ドストエフスキーシリーズ第4弾。
『地下室の手記 (新潮文庫)』です。
光文社古典新訳文庫版も出ているけど、安かったので新潮文庫にした。訳者も『罪と罰』と同じ江川卓さんやし。何しろ「ドストエフスキーを読むなら江川訳で読め!」と言われた方だそうだ。
『罪と罰』も読みやすかったけど、『地下室の手記』も、決して読みにくい翻訳ではない。
読みにくくはないけど、「何言ってんだ、このおっさん」という感じで、「意味」を理解するのが難しいところが多々ある。でもそれは江川さんのせいじゃなくて、この手記を書いた「地下室の住人」のせいだ。

裏表紙の内容紹介のところに、「極端な自意識過剰から一般社会との関係を絶ち、地下の小世界に閉じこもった小官吏の独白を通して……」と書いてある通り、このお話は『山月記』と同じく「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を持った男が主人公である。
『山月記』は格調高く虎になったが、こちらはおとなしく人間をやめたりしないで、いたってパワフルに「困ったおじさん」をまっとうする。

「ものすごく困ったおじさん」の手記なので、正直読んでてうっとうしい(笑)。2部の方はまだ「思い出話」なので、多少は物語風になっていて読みやすいのだけど、1部の方は完全な独白、「自意識過剰な引きこもりおじさんが好き勝手にご託を並べる」形で、ついていくのが疲れる。

この手記を書いている時、おじさんは40歳。
貧乏官吏だったけど、今は無職。
ちょっとした遺産が転がりこんだおかげで、大手を振って“地下室”に引きこもっている。
別に、本当に地下室に住んでいるわけじゃないんだけど、「ペテルブルグの片隅のぼろくそのひどい部屋」に「籠城を決め込んでいる」。

まぁ、ほんとに、なんというか。

自分は頭が良くて、「連中」なんかよりずっと偉い人間のはずなのに、と思って心の中では周囲をくそみそにけなして、「あいつの方が譲って当然だ!」みたいに思っている。でも実際には自分の方が譲っていて、それが悔しくてならないんだけど、でもその「屈辱感」が実は「快感」でもある。

何しろ「自意識」は「過剰」だから、人一倍屈辱を感じると同時に、それを喜んでいる自分もちゃんと発見してしまう。
そして、わざと屈辱を求めるように行動してしまう。
もしかしたら「幸せ」を手に入れられるかもしれないところでも、進んでそれを放棄して、「不幸」な方向へ向かってしまうのだ。
そして「不幸」になって、またぞろ世の中を呪って、そのことに安逸と快楽を覚える。うっかり幸せになって、「世の中を呪えなくなったり」したら、きっと彼にはその方が「不幸」なのだ。

冒頭でドストエフスキーが「こういう人がわが社会に存在することはひとつも不思議ではない」と書いている通り、「いや、そりゃ私にもそーゆー部分がないとは言いませんけど」とは思う。
いつまでも不遇でいる方が、「自分には才能があるのに、世の中がこの才能に気がつかないんだ」と言っていられる(笑)。
たとえそれが「正しい」ことでも、人の意見に素直に従うのは「癪にさわる」し、たとえ答えが出なくても、とにかく自分で考える方が、人に答えを与えてもらうよりずっといい。だって、「教えてもらう」ってことは、自分の方が「バカ」ってことで、相手の方が一段高い位置にいるってことだもん。自意識過剰な人間は、教えるのは好きだけど、教えてもらうのは好きじゃないのよね。

え?
いや、私のことじゃなくて、一般的な話よ〜(爆)。

こーゆー自意識過剰な人には、どんな親身なアドバイスも「よけいな差し出口」にしか聞こえず、「なんだってこいつはオレに優しい言葉なんかかけたりするんだ。オレをだまくらかそうって腹じゃないだろうな」と勝手な妄想を膨らませたりするので、まったく外部からの働きかけができない。

なので、こーゆー人の心根を直すというのは、おそらく至難の業でしょう。
でもこの「地下室の住人」に限って言えば、世の中の連中に敵意を抱いているといっても人を殺すわけではないし、人付き合いも極度に少なく、遺産が入ったらもう完全に引きこもり、卑屈で悪意に満ちた言動で時折周囲を不快にする以外は実害がない。
本人はそれで「幸せ」というか、屈辱が快感の域にまで達している天晴れな方なので、まぁ、好きにしてちょうだいというか、これも一つの生き方というか……。

うん。
彼なりに、「思い通りにはならない人生」に対する、「うまい処し方」ではあるんだよね、きっと。
発狂せず、自分も他人も殺したりせず、「幸福感」さえ感じて生きているんだから。

「ドストエフスキーは、どんな人間でも生きていていいということを書いた作家だ」というようなことを言った人がいるらしいけど、ドストエフスキーの書く人物は本当にみんなヒステリーで、過激でパワフルで、「空気を読む」どころか相手の言うことなんかまったく聞かずに滔々と長口舌。それを相手が理解しようとしまいとおかまいなし。
よくこれで生きていけるなぁ、という人たちばっかり。
あんな無茶苦茶なのに、ちゃんと一応の社会生活が営めてるんだもん、ほんま羨ましいっちゅうか。

懐深いよな〜、ロシア人。
っていうか、みんな人の話聞いてないのかな(笑)。
みんなが聞いてなければ、それはそれでうまくいく、みたいな。

どうしようもない人間だって生きていていい。
どうしようもない人間だって、ちゃんと存在できる。
人間なんてみんな、多かれ少なかれ「どうしようもない」んだ……。

ある意味、「勇気を与える」本なのかもしれない。
読むの、すごいうっとうしいけど(笑)。

でも、「よい子にしましょう」と「理想の人間像」ばっかり教えられても、自分の中にある「悪い部分」「困った部分」の「処理の仕方」っていうのは、きっとわからない。
「そういうものを持っていないのがいい人間です。そういう人になりましょう」と言われたって、現に自分には「悪い部分」があって、それを抑圧したり、なくそうとしてみても、そうそう簡単になくなったり、「よい部分」に変化したりしない。

肝心なのは、その「悪い部分」とどう付き合っていくかということで。

学校の「道徳」の授業参観に行くと、いつも不毛な気分になるのよね……。「道徳」じゃなくて「哲学」をやればいいのにな。