのですが。

いや〜、予想通り面白かったです。
またしてもあっという間に読み終わってしまいました。
ちょっと前に読み始めた『カラマーゾフの兄弟』がなかなか進まないのとはもう雲泥の差です。

副題にあるように、この本は「学びからの逃走」「労働からの逃走」ということをテーマとしていて、最初から最後まで面白かったのですけど、特に「学びからの逃走」に関してはなるほどとうなずかされました。

子ども達の学力低下が言われて久しい昨今、子ども達は「わざと」「自分から」「進んで」学力を低下させているという話なのですね。
ただ怠けているとか、集中できないとか、先生の質が落ちているとかゆとり教育のせいとかではなくて、子ども達自らが「一生懸命勉強しないようにしている」のだと。

だから「逃走」なんですけども。

なんか。
なるほどぉ、です。
これまで小学校の参観に行って、本当にみんな聞いてないというか、どーでもいいと思ってるなぁ、という雰囲気が濃厚だったんだけど、やっぱり私、それは「授業がつまらないから」だと思ってたんですよね。
もっと話術のうまい先生が、面白い、引きつける授業をしてくれたらみんな聞くんじゃないか。こんなたるい授業、40分もおとなしく座って聞いてなきゃいけないなんて、そりゃ苦行だろうと。

もちろん、そーゆー側面は実際にあるのだろうと思いますけど、たとえ授業が相当に面白かったとしても、子ども達はやっぱり先生の話を聞かないかもしれない。
なぜなら子ども達は「サービスを享受する消費者として学校に登場」していて、「教育サービスを値切ろうとしている」から、という指摘がなされます。

買い物の際、値切ろうと思えば、「買う気がない」という意思表示をするのがまず第一です。
「別にいらないんだけど」という顔をして商品を物色する。
それが有利に買い物を進める技術である。

生まれた時から消費社会の今どきの子ども達は、小学校に入学する時にはもうその「賢い消費者のルール」を無意識的にせよ身につけている。
「何で勉強しなくちゃいけないの?」「先生の話をよく聞いたらどんな得があるの?」という質問は、哲学的な「学ぶ意味」を問うているのではなくて、経済的な「利害得失」に関する問いなのです。

「何か得するのか?得しないんだったらいらないよ」
まったく消費者の論理です。

「なんで勉強しなくちゃいけないの?」と聞かれて、私達大人も「いい大学に入っていい会社に就職するため」などとうっかり答えてしまう。
「これこれこういう得がある」というふうに。
「大学全入時代」になって、かなりいい大学に入ってもいいところに就職できるかわからない、就職できてもその会社がつぶれないとは限らない、という昨今、「その程度のお得」が意味を持たなくてもおかしくない。

そんな先の、不確定な「得」のために今この「サービス」を買う必要はない。

子どもから大人まで、みんなが「消費者」になっているというのはすごく思います。
「先に謝ったら負け」とか「やたらにクレームをつける」とかいうのも、あれ「消費者根性」ですよね。消費の現場では「お客さまは神様です」というルールがあって、別に「売り買い」の話じゃなくても、「お客さま」の立場を先に取った方が勝ちってことになってしまっている。

この春、小麦粉から牛乳から色々なものが値上がりして家計を直撃してますけど、「値上げに文句を言う」っていうのも「消費者の立場」です。
自分が小麦製品関連の会社に勤めてたらどうでしょう。牛乳とか卵とか、自分が農家だったらほんと、この低水準じゃやっていけないと思う。
作る側の立場、生産する立場の声よりも、消費する側の声の方が常に大きいような気がする。
「企業」という団体に比べたら「消費者」は弱い立場であって、その利益を守らなければいけない、ということなんだろうけど、でも「消費者」だってみんな働いてるはずで、なんらかの「生産」をすることによって「消費の原資」を手にしているはずでしょう。

自分が「生産者」でもある、という意識がすごく希薄になっているような気がします。
企業というものが大きくなって、一人一人の労働者は「ねじの一つ」にしかすぎなくなって、「自分が何かを作り出している」という実感がどんどん得られなくなっているからだろうな、と思うけれども。

あと、「自発性」とか「自己責任」という概念。
「個性」とか「自立」という言葉の誤った解釈。

「かりに広く社会的に有用であると認知されているものであったとしても、“オレ的に見て”有用性が確証されなければ、あっさり棄却される」(P74)

ああ。
それってなんか、妙にわかる。

「自分で選んだんだから」っていうことの過大評価というのか。
その結果すごい不利益をこうむっても、「自分の意志で選んだ」という満足の方が強ければ、それは「失敗」とはカウントされないという。

「自己責任」
ねぇ。
これ、怖いけどねぇ。
全部そっちのせいにしてよ、って思うけどねぇ(笑)。

以前紹介した橋本治さんの『日本の行く道』でも「“自立”の早とちり」という話が出てきましたし、「いじめ問題の根っこには、子どもが“もう勉強しなくていい”と感じていることがある」という話もありました。

学習指導用要領を変えても、先生達を一生懸命研修させても、子ども自身が「勉強しない方が価値がある」と思っているのだったら意味がない。

それに、「教育バウチャー」とか「校区を廃止して自分で選んでもらう」とか、むしろますます教育は「サービス」になって、「消費するもの」になっている。

「学ぶ」ということは、「経済の論理」では計れないことなのに。